第九話 下駄箱の手紙
月曜日の朝。
下駄箱の、ぼくの靴のところに、白い紙がはさんであった。
ふたつ折りに、なっていた。
開くまえから、なんとなく、心臓が、すこし、はやくなった。
開いた。
きれいな、まるっこい字、だった。
『放課後、写真クラブのあと、少しだけ、お話したいです。みなみ』
ぼくは、紙を、もう一度たたんだ。
それから、もう一度、ひらいた。
字は、変わらない。
紙の色も、変わらない。
下駄箱の前に、ぼくは、ずいぶん、立っていたらしい。
絵島が、後ろから、ぼそっと、声をかけてきた。
「お前、なに、固まってんの」
「えっ」
「靴、はけよ」
「あ、はい」
ぼくは、紙を、ポケットにしまった。
絵島は、ぼくの様子を、ちらっと見て、それ以上は聞かなかった。
朝の昇降口の、にぎやかな声が、ぼくの耳に、すこし、遠く、聞こえていた。
* * *
一時間目から、頭の中が、ぐるぐる、していた。
ノートに、字を、書いていたつもりが、いつの間にか、丸ばっかり、書いていた。
二時間目には、丸が、四角に、なっていた。
三時間目には、四角の中に、また、丸を、書いていた。
絵島が、ぼくのノートを、ちらっと、見て、ぼそっと、言った。
「お前、図形、進化してんな」
「うるさい」
「悩みごと?」
「うるさい」
「うるさいしか、言わなくなったな」
「うるさい」
絵島は、ふんと、笑って、自分のノートにもどった。
ぼくは、教室の前のほうの、みなみの席を、ちらっと見た。
みなみは、いつものように、本を読んでいた。
こちらを、見なかった。
ぼくのほうを、見ているような、気が、すこしだけ、した。
たぶん、気のせい、だ。
たぶん。
* * *
昼休み。
給食を、食べるはずだったが、ぼくは、食パンを、半分しか、食べられなかった。
絵島が、横で、おかわりに行った。
「お前、それ、食わないなら、よこせ」
「やる」
「マジか、お前、これ、揚げパンだぞ」
「やる」
「お前、相当だな」
絵島は、ぼくの、揚げパンを、もぐっと、口に入れた。
それから、ぼそっと、つけ加えた。
「死ぬなよ」
「死なないよ」
「いや、お前、揚げパンに、手をつけないとか、人生、終わってる人の、サインだぞ」
「絵島の人生観、どうなってんの」
絵島は、もぐもぐ、しながら、肩をすくめた。
ぼくは、コップの牛乳を、ちょっとだけのんだ。
牛乳は、ふつうに、つめたかった。
つめたいのに、口の中が、ちっとも、すっきりしない。
胸の、まんなかが、ずしっと、おもい。
下駄箱の、白い紙の、まるっこい字が、ノートの中の、丸と、四角と、また丸の中で、ぐるぐる、していた。
* * *
放課後。
ぼくは、写真クラブの、出席だけして、すぐ出た。
桐島先輩が、ぼくの方を、ちらっと、見たが、何も言わなかった。
あかりが、何かを、聞こうとして、桐島先輩に、口をふさがれていた。
ぼくは、ぺこっと、頭を、下げて、部室を、出た。
校舎裏に、行く道の、途中で。
足が、止まった。
なぜか、止まってしまった。
校舎の角のすこし手前で、ぼくは、立っていた。
ふっと、ため息を、ついた。
ふっと、もう一回、ついた。
なんで、足が、止まったのか、自分で、わかってきた。
なんて、言うか、決まってないからだ。
ぼくは、なんて、言うんだろう。
「ありがとう、でも」
「ごめんなさい」
「そういう気持ちじゃ、ないんだ」
頭の中で、いろんな、台詞を、ならべた。
ぜんぶ、なんか、ぺらぺらだった。
なんかちがう。なんかちがう。なんかちがう。
ぼくは、踵を、返した。
校舎の角を、まがって、昇降口の方へ、もどった。
