(4-20)捲れない?
次の瞬間、忠史の視界は切り替わっていた。
冷たい夕方の公園ではなく見慣れた神河町の診療所。
忠史は小さく息を吐いた。
「本橋先生、お疲れさまです。こんばんは」
診療所の奥では、本橋がテーブルに資料を広げて待っていた。
「あぁ、遠藤くん。お疲れさま」
本橋はいつも通りだった。白衣姿に落ち着いた声、特に変わった様子もない。
その姿を見て、忠史は少しだけ安心した。
「うん、ありがとう。急に呼んで悪かったね」
「いえ」
三人は自然な流れでソファへ腰掛けた。
テーブルの上には数枚の資料と写真が並んでいる。
地図。
依頼者の情報。
周辺環境の簡単なメモ。
いつもの事前調査資料だった。
「じゃ、さっそくだけど……」
本橋は資料へ視線を落とす。
「ちょっとこれを見てもらおうかな」
忠史も資料へ目を向けた。
依頼者は高齢の男性で現在は都市部の病院へ入院中。だが本人は『最後はかつて実家のあった北陸の小さな村で過ごしたい』と希望しているらしい。
添付されている写真には山あいの集落が写っていた。冬が近いせいか全体的に色味が薄い。
人気の少ない道路。
山が近い。
そして古い木造家屋。
「けっこう淋しい感じの場所ですね」
忠史がぽつりと言う。
「そうなんだ」
本橋も頷いた。
「人口もかなり減ってるみたいでね。限界集落に近い状態らしい」
そう言いながら別の写真をめくる。
古民家。
細い道。
雑草の伸びた空き地。
どこか時間が止まったような風景だった。
「とにかく仕事を受けるにしても断るにしても、まずは現地を見ないといけないんだけど……」
本橋はそこで少し言葉を切った。
「最寄り駅からもかなり離れてるみたいで、交通の便も悪そうで……」
また止まる。
「だから渉くんに連れて行ってもらおうと思ったんだけど……」
そしてまた止まる。
忠史は少し不思議に思った。
(言い方が妙だ)
別に珍しいことではない。
本橋は普段は自分で現地へ行って調査をする。だが、アクセスが悪い場所や時間的に厳しい場所なら、渉の能力で移動することもこれまで何度もあった。
今回もその類なのだろうと思うものの、なぜか本橋は妙に歯切れが悪い。
(何がそんなに言いにくいんだろう……?)
忠史は無意識に渉を見る。
渉は静かに資料を見つめており、特に表情は変わらない。
だが、どこか考え込んでいるようにも見える。
そして本橋が、少しだけ困ったように口を開く。
「渉くんが……」
一瞬、診療所の空気が静まる。
「その場所へ捲れないんだよ」
「……え?」
忠史は思わず聞き返した。
「捲れない……?」
頭の中で言葉がうまく意味にならない。
捲れない?
そんなことがあるのか?
忠史は思わず資料を見直した。
山間の村。
古民家。
田舎の風景。
どう見ても普通だった。少なくとも写真の上では。
「え……捲れないって……行けない場所なんてあるんですか?」
「私も初めてなんだ」
本橋は静かに答える。
「もう渉くんと十年以上最期師をやってるけど、こんなことは一度もなかったんだ」
忠史は言葉を失った。
渉の能力は絶対ではないのか。
いや、そもそも「捲れない」とはどういう状態なのか。
場所が見えない?
繋がらない?
弾かれる?
想像が追いつかない。忠史は再び写真に目を落とす。
古民家。
曇った空。
山。
静かな村。
ただそれだけの風景。なのに、そこへは行けない。
その事実だけが、妙に重たく感じられた。
診療所の暖房の音だけが、小さく部屋に響いていた。




