六十三話
愛美さん達を追いかけ一人駆け出すと、すぐに再びゾンビが現れ始めた。
食堂から離れるにつれ増え始めたゾンビ、二人の背中は見えてはいるのにそれは意外な程に遠くって、もどかしい気持ちを感じながらゆっくりと距離を詰めていく。
気がつくとパラパラと振り出してきた雨、髪に服にと無遠慮に撫でつける雨粒はボクの体を満遍なく叩き、あっという間にボクも地面も隈なく濡らしていった。
―――やっぱり雨は嫌いだ。
嫌でもあの日を思い起こさせるから、トラウマを払拭出来た今があったとしたって、それは結局変わらないみたいだった。
追いかけ始めてどれ位経っただろう、最早全身隈なく濡れてしまい、もう気持ち悪いとか思う意味も無くなってきた頃、やっと愛美さんを助けるチャンスが巡ってきた。
雨で視界の悪い中でゾンビに囲まれた袴田は、片手で愛美さんを繋ぎ止めるロープを握りしめた酷く動きが制限される状況の中、四体のゾンビの襲撃に若干手間取っている様だった。
「ああ……宮地君じゃないか、そんな姿になるなんて、あんな男に現を抜かすから!」
進路的に避けられないと判断したのだろうか、それとも知り合いだったのだろうか、袴田が何かを叫びながら苛立たしげに鉄パイプを振るっている。
ボクは予期せぬゾンビの援護に謎の感謝しながら一気に駆け出した。
「全く苛立たしい!一刻も早く愛美君と愛を確かめ合いたいと言うのに!」
「ぐぅ……」
袴田はそう言いながら愛美さんを繋ぐロープを引く、無理やり引き寄せられた愛美さんは袴田の腕に無理やり収められると苦悶の声を上げた。
表情豊かで笑顔の絶えなかった愛美さん、それなのに今は魂の抜けた人形の様に表情も無く、何も感じない様にと感情を押し殺し袴田に従っていた。その痛々しい姿に涙が零れそうになる。
本当にどれ程の絶望を与えたら人はああなってしまうのだろうか、同じ女として、ううん、人として絶対に許せないって思った。
「袴田ぁぁぁぁっ!愛美さんを離せぇぇぇ!」
身体を沈めながら一気に詰め寄ると、余りと言えば余りな愛美さんの様子に思わず叫んでしまった。
それでも絶対に予想の外からの攻撃の筈だった。上を叩くと見せかけ足払いへと移行したフェイント付きの攻撃、それを袴田はそのメタボリックな身体からは想像も出来ない程の身軽さで躱わしてみせた。
「おいおい、いきなりそんな物を振り回して穏やかじゃないな、それに何より目上の者を呼び捨てにするのは感心出来ないですね、ほら言ってごらん袴田先生って、リピートアフタミー」
「うざいしキモイ!そういうのは先生って呼ばれるような、人の手本となれる生き方をしてから言ってよ!」
降り始めた雨がその強さを増して容赦なく身体を叩く、ぺたりと張り付いた髪の毛が鬱陶しく視界を遮る中、遠慮も容赦も無くゴルフクラブを上下左右から何度も振るった。
正直それは袴田なんてどうなって構わないと言う程に怒りに任せた、それこそ容赦も加減も無い攻撃だった。
しかし袴田はそんなボクの攻撃など意に介した風も無く全て避けてみせたのだ。
「このっ!当たれっ、当たれぇぇぇ!」
何度振っても当たらない攻撃、全てが当たりそうでいて、だけど当たらない。
どうしても当たらない攻撃に苛立ちと疲労が加速度的に増えていく。
今もステップ二つでボクの攻撃を避けて見せた袴田、その体型からは想像も出来ない程に流麗な足運びで避ける姿は、もしかしたら空手とか、何かしかの武術をやっていたのかもしれないと思わせるものだった。
「どうしたのですか?そんな攻撃じゃ案山子にしか当たりませんよ?」
「舐めるなぁぁ!」
安い挑発にボクは自分の攻撃が更に単調になっていく事にも気が付かないまま必死で攻撃を続けた。
更には袴田が全ての攻撃を紙一重に見せながら躱している事で、もう少しもう少しと前のめりになっていったのだ。
もしもボクに僅かにでも冷静さが残っていたのなら、その表情から完全に遊んでいた事を見て取れただろう、でも。
「あっ……ダメ、悠璃ちゃんその男はダメェ!私なら平気だからぁ……だから逃げてぇ、逃げてぇ!」
何度目かの攻撃が避けられた時になって漸く愛美さんはボクの存在に気がついたようで、助けなんていらないから逃げろと泣き叫ぶ。
「おお、君は悠璃君と言うのか!ふむ……愛美君と愛し合った後の箸休めには丁度良いだろう。よーし良いだろう、だったら受け止めてあげようじゃないか!君の愛も!」
