第2章 充実の毎日
「先生。これ見て!」
次の日、カウンターに座る恵美莉は、桧垣に左手の甲を突き出した。
「お、誕生日プレゼント? ルビーだね~。よかったじゃない」
「はい」
恵美莉が受付のアルバイトをする学生相談室で、悩み多き学生たちの相談役としてカウンセリングを行っている桧垣助教授は、彼女の薬指に着けているリングが変わったことに気づいて言った。そして事務机の椅子をコロコロしながら近づいて、
「それ、プラチナ?」
「ううん、ホワイトゴールドです」
恵美莉は椅子を少し後ろに引き、左手を伸ばして受付カウンターの上に置いて見せた。
「前のはシルバーだったから、ランクアップしてもらったの?」
桧垣は何遠慮なく、恵美莉の左手をつかんで、指輪を見た。
「ううん、頼んだりしてないんですけど、あたしは金より銀色のほうが似合うからって、これくれたんです」
嬉しそうに笑顔で言う恵美莉。
「ほう、彼氏、カラーコーディネートのセンスあるね。よく映えるよ」
「うふふ、ありがとうございます。プラモで色塗りしてるから慣れてんですよ、きっと」
「ははは、プラモと一緒にされちゃ困るでしょ」
「へへへへ」
「じゃあ、えぇ~っと、今日は4時半からの予約が1件だけだから・・・」
そう言うと事務机の上に置いたカバンの中を、何やらモソモソとかき分けている桧垣を、恵美莉は少し待った。そして桧垣が取り出したのは、表面にリボンを貼り付けた上等そうな紙袋だった。
「あ~ん。ありがとうございます」
「はっはは。もう貰えると思っちゃった?」
「え? ちょっとフライングしたかな?」
「“いいこと”してくれたら、あげようかな~」
桧垣の顔が急にニヤケだした。
「もう、先生。最近そればっかりじゃないですかぁ~」
「今日のアルバイトは、今から1時間くらいすることないからねぇ~」
「新しい指輪してるのに困りますぅ。昨日、春樹君と1周年を祝ったばっかりなんですよ」
「ふふふん、僕のは単なるバースデープレゼントだから」
「春樹君のことは気にするなってことですか?」
桧垣は頷きながら、紙袋を恵美莉に手渡した。恵美莉は少し顔を近づけて、まっすぐ笑顔を見せてから、その紙袋を開けた。
「あれ!?、これネックレスか何かですか?」
「うん。ペンダント」
「ありがとうございます!」
中に入っていた細長い箱を取り出すと、
「なんと! “4℃”じゃないですか。すごく嬉しいです。開けてもいいですか?」
「うん、開けてみて」
ケースの包装紙をパリパリと少しずつ開けようとする恵美莉に、桧垣は突然手を出して、ビリッと破らせた。
「あん!もう!! せっかく丁寧に開けてるのにwww」
恵美莉は咄嗟に桧垣に近寄り、右の手のひらを振り上げながら言った。そして笑いながらケースを開けると、中にはプラチナチェーンのルビーのペンダントが入っているのを見て更に笑顔になった。
「これも誕生石。先生ぇ、ありがとうございます」
桧垣はそのペンダントのチェーンを優しくつかんで持ち上げて、
「着けてあげるよ」
「はい」
恵美莉はくるっと背中を向けて、その髪を少しかき上げて静かに桧垣を待った。桧垣はチェーンの留め具を外し、恵美莉の胸元にペンダントトップを載せて、彼女のうなじのあたりで、その引き輪を留めた。
「ありがとうございます。すごいきれいな色」
「そうだね。よく似合ってるよ」
そう言いながら恵美莉の背後から、チェーンのゆがみを整えてペンダントトップを胸の谷間に置くと、桧垣は軽く彼女の乳房を両手で触った。
「やん!」
「ふふふ、たまらんねぇ」
「だからダメですって!!!」
笑顔のままで怒る恵美莉。
「じゃ、お礼のキスは?」
「う~ん。それもお預けです。暫くはキレイなままでいたいので」
今度は桧垣から顔を背けて距離を置いた。
「彼氏には勝てないか」
軽く苦笑いして見せる桧垣。
「はい。残念ですけど、先生とはまた今度」
「じゃ、その時は逃がさないぞ」
無理に口説き続けず、あっさりと引き下がっておく桧垣は、さすが心理学の助教授である。
「そうか、誕生日だったのか」
その日の晩、エルモのカウンターに座る恵美莉に、ヒデキが笑顔で言った。
「そうですよ。もう21になりました」
「へえ。お前もっと大人に見えるけどな」
「背がでっかいからでしょ」
「いやいや。色っぽい体してるからな」
「いゃん。何言うんですか」
「そうやって大人になっていくんだよ」
「変な意味で言ってるでしょ。そんなこと言うのマスターだけですよ」
そう言ってバーカウンターに頬杖を突いて、マスターのヒデキが、カウンターの空いた席のグラスを片付け始めたのを眺めている。
「でも今のお前、絶好調って感じだな」
「ええ? どこがですかぁ?」
「あっち行ったり、こっち来たり、どこにでも顔出して」
「う~ん、実は今の彼氏は束縛がなくって、楽なんですよ」
「へえ、前の彼氏はガッチガチに束縛するタイプだったのか」
「そうじゃなくって、あたしのほうが元カレにべったりだったんだと思うんです」
