五十話
「悠璃ちゃん?動けますか?悠璃ちゃん!」
私の傍にしゃがみ込み心配そうな紗希の顔が見える。
あ……今すぐ立ち上がるから、ごめんね心配掛けてと慌てて全身に力を籠めた。
さっきまで何も考えられない程に取り乱していた気がするけど……紗希の顔を見て少しだけ落ち着いた気がする。
でも―――あれ……おかしいな……?何でだろ?体が動かないんだ。まるで心と体が別々になってしまったような奇妙な状態、なんか心だけが空中をふよふよとしていて困惑する。
寒気と吐き気が断続的に襲い掛かり、まるでインフルエンザを酷くした様な症状だった。早く動かなきゃなのに、分かっているのに、口からはひゅーひゅーと喘息の様な息が漏れ出し呼吸まで上手く出来ない、本当にどうしよう……。
「悠璃ちゃん……もしかして」
「……っ」
震える脚に力を込めて何とか立ち上がろうとするのだけど、額には脂汗がビッシリと浮かんで立つ事さえもままならない。
どうしよう、このまま紗希や秋斗まで殺されちゃったら……。
そんな風に思い悩んでいる時間があれば歩き出すのが正解だった。過去のトラウマのせいでこうなっている事なんて自分が一番分かっているのに、それに立ち向かい一歩を踏み出せず、過去に躊躇い立ち竦んでしまった。
そんなんだからゾンビが目の前に現れるまで気付きもしなかったんだ。
「悠璃!動けるか?立てそうならすぐに逃げるぞ」
今も何体ものゾンビと戦いながら、それでもどうにか助けてくれようと必死の形相を浮かべて戦っていた秋斗、そんな秋斗がゾンビ達をどうにか躱してボク達の元へと駆けつける。こっちだと手を差し出してくれたのが見える。
秋斗の温かな手がボクの手を取り、引き寄せようとしてくれているのが分かる。本当に優しい手、分かっている筈なのに……。
―――ジジ、ジジジリジジ……。
頭に酷いノイズがチラつき、スライドショーの様にイヤらしい顔をしたあいつの顔が何度も何度も浮かび上がる。
ダメ、ダメ、ダメ、ダメ!その記憶はダメ!
記憶の箱、その奥のほうへと押し込んでも押し込んでも、ふとしたきっかけで勝手に浮かび上がってくる最悪の記憶。
映りの悪いブラウン管のテレビのように、雑音混じりの薄ぼんやりとした画面にノイズを走らせながら、無理やりあの日の記憶が再生される。
(ほら、こっちに来るんだ)
嫌……。もう出てこないでよ!
(ほら、こっちにくるんだ!)
嫌、嫌だ……。嫌なの!誰も私に触れないで!
(「悠璃!」)
「いやぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!」
ボクは大声で叫ぶと繋いでいた手を無理やり払いのけた。それは完全に無意識だったのだけど、その無意識での行動が起こってはいけない悲劇を起こしてしまった。
これは世界が変わってしまう日の二日前のお話し、あの日のボクはまだ変わらない明日が絶対に訪れると信じて疑う事などありませんでした。
「悠璃ちゃん?何を書いてるのです?」
「うわぁ!ビックリしたなーもぉ……。紗希、来たなら来たって教えてよー。って言うかどうしたの?まだ約束の時間のかなり前だよ?」
「何度も話しかけたのですよ?ですけど悠璃ちゃんが熱心に書き物していて気がついて貰えなかったのです……。宿題でもしていたのです?」
「ううん、日記、昨日途中まで書いて寝ちゃって……。だからその続きを書いてたんだよ」
気恥ずかしくてパタンと閉じた日記を引き出しの中へと慌ててしまう。
「へぇー悠璃ちゃんも日記つけているのですね?私も毎日書いているのですよ。ちなみに悠璃ちゃんはどんな事を書いているのです?」
「え?普通の事だよ。漫画や小説じゃあるまいし、そんなに毎日面白可笑しい事なんて起きないもん」
「えー?普通なのですか?まぁそうですよね。ある意味普通が一番です。でもでも、ああいう日記って後から読むと懐かしい気持ちになりますし、何ていうのですか?忘れていた気持ちとか記憶とか、そういう事も思い出させてくれるのでたまに読み返すと面白いです」
「そうなんだ?ボクはあんまり読み返す事無いかもしれないかもなぁ」
「そうなのです?あ、日記書くの途中まで止めさせちゃったんじゃないです?私、この間途中まで読んでた漫画でも読んで待ってますから、良かったら書いちゃって良いのですよ?時間が過ぎていくにつれ、過去の事は段々と忘れちゃうものです」
紗希はそう言うと答えを待つ事もなく本棚へと向かい、お目当てだったのだろう漫画を手に取った。
部屋の隅っこの方で壁に背中を預けてそれを読み始めた紗希は既にこっちの事なんて気にしてもいないようだった。
どうやら紗希は一昨日来た時に読んだ漫画の続きが気になり、約束の時間よりも早く来た様だった。
既に漫画に没頭している親友の姿に少しだけ苦笑いで見つめながら、まっ良いか折角だし最後まで日記書いちゃおう。そう思い直し引き出しから日記を取り出した。
少し思い出しながら書いたけど、昨日は平日だし本当に何も無かった。
はぁ……これでも女子高生なのになぁ、何も無さ過ぎてもう笑う事しか出来ない。
でもボクの場合は男の人が苦手だし、縁がないのも仕方が無い、と言うか当然なんだけど……。
良しっと、これで書き終わった。
「お待たせ、書き終わったよ?」
そう声を掛けながら紗希へと視線を移すと紗希は前のめりになって未だに漫画に熱中していた。
丁度良い所なのだろうか?前のめりになりながら読みふける紗希を見て、邪魔するのも悪いなと思い、何となく日記の最初のページを捲った。
中学生になってから付け始めた日記、それは楽しい事よりも嫌な事がどうしても思い出されてしまうからと本当に読み返した事の無い記録だった。




