六十一話
悠璃ちゃんが愛美さんを追いかけこの場所を離れる事数分、頭上を覆っていた巨大な雲はグッと空を押し下げ茜色に染まる直前の空を黒く染め上げた。
暫く前から振りそうだった空は我慢出来ずに雨粒となって零れ落ちて来る。最初こそ小雨だったけど、一度振り出してしまえば数分も持たずに本降りになってしまった。
そんな雨空の下、先程校舎からは雷鳴かと間違う程の破壊音が響いてきて、その余りに大きな音は思わず「ひゃう」と肩を竦めてしまう程のものでした。
「秋斗先輩も……無事でいて下さいです」
どうしても悪い想像ばかりが湧いてくる。思わず漏れた一言が聞こえたのか先輩が一度作業の手を止め立ち上がる。
「あきとんなら大丈夫だ。さっきよりは派手な音じゃないけど今も断続的に音は続いているし近付いている。心配しなくてもちゃんとこっちに向かって来てるぜ」
「確かにそう……なのです」
耳を澄ませば音は途絶えておらず、徐々にではあるけどちゃんと近付いてきているようでした。秋斗先輩が危険に曝らされる事が私達に無事を伝える事になるなんて、何とも皮肉な話だと僅かに顔を顰めてしまう。
「ったく―――ほら顔がブスになってんぞ?あきとんが来た時こっちの準備が出来て無くて作戦失敗とか笑えねぇし、ブス顔してないでさっさと手を動かせ」
ブスブスって失礼な!文句の一つでも言ってやろうと上げかけた顔が不意に下げられる。頭にかかる僅かな力は私から正常な思考を取り払ってしまう。
ゆっくりと数度撫でられる心地良い感触、思わずはぅと声が出掛かり、しかし最後にごちゃごちゃと髪の毛をかき混ぜる様に乱暴に一撫でしてから先輩は小さく笑った。
「良いな?手を動かせよ?」
「わ、分かっているのです!もう先輩は……もうっ!」
私は頬を膨らませながら矢の先端にタオルを巻きつけた。ただきつく縛るだけじゃなく何度も矢尻をタオルへと突き刺したり、ヘアピンを何本もタオルに刺しながら巻き付ける。これだけやれば大丈夫だなんて事は無いけど、それでも考えられる事全てを一本の矢に施していった。
私が矢にタオルを巻きつけ終わると、それを見ていた先輩が財布から取り出した謎の四角い包装を取り出し歩み寄って来る。初めはそれが何かも分からないまま、それをどうするのかとマジマジと見入ってしまった。
「あー、おこちゃまだと思ってた紗希もこういうのに興味を示すお年頃になっていたか、マジで感慨深いわ」
先輩が言いながら取り出したピンク色の何かを伸ばして見せた。私はそこまで見せられ初めてそれが何かを理解して顔が熱くなる。
「バ、バカじゃないのですか!何でそんな物が財布から出て来るのです……いえ、そんな事より……そんなもの……、あの、どうするつもり、です……」
こんな状況だと言うのに宜しくない妄想をしてしまう。そりゃ先輩の事は格好良いとは思うけど、何も段階を踏んでなくてですね?もう少しそう言う事は順を追って……。
「へっ?―――――ぷっ、はははっ、違う、違うって。これはこうやって使うために出したんだぜ?」
しきりに楽しそうに笑った先輩は目尻に涙を浮かべたまま、矢に巻いたタオルへとアルコールランプを傾けた。そして油で良く湿った矢先に先程取り出したピンク色のそれを被せていった。
そこまでされるとそれが雨に濡れないようしている事は明白だった。
「ははっ、紗希は俺がこれで何すると思ってそんなに焦ってたんだよ?もしかして……エロい事?」
わざと最後だけ耳元で囁く先輩の声にゾクリとする。本当にこの人は乙女心を弄ぶのが得意すぎる。
「ふっ、ふん!知らないのです!そもそもそんな物を常備しているのが信じられないのです!不潔です!」
「悪い悪い、じょーだんだ」
「もう、先輩なんて嫌いです」
きっと真っ赤になった顔、私はそれを見られたく無くてわざと必要以上に怒った振りをしてそっぽをむく。
近くからはくつくつと笑う先輩の声がしっかりと聞こえてきて、それがまた一段と恥ずかしさに拍車をかけた。
しかし、そんな嬉し恥ずかしな空気が急に一遍する。
再び起こった地面を震わせる程の轟音、その音はこの戦いのクライマックスを盛り上げるかの様に世界に響くのだった。
雨足が強まり視界は悪くなる一方の中、時間の経過と共に酸素を求めて肺が抗議行動を起こしている。
ロッカーがミサイルの様に飛来するなんて言う馬鹿げた攻撃はあの一度だけだったとは言え、背後から迫る気配は徐々に接近しつつある。
「クソッ……引き離せないっ!」
どこかで引き離さなきゃとは思っていても、あの馬鹿げたロッカーミサイルがもう一度来るかどうか気になり、ただ真っすぐ走るという簡単な事を実行に移す勇気が持てなかった。
落ち着く暇も無い呼吸と同時に目減りしていく体力、気が付くとそこそこ離れていた筈の黒いゾンビの姿が一気に近付いていた。
―――っ!