袴田はそう言うと鉄パイプを地面に転がし、腰へと手を回し二本の棒状の物を取り出した。
まるでカタカナのトの様な形状のそれは、初めて見るけどトンファーって言う武器だと思う。
袴田はそれの長いほうを自らへと向けるように持つと目線に片手を置き、もう一方の手を腰溜めに構える。先ほどの動きを見ても明らかに何らかの経験者、それこそ無駄に戦い慣れている気がする。
構えを取った袴田は少なくともボクには隙を見つけられなかったし、それは昨日今日で試したものではなくてかなり堂に入ったものだった。
「それでも!隙がないなら作って見せるよ!」
気合と共に叫びながら、ボクは取り出したロケット花火に火を点けると袴田へと投げつけた。雨の中でも運よく火が点いてくれた花火は、これまた運良く袴田の顔の前でパンと弾けた。
僅かに怯んだ袴田へと一気に肉迫すると速度重視で殴りかかる。破裂音に驚いた次の瞬間にはボクが目の前に現れた様に見えただろう、流石に驚いた表情を見せ二歩、三歩と下がる。
逃がさない!ワンステップ、ツーステップと素早さを頼りにフェイントを入れ、三回目でフェイントと見せかけた動きに半回転を加え、ゴルフクラブに遠心力を乗せたまま叩き付けた。
途中でカットインするかのように一度ゾンビが間を割ってきていたが、しかし袴田はそれすらもトンファーで綺麗に受け流した後でボクにも対応して見せた。
「花火とは驚いた!」
「―――っ!まだまだだよ!」
叫びながら斜め右、左とゴルフクラブを何度も振るう。袴田はそれを時にはステップで躱わし、時にはトンファーで受け流し、都合十回を超えるボクの攻撃を全て捌ききってみせたのだった。
「―――それに中々良い攻撃だ。だが残念かな致命的に軽い!」
袴田はそう言うとトンファーの短い方で一度突いてくる。慌ててそれを身体を捻りながら何とか躱わすが、躱わした先ではクルリとトンファーを坂手にひっくり返し、これまでと比べ物にならない程に素早い一撃を繰り出してきた。
「ぐ、っ……!」
それでも何とかその攻撃が通り過ぎる方向へと跳ね、軌道上にクラブを置く事でその威力を幾らかでも受け流す。
ガギィィィン!と腕が痺れるような重い衝撃に眉根を歪める。正直上手く受け流せたのはただ運が良かっただけだった。
「なるほど……今のを躱わすのか、面白い」
ナメクジみたいな舌でベロリと自らの唇を舐め上げる姿に鳥肌が立つ。追撃をしてこないのは余裕の表れなのだろうか、ボクは急いでその場を飛び退ると体制を整え袴田と再び向かい合う。
それから何度お互いの攻撃を躱わしあっただろう。
ザーザー降りの雨は何時の間にか数メートル先ですら見えない程に強くなっていた。
いくら目を細めようとも雨粒が目に入り瞬きの回数が自然と増える。
静の袴田の動きに対してボクの動きは動だと思う。元々自力で負けていると言うのに、この雨はボクにとって更に不利な状況を生み出す。
やっぱり雨なんて嫌いだと何度も心の中で叫んだ。
この状況を変えるためにはやはり速度を、足の回転を速めるしかなかった。未だに余裕のある袴田は時折ゾンビの相手までしているのに、それなのにボクは未だ一発も攻撃を当てる事すら出来ていない事が酷く腹立たしかった。
本気にすらさせられていない袴田と増え始めたゾンビ、ボクはと言えば一秒毎に体力が目減りしている。刻一刻とリスクだけが増えていった。
「もう良いよぉ……もぉ良いの悠璃ちゃん、お願いだからもう逃げてぇ」
愛美さんが首を振りながら涙を零す。この空と同じく止む事の無い愛美さんの涙が雨と混じり合い地面を濡らしていた。
「っ……助けるから!」
そう一声叫ぶと同時に怒りに任せて足を踏み出した。
「―――あっ……」
しかし雨にぬかるむ未舗装の道路、足がぬかるみに取られてズルリと滑る。スリップして斜めにかしがった身体が倒れこむ、どうにかしようと必死に伸ばした手が空を切る。
「残念だった……なっ!」
顔を上げた時には袴田の厭らしい笑みが全面に飛び込んできた。まるでジャブの様に胸に突き出されたトンファー、あっと思った時には苦痛に藻掻くよりも早くもう片方のトンファーが腹部へと深々と突き刺さっていたのだ。
「がはっ……」
余りの衝撃と痛みに明滅する視界、上手く呼吸をする事も出来ずに喉からはヒューヒューと変な息が吐き出される。
