第8話:鋼の都の奇跡と、枯れゆく黄金
アイゼンハウト帝国の朝は、鋭い鍛造の音と共に明ける。
鋼鉄宮の客室で目覚めたリィネは、窓辺に立ち、深く息を吸い込んだ。肺を満たすのは、かつての王宮に漂っていた腐敗した甘い香水ではなく、ひんやりとした朝露と、鍛錬に励む兵士たちの熱気を含んだ清浄な空気だ。
「……信じられない。体が、こんなに軽いなんて」
鏡に映る自分の姿を見つめる。かつて泥を啜らされ、土色に沈んでいた肌は、今や内側から発光するかのような真珠の輝きを取り戻していた。アメジストの瞳は一点の曇りもなく、プラチナブロンドの髪は指の間を滑る絹のように瑞々しい。
そこへ、扉を叩く音と共に、白銀の装飾を施した帝国の軍服を纏ったガルハルトが現れた。
「リィネ様、お目覚めですか。……失礼いたします。その、……あまりに美しくなられたので、一瞬、言葉を失いました」
野性味溢れる騎士団長が、珍しく耳の付け根を赤くして視線を逸らす。リィネはくすりと微笑み、彼が差し出した帝国の紋章入りのマントを肩にかけた。
「ガルハルト。騎士たちの様子はどうかしら?」
「最高です。貴女様の加護を受けた彼らは、帝国の精鋭すら圧倒する練度を見せています。……ですが、リィネ様。今朝、帝都の西門に、サンクチュアリ王国からの難民が押し寄せています。その有様が、あまりに……」
ガルハルトの琥珀色の瞳に、苦渋の色が混じる。
リィネは頷き、まずは皇帝ガリアスの命により招かれていた「帝国魔導院」へと向かった。
そこでは、大陸最高峰の知性と呼ばれる魔導師たちが、リィネの魔力を測定するために待ち構えていた。彼らは当初、リィネを「政治的に利用価値のある象徴」程度にしか見ていなかった。
「では聖女殿。この最高位の魔晶石に手を触れてください。貴女の魔力の『純度』と『総量』を数値化します」
老賢者が不遜な態度で測定器を差し出す。リィネは静かに、その石に指先を触れさせた。
刹那。
パキィィィィィィィィィィン!!
と、鼓膜を裂くような高音が響き、帝国の至宝であるはずの魔晶石が粉々に砕け散った。それだけではない。室内にある魔力検知の計器がすべて逆回転し、火花を吹いて焼き切れた。
「……なっ、馬鹿な!? 測定不能だと!? 我が国の計器は、古代龍の魔力ですら計測できる代物だぞ!」
「……驚くことではありませんわ」
リィネは冷ややかに、魔導師たちが記録していた王宮時代の「リィネの魔力評価(偽)」の羊皮紙を指差した。
「私が今まで飲み込んできたのは、ジュリアス殿下が積み上げた数年分の『猛毒』です。その毒を体内で中和し、封じ込めるために、私の魔力は常に極限まで圧縮され、研ぎ澄まされてきました。……計器が壊れたのは、私の魔力が強いからではなく、あまりに『純化』されすぎているからですわ」
魔導師たちは、リィネが提示した「業の転嫁」の術式理論を読み、顔を青ざめさせた。彼女がどれほどの地獄を一人で背負い、かつ正気を保っていたか。その数値化できない「凄絶な知性」に、彼らは震える手で膝をついた。
「我々は……とんでもない御方を『測定』しようとしていたようだ……。聖女様、無礼をお許しいただきたい」
知を司る者たちがリィネに屈した頃、帝都の西門では、さらなる絶望の声が上がっていた。
リィネはガリアス皇帝の許可を得て、ガルハルトと共に門へと向かった。
そこには、かつての故国の民たちが、ボロ布を纏い、泥に塗れて折り重なっていた。
「……助けてください、帝国の皆様! どうか、どうか慈悲を!」
「王都はもう、人の住む場所ではありません……! 街中に黒い霧が立ち込め、触れただけで肌が腐るのです!」
一人の母親が、リィネの足元に縋り付いた。彼女が抱く赤子の腕は、不気味な黒い斑点に覆われている。
難民たちの証言は、凄惨を極めていた。
「ジュリアス殿下は狂われました……! 『聖女が呪いを置いて逃げた』と叫びながら、毎日、罪もない平民を地下牢へ送り込んでいるのです! 誰でもいいから自分の『痛み』を代われと、騎士たちを使って無理やり首輪を嵌めさせて……!」
「殿下が触れただけで、美しい噴水はヘドロに変わり、豊かだった畑は一晩で砂漠になりました……! あの方は、黄金の王子などではない! 災厄を撒き散らす化け物だ!!」
難民たちの叫びは、リィネへの憎しみではなく、自分たちを捨て、自らの業に溺れる王子への呪詛へと変わっていた。
リィネは静かに、赤子を抱く母親の前に膝をついた。
「……リィネ様、危険です。瘴気が伝染する恐れが」
「いいえ、ガルハルト。……これは、私の落とし物だわ」
リィネが赤子の黒ずんだ腕に、そっと掌をかざす。
柔らかな紫光が赤子を包み込むと、不気味な斑点は瞬時に消え去り、赤子は初めて安らかな寝息を立てた。
さらにリィネが立ち上がり、空に向かって両手を広げると、帝都の門周辺に滞留していた不浄な気配が、一瞬で清涼な風へと書き換えられた。
「あ、ああ……痛みが……消えていく……」
「本物だ……。本物の聖女様が、ここにいらっしゃるぞ!!」
数千人の難民が、一斉にリィネに向かって跪き、祈りを捧げる。
かつて王都で石を投げ、彼女を偽物と呼んだ者たちも、その圧倒的な慈愛の前に涙を流し、過去の過ちを悔いた。
その頃。
サンクチュアリ王国の玉座の間は、腐臭漂う墓場のようだった。
ジュリアスは、包帯でぐるぐる巻きにされた自分の右腕を、狂ったように掻きむしっていた。包帯からは、どす黒い膿が染み出し、玉座の黄金を醜く汚している。
「足りない……足りないぞ! 奴隷をあと百人連れてこい! 犯罪者でも、浮浪者でも、子供でも構わん! 僕のこの『熱さ』を引き取らせろ!!」
彼の背後には、意識を失い、廃人のようになった新聖女ミレーヌが、糸の切れた人形のように転がっている。
ジュリアスは、鏡の中に映る自分の無惨な姿に向かって、枯れた声で咆哮した。
「リィネ……リィネぇぇぇっ! なぜ戻ってこない! 君は僕のゴミ箱だろう!? 持ち主が困っているんだ、早く戻ってきて掃除をしろ!!」
彼の叫びに応える者は、もう誰もいない。
側近の騎士たちは次々と逃げ出し、残されたのは、王子と共に「自らの毒」に飲み込まれる運命を受け入れた、絶望の影たちだけだった。
帝都のバルコニーで、リィネは難民たちが提供した「王都の現状」を記した地図を見つめていた。
彼女の指が、王都ルミナリスを指し示す。
「……準備は整ったわね、ガルハルト。……あの方は、自分の毒に溺れて死ぬだけでは足りない。……彼が踏みにじってきた全ての命に、その身を捧げてもらわなくては」
リィネの瞳には、かつての慈悲深い聖女の面影はない。
それは、最悪の毒を飲み干し、真の「王」を裁く権利を得た、冷徹なる審判者の光だった。




