四十九話
「ひっ!……ぁああ」
まぁ考えて見れば当然なのかも知れない、ここまでドタバタと騒ぎたて、歓声に叫び声にと無遠慮に音を立てまくっていたのだ。
だからこんな状況に陥っていたのは仕方が無いし、その光景を誰よりも先に見てしまい悲鳴を上げてしまった実を責める事など誰も出来はしなかった。
ペシン。
ペシン、ペシンペシン……。
ペシン―――ダダダダダダダダダダダダダン!
ベランダ側の窓一面に張り付く手、手、手……。真っ赤な無数の手形を残しながらジーっとこちらを覗き込む様に見つめる幾十もの虚ろな瞳。
それを直視してしまった実が僅かに悲鳴を漏らし、そして尻餅をついてしまうのも当然だった。
―――ガダガタン!
尻餅をついたと同時にその背中が机にぶつかり大きな音が鳴り、そして当然の様にそれは新しい混沌を運んできた。
―――ガシャン!ガシャン!ガシャァァァァァァァァァァン!
ガラスを突き破りそこには何本もの腕が生える。
悪夢のような光景、しかしキラキラと無数に飛び散る光の欠片はある意味では幻想的な光景、そんな煌めく破片を撒き散らしながら停滞していた時間が動き出した。
「実ぃぃぃ!ダメだ皆逃げろぉぉぉぉ!」
真っ先に尻餅をついていた実がゾンビに襲いかかられた。窓際だったという場所も最悪だった。
その両目から涙を零しながら、しかし喉元を食い千切られた実は叫ぶことも出来ずにパクパクと口だけを動かす。
「実ちゃん……?実ちゃん!いや!いやっ!いやぁぁぁぁぁぁあああああ!」
萌花が実の姿を見つめて手を伸ばす。全身を実の血で真っ赤に染めた萌花は、尻餅をつくと両目から赤く染まった涙を流しながら大きく首を振った。
目の前で起こってしまった最悪、それでも萌花は必死に逃げ出そうとずりずりと後退ろうと手足を動かした。
しかしその場を動く事は出来なかった。がっしりと萌花の足首を掴んだ実は、声にならないままパクパクと口を動かす。
両目からは涙を流しつつ、その口は確かに「たすけて」と動いていたのだった。
「放して!お願い放して!放してぇぇぇぇぇ!」
掴れた手を引き剥がすように脚を引く萌花、その顔からは正気は失せ明確な狂気の色が浮かんでいた。
しかし尚も助けてと縋る実の手を蹴り付け、何とか逃げる様と後ろを振り返る。
「―――あっ……」
見なければ良かった。きっとそう続いただろう言葉は、目の前に迫ったゾンビの無数の姿に掻き消された。
「おっとこれ以上の長居は無用だな!後は戻ってから楽しむとしようか愛美君!お前等も自分達の女は自分達で連れて来いよ!」
「うっ、この状況でマジっすか!」
男達から悲鳴が上がる。そんな野太い悲鳴を背中に受けながら、袴田は愛美さんを抱えたまま廊下へと駆け出していった。
愛美さんが「助けて」と悲痛な叫びをあげている。
しかし一瞬で二人の命が消えてしまった事に動揺して追いかけるタイミングを逃してしまった。
今にも教室から連れ出そうとされている悠璃に至っては錯乱状態で会話すら出来そうな状態ではない。
実と萌花には可哀そうだけど今は悲しむだけの暇すら無かった。このままだと二人が連れ去られてしまう。それだけは阻止しなければいけない!