「ごめん、みなみさん。今日、ちょっと、無理」
そう、思った。
それから、すぐ、首をふった。
それは、いちばん、ダメな、やつだ。
待ってる人を、待たせたまま、にげるのは、いちばん、ダメな、やつだ。
ぼくは、もう一度、踵を返した。
それから、また、止まった。
進めない。もどれない。
「うわー」
ぼくは、口の中で、つぶやいた。
「うわー、うわー、うわー」
ぼくの、後ろから、しずかな、足音が近づいてきた。
「やあ、竹内君」
聞きおぼえのある、声、だった。
ふりむいた。
坂本さん、だった。
今日も、やたら格好つけた、ジャケット姿、だった。
なぜ、学校の校舎裏に、坂本さんが、いるのか、ぼくには、まったく、わからなかった。
「坂本さん、どうして、ここに」
「車検所の、書類、お前のお父さんの、古いやつ、教頭先生に、届けに来た」
「あ、そうなんですか」
「ついでに、お前の顔、見ておこうかと」
「ついで、ですか」
「ついでだ」
坂本さんは、にやっと、笑った。
それから、ぼくの顔を、ちらっと見て、にやっと笑うのを、やめた。
「お前、顔、白いぞ」
「あ、はい」
「めし、食ったか」
「揚げパン、半分」
「半分? お前、揚げパンを、半分?」
「絵島も、同じこと、言ってました」
「絵島ってだれ」
「友だちです」
「友だちは、まともだな」
坂本さんは、ぼくの肩を、ぽんと、叩いた。
「乗れ」
「えっ」
「軽トラ、すぐそこに、停めてある」
「いや、これから、ぼく、ちょっと」
「断るな。乗れ」
坂本さんは、もう、歩きだしていた。
ぼくは、なんとなく、ついて、いった。
なんとなく、というか、ついていくしか、なかった。
校舎裏を、まがった、すこし先で、ぼくは、もう一度、ふりむいた。
校舎の、ずっと向こうの、角の、もうすこし向こうに。
みなみが、いるはずの、場所。
ぼくは、すこしだけ、頭を、下げた。
声には、出さなかった。
「ごめん、みなみさん。あと、十分。あと、十分だけ」
心の中で、つぶやいた。
それから、坂本さんの軽トラに、乗りこんだ。
* * *
軽トラは、駅前の、ラーメン屋の、駐車場で止まった。
「ここですか」
「ここだ」
「ぼく、食べられないかも」
「食ったら、食えるんだ」
坂本さんは、軽トラから、おりて、すたすたと、店の中に入っていった。
ぼくも、おりた。
店内は、せまくて、油の、いいにおいがしていた。
カウンターに、二人で、ならんですわった。
坂本さんは、メニューを、見ずに注文した。
「醤油、ふたつ。あと、餃子も」
「はい」
ぼくは、口を、はさめなかった。
「あの、坂本さん」
「ん」
「ぼく、餃子は」
「食え」
「は、はい」
坂本さんは、コップの水を、ぐいっとのんだ。
それから、ぼくの方を、見た。
「で、何があった」
「えっ」
「いや、何もない奴は、揚げパンを、半分残さない」
「それ、絵島、だけの理屈じゃ、ないんですか」
「世の中の、揚げパン残し研究の、結論だ」
「研究、されてたんだ」
ぼくは、ちょっとだけ、笑ってしまった。
笑ってから、すぐ、また、表情がもどった。
ぼくは、ぽつぽつ、話した。
下駄箱に、紙が、はさんであったこと。
放課後、校舎裏で、待ってるはず、なこと。
足が、止まってしまったこと。
なんて、言ったらいいか、わからないこと。
坂本さんは、ふんふん、うなずきながら聞いていた。
ラーメンが、来た。
坂本さんは、ぼくに、れんげをわたした。
「まず、汁だけ、のめ」
「はい」
ぼくは、のんだ。
しょっぱい、かつおと、しょうゆの、味が、口の中に、広がった。