一度胸を打たれた衝撃に呼吸が止まり、次いでお腹を突かれた事で完全に身動きが取れなくなった。
歴然とした力の差に涙が溢れる。
それでも諦めてやるものかと瞳を目一杯に見開きながら、崩れ落ちそうになる足をガクガクと震わせ何とか立ち上がる。
「頑張ったよ!悠璃君、君は頑張った!だからご褒美に愛美君の後で沢山可愛がってあげるからね、少し休んでいなさい」
袴田はそう話しながら、止めとばかりにゆっくりと膝を動かした。その攻撃は見えてはいるのにボクにはもう躱わすだけの体力は残されていなかった。
途切れかける意識、苦痛に大きく見開いた瞳からは意図せず涙が零れ落ちた。
苦しくて、悔しくて、力の無い自分が情けなかった。大粒の涙を零したままボクは襟首を掴まれ近くにあった部室へと引き摺られた。
いまだに言う事を聞いてくれない体はまるで自分のものじゃないみたいで、痛みに堪えながら動ける様になるまでの時間が酷く長く感じた。
ボクが動けずにいるのを見て鼻で笑った袴田は愛美さんの元へと歩を進め、しかし愛美さんはそれまでとは打って変わって「逃げてぇ!」と半狂乱で叫びながら抵抗を始めたのだ。
ボクは愛美さんが必死で稼いでくれた時間を使って何とか呼吸を整え、本当なら苦しくて今すぐ逃げ出したい気持ちを抑えて立ち上がった。
「ほぅ……」
愛美さんの抵抗を押し退け、まるで物を運ぶかの様に腕を乱暴に掴んで引き摺りながら戻ってきた袴田は、立ち上がったボクを見て一瞬だけ驚いた様に軽く息を漏らしたが、しかし驚きはしても焦る必要などない、そう言た気な余裕の表情を見せると先に愛美さんえお室内へと投げ入れた。
「袴田ぁぁぁぁあああああああ!」
相手にすらされてい無い、そんな相手の余裕にカチンと来る。
残った力を必死にかき集めて走り出し、最後の一歩と同時に身を屈めながら着地する。足払いと見せかけて伸びあがるとそこから目一杯のスピードでハイキックを放った。
―――取った!
そう確信出来る程の自画自賛出来るほどの一撃だった。
「えっ……」
だけど。完全に決まったと思ったハイキックは空中で掴まれた静止していた。今出来る最高を見せたうえで全く届かない攻撃、ボクは空中でピクリとも動かない足を呆然と見つめた。
そんなボクの片足を掴んだまま袴田は無造作に足を払ってきた。ちゃんと見えていたし分かっていたけど、でもどうする事も出来なかった。
いきなり反転した視界の中、気がつくと間の抜けた声を上げながら床に倒れこんでいた。
「残念でしたね。さて……ここからは順番を変更してのお楽しみタイムだ。悠璃君は初めてかな?ああ、答えなくても良い、どうせすぐに分かる事ですからね」
ボクに馬乗りに跨り勝ち誇る袴田、一瞬だけ過去の光景がフラッシュバックしてパニックに陥りかける。
厭らしく笑うあの男の顔が目に浮かぶ。しかしそれと同時に光の中から秋斗が手を差し伸べてくれている姿が見えた。
その光にボクは手を伸ばしかけ、しかしその場でギュッと握りしめた。今ここにいない秋斗に縋るのではなく、ボクは過去にも袴田の暴力にも最後まで負けない事を強く誓った。
こんな奴に好き勝手されるなんて死にたい位に嫌だけど、だけど汚されるのなんて身体だけだ。心までは絶対に折れてやるもんかと睨みつける。
自然とあれほど流れていた涙は止まっていた。
お前だけは絶対に許さない、お前だけには絶対に屈しない。その決意を持って強く睨みつけ、これから起こるであろう最悪に立ち向かう為の覚悟を固めた。
「良いですね良いですね!強気な少女を屈服させる事が、俺の人生で最高の楽しみなのです!精々ガッカリさせないで下さいね?」
「……」
嫌らしく笑う袴田、馬乗りのままボクの雨に濡れて張り付く上着へと手を伸ばすのが見える
―――――バンッ!
その瞬間バンと扉が開いた。
バチバチと屋根を激しく叩く雨音が室内へと洪水の様に流れ込んでくる。
雨音と共に息を切らして飛び込んできたその姿は暗闇に沈みそうになるボクを助けてくれたあの人の姿だった。
「悠璃っ!」
諦めかけた世界の中、まるであの日の紗希の様な絶妙なタイミングで現れてくれた秋斗の姿、最後まで泣かないと決めていたのに零れてくる涙。
「秋斗……っ」
外の雨音と同時に光が差し込んだ気がした。ボクは今度こそその光に手を伸ばした。