萌花と実と殆どの時間を一緒に過ごしていた花子は頭を掻き毟り、その視線を忙しなく揺らす。
そんな中、誰よりも冷静だったのが紗希だった。
矢を番えピタリと静止した綺麗な姿勢のまま、小さな呼気と共に放った矢は一直線に悠璃を掴んでいた男の腕へと突き刺さり、その男には苦痛と絶叫を、周囲の男達にはこれ以上ない動揺を与えた。
「秋斗先輩!私が援護するので悠璃ちゃんをお願いしたいです!」
「―――了解!海先輩、カノン先輩!花子をお願いします!」
言うが早いか俺は悠璃の元へと駆け寄ると男達へとバットを突きつける。すると未だに矢で射られる事に動揺したままの男達は慌てて廊下へと飛び退り、逃げるか、それとも悠璃を手に入れる為に戦うかを悩んでいる様だった。
すぐに駆けつけてきた紗希が矢を番えたまま悠璃へと声をかけた。
「悠璃ちゃん?動けますか?悠璃ちゃん!」
「さ、き……?」
幸いにも紗希の声に反応した悠璃は幾分落ち着きを見せた気がする。しかしその場でペタリと座り込んだ悠璃は虚ろな表情を浮かべ、パッと見すぐには動けそうも無かった。
まるで動くために必要なエネルギー、それを根こそぎ全て奪い取られてしまったかの様な表情だった。
悠璃が動けない、愛美さんは攫われてしまった。
……実と萌花はゾンビの手にかかってしまった。
混乱に混乱を上塗りしたようなこの状況で、しかし事態は更に混乱を深めていく。
それまで思案顔を見せていた海先輩がガバット顔を上げたかと思うと、廊下を厳しい目付きで睨みつけたかと思うと急に駆け出して行ったのだ。
「ごめんなさい!私は愛美を助けに行く!ごめんね稲田君!皆を連れて逃げて!」
「海っ!モーウ!すぐ勝手するのデース!すみません私も追いかけるのデース」
海先輩を追いかける様に駆け出して行ったカノン先輩、俺は分かったとも皆で行こうとも言う暇も無かった。そしてそんな二人を男達三人が後から追いかけて行ったのを見て睦月も動き出す。
「あきとん俺が追いかけるから!後で部室で合流するぞ!こっちの皆の事は頼んだからな!」
そう言い残し駆け出して行く睦月の後ろ姿に「頼んだ!」と声をかける事だけで正直精一杯だった。
三人が廊下へと消えた後、未だに呆然としている花子に「逃げるぞ」とそう声をかけた。
今にも教室から出て来そうな大量ゾンビに気ばかり焦る。ただもうこれ以上仲間を失って堪るかと必死だった。
そしてただ必死なだけだったからこそ、俺は……何度も何度も失敗をする。
「悠璃!動けるか?立てそうならすぐに逃げるぞ」
悠璃に一声かけて紗希へと視線を移す。まずはここから逃げ出さなきゃ、頭の中はその事で一杯だった。
そしてそれは完全なる俺の不注意だった。
逃げる事に頭を支配され、そして同じく様子のおかしい悠璃にだけ気持ちを向けてしまい、もう一人完全に様子のおかしい花子の事を気にかけてやるだけの余裕を失っていたのだ。
「つーかまーえた」
「え……あ、ああ……ああああ!」
正直言えばこれだけゾンビに周囲を囲まれた状況でそんな事は起こらないだろうと高を括っていた。
しかし現実には男から押し倒された花子は腹ばいに倒れていた。
「い、いやっ……やだ、やだよぉ……、もういやぁぁぁぁぁぁ!」
「ちっ!大人しくしろ!おい!」
その小さな体のどこにそんな力があったのだろう。花子は腹ばいの体勢のままで教室の中へと這いずりながら逃げて行ってしまったのだ。
絶叫しながら必死で逃げる花子、そしてその花子にしがみ付いたままの男も焦って喚き散らす。
結果として一気に蠢きだす黒い気配、憎悪の視線が一ヵ所へと集中した。
まるで統一された意思でもあるかの様に、そこに向けて動き出した悪意の塊が殺到する。最後まで抗う男の声とは真逆に、黒い津波に飲み込まれた花子は悲鳴一つ上げる事無く、男の無残なその姿を見て暗く笑いながらその姿を消していったのだった。
「花子!くそっ!くそぉぉぉぉぉぉぉ!」
こうなってしまってはもうどうする事も出来なかった。笑いながら消えていく花子の姿に目を背け、未だに瞳の焦点も合わない悠璃へと駆け出した。
一刻も早くここから逃げ出そうと、俺は花子の死を悲しむよりも焦っていたのだ。
そしてその焦りは最悪をさらに更新する最悪を生み出した。
あれほど身体的接触が得意じゃないかもと睦月に言われていたのにも関わらず、俺はまたしても悠璃の手を取ってしまったのだ。
今の悠璃は普通じゃない事は一目で分かっていた筈なのに、それなのに俺の不用意な行動が悠璃を追い詰め苦しめる事になる。
「悠璃!」
「いやぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!」