胸の、まんなかの、おもさが、すこしだけ、ゆるんだ。
「で、お前、その子のこと、好きか」
坂本さんが、ふつうの口調で、聞いた。
ぼくは、首を、ふった。
「ちがう、と思います」
「思います、じゃない、はっきりしろ」
「ちがいます」
「うん」
坂本さんは、自分のラーメンの、麺を、ずるっとすすった。
「お前のお父さんもな」
「はい」
「お母さんに、告白された側だよ」
ぼくは、れんげを、止めた。
「えっ」
「うん」
「お父さんが、ですか」
「お父さんが」
ぼくは、すこし、変な顔を、したらしい。
坂本さんは、ふっと、笑った。
「うちもそうだ。受け身が、幸せだ」
「坂本さん、それ、奥さんに、聞かれたら」
「叱られる」
「ですよね」
「でも、本当だ」
坂本さんは、麺を、もう一回、ずるっとすすった。
「で、お前、断るんだろ」
「はい」
「ちゃんと、断れ」
「はい」
「傷つけたくないって、曖昧にする方が」
坂本さんは、れんげで、汁をすくった。
「傷つける」
ぼくは、れんげを、握りなおした。
胸の、まんなかが、しんと、なった。
ラーメンの、湯気が、ぼくの目の前で、ゆっくりと立ちのぼっていた。
「……はい」
「うん」
坂本さんは、それ以上、何も言わなかった。
餃子が、来た。
坂本さんは、餃子を、はしで、つまんで、ぼくの皿に、二つ置いた。
「食え」
「はい」
ぼくは、食べた。
熱かったけれど、おいしかった。
口の中の、油の、いいにおいと、かつおだしの、しょっぱさが、ぼくの胸の、おもさを、少しずつ、下に、沈めていった。
「お父さん、餃子、すき、でしたか」
ぼくは、聞いてみた。
「うん」
坂本さんは、即答した。
「すきだ」
「いま、すきって、言いました?」
「言ったな」
「お父さん、いまも、餃子、すきなんですか」
「人の好みは、変わらん。たぶんな」
ぼくは、なぜか、ちょっとだけ、笑った。
笑ってから、餃子を、もう一個食べた。
坂本さんが、ぽつっと、言葉を、足した。
「あいつは、街の、見守り、設計してた、らしいな」
「見守り」
坂本さんは、それきり、だまった。
ぼくは、餃子を、口に、運んだ。
* * *
軽トラで、学校の前まで、もどってもらった。
「行ってこい」
坂本さんが、運転席で、言った。
「はい」
「言ったあと、どんな顔して、戻ってきても、軽トラの中で、待っててやる」
ぼくは、ふりかえった。
坂本さんは、フロントガラスの、向こうを見ていた。
「いえ、待たなくて、大丈夫です」
「そうか」
「自分で、帰ります」
「うん」
「ありがとうございます」
坂本さんは、すこしだけ、片手をあげた。
ジャケットの袖が、夕方の光に、てかっと、光った。
ぼくは、軽トラから、おりた。
校舎の昇降口を、抜けて、校舎裏に、向かった。
足は、もう、止まらなかった。
止まらないように、ぼくは、すこし、はやめに、歩いた。
* * *
校舎裏。
ふるい、桜の木の、下に。
みなみが、立っていた。
スカートのすそを、両手で、すこしだけ、おさえていた。
ぼくの足音に、気づいて、ふっと、顔をあげた。
「あ」
「ごめん、おそくなって」
「いえ」
「待たせて、ごめん」
「いえ、ぜんぜん」
みなみは、ちょっと、顔を赤くした。
それから、まっすぐ、ぼくの目を見た。
おとなしい、いつもの、みなみの目、だった。
おとなしいけど、まっすぐ、だった。
ぼくは、息を、吸った。
吐いた。
もう一回、吸った。
「あの」
「はい」
「ぼく、みなみさんのこと」
ぼくの、口は、すこし、ふるえた。
それでも、止まらなかった。