視界一杯に黒い塊が浮かんでいた。それが俺に向けられた黒いゾンビの巨大な拳だと気が付いた瞬間、俺は考えるよりも早く真横へと飛べるだけ飛ぶとそのまま転がった。
頭上を轟音が通り過ぎていく、何とか避けられた事に息つく暇も無く迫る追撃が目の端に映る。
「うおぉぉっ!」
絶叫しながらも回転の勢いそのままに、地面に手を突きハンドスプリングで少しでも遠くに逃げようと必死に足掻く。
間一髪飛び退いた瞬間、黒いゾンビの垂直に振り下ろされた拳が地面へと突き刺さり、爆弾でも落とされたかのように周囲に礫と土煙をまき散らした。
背中に礫がぶつかる痛みに顔を顰めながら、それでも何とか立ち上がると更に二歩三歩と距離を取って振り返る。
地面に出来たクレーターは先程の一撃の威力を物語る。
先程まで廊下だった場所は床が大きく吹き飛ばされ、黒いゾンビの足元はそこがまるで地下室の様に抉れており、今は瓦礫を押し退けてそのクレーターの下から睨みつけてきていた。
ピンチの直後に生まれた好機、突如目の前に転がってきた好機を少しでも生かすべく、そこからは一切後ろを振り返ること無く必死で食堂まで走るのだった。
少し前よりガスの臭いの濃くなった食堂内、肺は酸素を求めて全力で不満を訴えて来るが、こんなガスだらけの空気を吸って堪るかと必死で吸わない様に走り抜ける。
背後からはしっかりと追いかけてきてくれたゾンビの雄叫びが轟く、漸く食堂を抜けた俺は林へと足を向けた所で二人の姿を見つける事が出来た。
睦月はこっちへ来いと手を大きく振り、既に紗希は弓構えの姿勢をとりこちらを睨んでいた。
二人の姿を見つけ何とかここまで逃げて来れたと胸を撫で下ろす。しかしそれと同時に睦月の声が聞こえた。
「止まるなあきとん!走り抜けろっ!」
睦月のその言葉に僅かに緩めかけた速度を必死に上げる。そして二人の真横まで辿り着いたタイミングで紗希の指から火矢が放たれた。
―――ヒュン。
耳の真横を通り抜けていく音がする。
慌てて木の裏へと身を隠し体を丸めて耳を塞ぐ。
「―――――――――――!」
直後世界が白く染まった。
白く覆われた世界を静寂が包み込む。まるで世界が動くことを忘れてしまったかの様な一拍の間、光から僅かに遅れたタイミングで鳴り響く轟音、それは目の前の電柱に雷が落ちた時の音を何倍にもしたような大きさで、その音は空気だけでなく大地すらも容赦なく震わせた。
爆音、爆風共に想像以上の規模で起こり、それによって吹き飛んだ破片が周囲を乱舞する。
背中を預けている木が爆発の余波で大きくしなり、そのしなりが更に大きくなったかと思うと、それ程時間を置かずにメキメキという不安な音を立て始めた。断続的に細かな音が鳴り、目に見えて角度が傾いてきた時には本気でヤバイと思ったし、実際後少しでもこの時間が続くようだったらダメだった気がする。
永遠にも思える程に長く感じる数秒間、専門的な知識も無く、全てが多分これ位だろうの大雑把で雑な想像が招いた危機的状況、今は生きている事に感謝するよりなかった。
「結構危なかったんじゃね?」
「は、はは……完全に予想以上の爆発だった」
睦月の視線を追いかける様に周囲を見回してみる。食堂は全ての窓が、と言うよりは壁も含めて広範囲に吹き飛んでいた。かなり見晴らしも風通しも良くなってしまった食堂を眺め、よく生きていたものだと冷や汗を掻く。
「あ、あ……の……先輩?少し恥ずかしいのでそろそろ放して欲しいのです……」
睦月の腕の中では羞恥に顔を染め上げ上目遣いに見つめる紗希は、爆風から守ろうと抱きしめたままの睦月の腕の中で身動ぎした。
「ああ、悪いな、忘れてたわ」