「ラブラブってこと? なのにどうして別れたんだよ」
「ラブラブってことじゃなくって、もう家族みたいになってて。だって7年も付き合ってたんだから」
ヒデキはカウンターから出て、水で絞ったダスターでフロアのテーブルを拭きながら、横目でチラチラ見ながら話した。
「中学ぐらいからか?」
「うん。あたしその元カレしか知らなかったから、今の生活が新鮮で楽しぃんですよ」
「だから浮気ばっかりしてんだろ」
他の客に聞こえないように小声で言ったが、そんな会話もBGMにかき消されている。
「そんなことないですよ!」
恵美莉は背筋を伸ばして言い返した。
「でもあっちこっち飛び回ってても、そんなことがないと楽しくないだろ」
「ひひひ~、そうかも~って、ち・が・うでしょ!」
「そぉそ、そのノリ、ウケがいいところがノッテル証拠」
「今は誕生日だったから、みんなプレゼントくれたり、おごってくれたりしてるだけですって」
「じゃそんなお前に、俺も誕生月の酒、御馳走してやるよ」
「やりぃ~! 実はそれ期待して来たんですよ」
「だろうな」
「へへへ、バレちゃってました?」
ヒデキはカウンターの外から目の前に並ぶボトルを二つ握った。
「お前見てたら。遠慮不要だもんな」
「何がですか?」
「簡単に口説けそうってことだよ」
「ええぇ! なんでそう思うんですか?」
「彼氏には鍵かけておいて、自分は自由ってな」
「違いますよ! そんなことしてませんよ。彼氏とは今もいい関係なんですから」
「なら、心配事も何もないなら、自由に遊びまくれるじゃないか」
「だから違うんですよ。心配事はあるんです」
「例えばどんなこと?」
「・・・元カレがね・・・帰ってくるんですよねぇ~」
「元カレって、その外国に行ったってやつ?」
「そう。それが突然金曜に帰ってくるんです」
「ああ、そういうことか」
「何が?」
「元カレをキープしたまま、今の彼氏と付き合ってたのか」
「ちがう。そうじゃないですよ! 別れたはずなのに、あんまり気にしてないみたいで、元カレ」
「どうなるか見ものだな、また進展があったら話しに来てくれ」
ヒデキは恵美莉の隣で、ボトルからゆっくりグラスに注ぎ、赤いカクテルを作り、最後にレモンを添えて、
「はい、ハッピバースディ!」
そう言ってカクテルグラスの底部を、親指と中指で挟んで恵美莉の前に差し出した。
「うわぁ。きれいなカクテル。なんていうんですか?」
「スロー・ジン・フィズ」
「へえ、赤いジン・フィズなんだぁ」
ヒデキは恵美莉の隣のカウンターチェアに腰かけた。
「7月の誕生石ルビーにちなんだカクテルで、情熱を象徴する永遠の愛の証とか何とか」
カクテルを見つめながら説明すると、
「えぇ? 愛の証?」
恵美莉は少し驚いた口調で言った。するとヒデキは恵美莉に視線を向け直した。
「お前は純愛から程遠い熱愛のほうだな」
「それ、褒めてないでしょ」
「俺みたいな浮気相手から贈られてるんじゃ、仕方ないだろ」
今度は、耳元に近づいて言った。
「う~ん。確かに、受け取っていいものかどうか?って気がしてきたじゃないですか」
と困ったふりしながらも笑顔で話す。
「おいおい、拒否しないでくれよ。せっかく作ったのに」
「ありがとうございます。素敵なカクテル」
「じゃ。今日は、店終わるまでいてくれよ」
ヒデキはまた、恵美莉の耳元で言った。
「えぇ!? ふふふふ・・・今は彼氏とラブラブな時ですからダメですよ」
「いいじゃないか。久しぶりに」
そう言うとヒデキは、恵美莉のお尻を軽く撫でた。
「ん、コラ! 昨日、彼氏との1周年祝ったばっかりなんで!」
「俺たちも関係持って、そろそろ1周年じゃないか」
「過ちの関係に記念日なんかありませんから」
恵美莉は横目で睨みながら、カクテルに口をつけたが、
「!・・・えッ! めっちゃ濃い。何企んでるんですか!?」
恵美莉の日常はうまくいっていた。しかし颯介からのLINEが来てから、少し行動を自粛しなければいけないと思い始めていた。
1年間の交際では、活発な性格の恵美莉に対して、春樹はおっとりした性格だったために、別々に行動しても、趣味嗜好の対象が違っても、お互いそれを気にするような性格でもなかったので、束縛し合うこともなく、その関係は安定していたのだ。
しかし、恵美莉からすれば、少し刺激が足りない相手だったのかもしれない。その分彼氏以外の友達と過ごすことも多く、どこで何をしていても気にしない春樹に対し、恵美莉は逆に、春樹はどこでどうしているのか、簡単に把握できるほど単純な行動パターンの男だった。だからこそ恵美莉は自由に行動できた。
元カレの颯介とは家も近く、彼の両親とも十分知り合えており、その関係はまるで家族のように深かったのだが、その相手一筋という期間が実に7年にも及んでいれば当然であった。しかしそれにより、恵美莉の行動範囲も限定され、安定という日常に慣れてしまっていたのだ。それに比べると今の恵美莉は、日々刺激を求める全くの別世界の住人のような感覚なのである。