「好きじゃ、ないです」
桜の木が、ふっと、葉の音を、たてた。
風が、抜けた。
「ごめんなさい」
ぼくは、頭を、下げた。
下げてから、しばらく、上げられなかった。
しばらく、して。
みなみが、ちいさく、息を、吐く音が、聞こえた。
「……知って、ました」
ぼくは、ようやく、頭を上げた。
みなみの、目が、すこし、うるんでいた。
でも、こぼれては、いなかった。
「ありがとう、ございました」
みなみは、ぺこっと、頭を、下げた。
それから、ぱっと、顔を、あげた。
すこしだけ、笑って、いた。
「ちゃんと、言ってくれて、ありがとう、ございました」
「あ、いえ」
「写真クラブ、これからも、いていい、ですか」
「あ、もちろん、です」
「よかった」
みなみは、もう一度、ぺこっと、頭を、下げた。
それから、桜の木の、下を、すうっと、抜けて、校舎の方へ、歩いていった。
歩く、後ろ姿が、ぼくの目には、いつもより、すこしだけ、せまく、見えた。
ぼくは、しばらく、そこに立っていた。
桜の葉の、音だけが、聞こえていた。
ぼくの、胸の、まんなかは。
しんと、していた。
おもくは、なかった。
ただ、しんと、していた。
声には、出さなかった。
頭の中で、お父さんの声が、ちょっとだけ、する。
──正しく、見るんだ。
そうすれば、こわくない。
ぼくは、ちいさく、うなずいた。
うなずきだけ、した。
* * *
部室に、もどった。
桐島先輩は、机に、ファインダーを、置いて、フィルムの整理をしていた。
あかりは、机の下で、何かをひろっていた。
アールは、教室の、すみで、ぼけっと、立っていた。
ぼくが、ドアを、あけた。
桐島先輩が、ふっと、顔をあげた。
ぼくの顔を、ちらっと、見た。
何も、聞かなかった。
ぼくは、自分の椅子に、すわった。
ランドセルを、机のよこに、置いた。
ふう、と、息を、はいた。
桐島先輩が、すうっと、立ちあがった。
ぼくの後ろに、まわった。
ぽん。
頭の上に、ちいさな、おもみが、のった。
桐島先輩の、手だった。
一回だけ、ぽん、だった。
それ以上、なにも、言わなかった。
桐島先輩は、自分の席に、もどって、また、フィルムの整理をはじめた。
あかりが、机の下から、顔をあげた。
「あ、竹内君、おかえりー」
「ただいま」
「お土産は?」
「ないよ」
「えー」
あかりは、けらけら、と、笑った。
ぼくは、すこしだけ、笑った。
ファインダーを、机の上に置いて、ぼーっと、ながめた。
レンズに、夕方の、オレンジの光が、すうっと、入っていた。
アールが、ぼくの、横に、すうっと、立った。
「視線解析」
「うるさい」
「集中度、低、です」
「うるさい」
「事実、です」
「うるさい」
「同感です」
「同感するな」
「では、撤回します」
ぼくは、ふっと、笑った。
たぶん、これが、ぼくの、いまの、ふつう、なんだろう、と、思った。
胸の、まんなかは、まだ、しんと、していた。
でも、しんとしてるのは、悲しい、しん、では、なかった。
たぶん、ちがう、しん、だった。
ぼくは、ファインダーを、構えなおして、夕方の光に、レンズを向けた。
声には、出さなかった。
シャッターを、ゆっくり、きった。
カシャ、と、まじめな音が、した。
机の上の、フィルムの紙袋が、夕方の光に、すこしだけ、てかっていた。
機械化学園特区の、本日も。
たぶん、平常運転、だった。
ちょっとだけ、ふつうじゃ、なかった。
でも、平常運転、だった。
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