「い、いえ、守っていただきありがとです」
睦月が腕の力を緩めたのか、紗希が慌てた様子でそこから脱出すると少し慌てた様に謝辞を口にした。
しかしそうして距離を取って改めて自らが雨でずぶ濡れな事に気が付いたのか、濡れて張り付いてしまった服が体のラインを強調してしまっている体を抱きしめる様に隠した。
「あー……なんていうか、エロいな」
「ちょっ……何か他に言う言葉は無かったです!?」
確かに顔を赤らめ濡れた体を掻き抱くその様は俺から見ても十分に扇情的で、そんな事を思った事を僅かにでも気付かれない様そっと目を背けた。
「ほれ、これでも着とけ、いくらかはマシだろ?」
睦月は自分が着ていた薄手のパーカーを脱ぐと紗希の頭の上に乗せた。突然前が見えなくなったからか慌てた様子の紗希を見下ろしながら薄く笑うその姿は、やっぱり何をしても絵になるなと感心させられるものだった。
まるで巨大な竜巻でも発生したかの様に破壊された食堂、果たして黒いゾンビを倒せたのだろうか、それを確かめる為にも食堂の中へと入る。
足を踏み入れ見渡した食堂内には、無事なテーブルや椅子なんかは一つも残って無いし、爆心地になった半地下の調理室は押し潰されてクレーター状に凹んでいるのが見える。
壁は所々が吹き飛ばされ穴が開き、校舎側がある程度無事ではあるが他は五割程度が吹き飛ばされていた。
流石にこんな状況だったら倒せたんじゃないか?そんなフラグめいた事を考えた瞬間だった。再び世界に響いたその咆哮でどこか安心しかけた空気が一変する。
『ガァアァァアアアアアア!』
押し潰されたクレーター、その中心部の大地が弾け飛び、底の部分で立ち上がる黒いゾンビが見える。
不気味に光り輝く赤い瞳はまだ戦いが終わってはいないとばかりに声を轟かせた。
「そう簡単にはいかないか」
バットを構えて何時でも動ける様にと身構える。しかしそんな俺を押し出す様に睦月が前に進み出てくると厳しい表情で俺を見る。
「あきとんストップ!あれでも倒せなかったら言おうと思ってたんだけどな、愛美さんと袴田を見つけた。それを今は悠璃が追いかけてるんだけど、めちゃくちゃ嫌な予感がする。そんで俺のこういう予感は大抵当たる。だからここは俺と紗希で何とかするからよ、あきとんには悠璃を頼めないか?」
睦月は厳しそうな表情を浮かべながら、視線だけは黒いゾンビへと向けたままでそう話してきた。
「見えないなって思ったら愛美さんを……、でもそれって黒いゾンビを倒してから皆で行くんじゃダメなの?」
「わっかんねぇ、もしかしたらそれでも全然余裕かも知れない、だけどめちゃくちゃ嫌な予感はする」
まるでこちらの出方を伺っているかのような黒いゾンビ、だけど何時までもはそうしていないだろう事だけは分かる。あれはどんなに死にかけてもその動きが止まる瞬間まで俺達を殺しに来るだろう。
どうする事が正しいのかと僅かに逡巡する。
「……分かった」
その決断は睦月の予感を信じた事と、後で後悔しない為にだ。
きっと二人なら最悪逃げる事は出来るだろう。だけど悠璃は愛美さんを置いて逃げる事が出来ない気がしたのだ。
「……紗希、むっちゃんの事頼んだよ」
「任せるのです!悠璃ちゃんの事をお願いするのです」
「ああ、それじゃぁむっちゃんこっちは任せたよ!無理だと思ったら安全第一で」
「オーケーだ。そっちも十分に気を付けろよ」
「あっ、悠璃ちゃんは部室棟の方向に向かったのです」
「了解!」
この場を二人に任せると決めた俺は、クルリとその場で反転すると部室棟へと走り出した。
背後から聞こえてくる黒いゾンビの咆哮、それはまるで逃げるのかと言っているかの様に聞こえてくるのだった。




