(4-32)普通の山
冬の山は静かだった。
木々は葉を落とし茶色い枝が見えている。とはいえ、完全に枯れた景色というわけでもない。常緑樹の深い緑が混ざり合い、冷たい空気の中にどこか澄んだ生命感を漂わせていた。
ただ――。
浩子が思い描いていた“山”とは少し違った。
「なんていうか……普通の山よね」
浩子が苦笑する。
「いや、そりゃ山だから普通に山でしょ」
忠史が言うと美樹が吹き出した。
「何その会話。普通の山って何?」
三人で少し笑う。
けれど浩子は真面目に首を傾げていた。
「もっとこう……吸い込まれるような感じを想像してたのよね」
「吸い込まれる?」
「うん。なんていうのかな……入っていきたくなる感じ」
その言葉に、忠史の胸がどくりとした。
――入っていきたくなる感じ。
奥袴狭へ続く山道。
いや山道は無かったけれど、あの時自分は確かに“呼ばれる”ように山へ入っていった。
ただの好奇心よりも少し強い感じ。
あの時の感覚を思い出す。
もう少し“この先に行かなければならない”という不思議な感覚。
「お兄ちゃん? どうしたの?」
美樹の声で我に返る。
「あ、いや……なんでもない」
忠史は慌てて誤魔化した。
まさか、母親が語っている感覚が「自分の体験したものとあまりにも近い」などとは言えなかった。
浩子は山を見上げたまま続ける。
「なんかね、もっとこう……緑の中に包まれる感じがあると思ってたの」
「へぇ……」
「別にキャンプがしたいとかじゃないのよ。ただ、静かな場所に行きたいっていうか……最近ずっとそんな気持ちになるの」
忠史は黙って聞いていた。
母は確かに変わり始めている。
山を見たいとか買いたいとか言い出したこともそうだ。
そして昨夜、自分が見たあの光。あの光は確かに奥袴狭の夜と同じだった。思い出しただけで身体の奥がじんわり温かくなるような感覚がある。
あの光の中では、自分の感覚がいつも以上に鋭くなっていたかもしれない。地面から何かを吸い上げる感覚も、指先に触れる“何か”も、いつもよりはっきり感じられたかもしれない。
(昨日はなんで寝ちゃったんだろう……)
それが少し悔やまれた。
あの中で、あの光に包まれながら何度か練習したら。
(今晩も光ったら今度こそ)
そこまで考えたところで、美樹がスマホを見ながら言った。
「ねぇ、次の場所、ここからけっこう遠いけど」
「え? まだ行くの?」
「今日はここだけにして、あとは家に帰ってのんびりしましょう。次の場所は明日とか明後日とか」
浩子は少し楽しそうだった。
「なんかお母さん、完全に山モード入ってるよね」
「何よそれ」
また笑いが起きる。
冬の澄んだ空気の中。
山道の脇で交わされる、たわいもない家族の会話。
忠史はこの時間が妙に愛おしく感じられた。




