第7話:帝都の賢帝と、腐敗の伝言
アイゼンハウト帝国の帝都「フェルゼン」は、リィネが育った王都ルミナリスとは、まるで異なる色をしていた。
華美な装飾や宗教的な偶像に彩られた王国とは対照的に、そこにあるのは黒鉄と灰色の石材で築き上げられた、質実剛健な機能美だ。整然と区画された石畳を、白銀の加護を纏ったガルハルトたちの騎馬が進んでいく。
「……随分と、風通しの良い街ね、ガルハルト」
「ええ。王国のような淀んだ甘い香りはしません。……ここなら、貴女様の呼吸も楽になるはずだ」
ヴォルフガング将軍の先導により、一行は帝国の心臓部である「鋼鉄宮」へと入城した。
沿道を埋め尽くした帝国の民衆は、最初こそ「敵国の聖女」という報に警戒の色を隠さなかった。だが、リィネが乗る馬が通るたび、石畳の隙間から瑞々しい青草が芽吹き、重厚な鉄の門に絡みつく蔦が瞬時に清らかな白い花を咲かせる光景を見て、彼らは声を失った。
それは、人為的な魔導具では決して再現できない、生命そのものを呼び覚ます「真なる聖女」の残り香だった。
鋼鉄宮の謁見の間。
そこに待っていたのは、若き皇帝「ガリアス」だった。
彼は二十代半ばという若さながら、内乱を鎮め、実力主義によって帝国を大陸最強の軍事国家へと押し上げた、冷徹な合理主義者として知られている。
「……ほう。それが、王国が『無能』と称して放り出した聖女か」
玉座に深く腰掛けたガリアスの瞳は、鋭い猛禽のようだった。
リィネはガルハルトを背後に従え、皇帝の放つ威圧感に一歩も引くことなく、優雅に、かつ堂々とその前に立った。
「アイゼンハウト帝国皇帝、ガリアス陛下。……追放された身で、突然の訪問をお許しいただいたこと、感謝いたしますわ」
「礼はいらん。ヴォルフガングからは、貴様が関所周辺の瘴気を一瞬で浄化したと聞いている。……単刀直入に聞こう。貴様のような『戦略兵器』とも呼べる存在が、なぜあのような三流国家に使い潰されていた?」
ガリアスの問いに、リィネは静かに、けれど氷のように冷たい微笑みを浮かべた。
「……使い潰されていたのではありませんわ、陛下。私は、あの方――ジュリアス王子の『ゴミ箱』として利用されていたのです」
リィネは、自身が分析した「業の転嫁」のカラクリを、包み隠さず説明した。
王子が奴隷を買い込み、己の腐敗を彼らに押し付け、その溢れ出た猛毒を聖女に吸わせていた事実。そして、その『排出口』である自分を捨てたことで、王国が今、どのような地獄に直面しているか。
「……にわかには信じがたいが、現在の王国の空を見れば、貴様の言葉が真実だと解るな」
ガリアスは窓の外、遠く南に広がる不気味な紫色の雲を見据えた。
リィネは、皇帝の瞳に宿る「合理的な判断」を読み取り、交渉の切り札を場に投じた。
「陛下。私は貴国に『浄化』と『豊穣』を約束しましょう。私の騎士たちが守るこの地を、大陸で最も豊かな聖域に変えてみせます。……その代わり、私に『自由』と、あの男を完膚なきまでに断罪するための『舞台』をいただきたいのです」
「面白い。……帝国に仇なす者は鉄で、帝国を利する者は金でもてなすのが我が国の掟だ。貴様を『帝国の至宝』として迎えよう」
皇帝が満足げに口角を上げた、その時だった。
謁見の間の重厚な扉が乱暴に開かれ、一人の男が転がり込んできた。
「……っ、リィネ様……! リィネ様はいずこか!!」
それは、サンクチュアリ王国の近衛騎士の鎧を纏った男だった。
だが、その姿はあまりに無惨だった。
美しいはずの白銀の甲冑は黒く変色してボロボロに朽ち、露出した皮膚は火傷を負ったようにただれ、そこから不気味な紫色の煙が立ち昇っている。
彼は兵士たちの制止を振り切り、リィネの足元に這いつくばった。
「リィネ様……! どうか、どうか戻ってください……! ジュリアス殿下が、殿下が死にかけておられるのです!!」
男の声は、喉が焼けているのか、耳障りな濁った音だった。
彼は泣き叫び、泥に汚れた手でリィネの純白の法衣を掴もうとした。
「殿下は、ご自身の肌が黒く腐り落ちる痛みに狂っておられる! 新聖女のミレーヌ様も、殿下に触れた瞬間に発狂し、今は獣のように吠えることしかできない! ……貴女様だけなのです! あの毒を抑え込めるのは、貴女様だけなのです!!」
謁見の間を支配したのは、静寂だった。
帝国の将兵たちは、かつて自分たちを見下していた王国の騎士の、あまりにも無様な姿に嫌悪と戦慄を隠せない。
リィネは、縋り付く男の手を、氷のような眼差しで見下ろした。
彼女は一歩も退かず、汚れた手が自分の服に触れる寸前、微かな魔力の障壁でそれを弾いた。
「……戻る? なぜ、私がそのようなことをしなければならないのかしら?」
リィネの声は、恐ろしいほどに穏やかだった。
「私はあの方に言われた通り、身の程を弁えて『偽聖女』としてお暇したのですよ。……今あの方が苦しんでいるのは、私が吸い取ってあげていた『ゴミ』が、本来の持ち主の元へ戻っただけ。……自業自得、という言葉をご存じかしら?」
「そ、そんな……! お慈悲を……聖女様ならば、慈悲の心をお持ちのはずだ!」
「慈悲なら、すでに使い果たしましたわ。……あの物置小屋で、凍える夜を過ごしていた時にね」
リィネは冷徹に言い放ち、ガルハルトに目配せをした。
ガルハルトは無言で一歩踏み出し、使者の首筋に手をかけ、軽々と引き離した。
「……おい、使者。その汚れた口で、二度とこの方の名を呼ぶな。……あの方が吸い取ってやった『汚泥』は、まだ半分も戻っていないはずだ。殿下にはそう伝えておけ」
ガルハルトの低い、獣のような威圧感に、使者は腰を抜かして震え上がった。
皇帝ガリアスは、その光景を愉悦に満ちた目で見つめ、ヴォルフガングに命じた。
「この壊れ物を叩き出せ。……それから、我が国の国境を完全に封鎖しろ。王国から流れてくる『ゴミ』を一粒たりとも通すな」
引きずり出されていく使者の断末魔のような悲鳴が、廊下に長く尾を引いて消えていった。
リィネは、乱れた呼吸一つ乱さず、再び皇帝に向き直った。
「……お見苦しいものをお見せいたしましたわ、陛下」
「いや、最高に愉快な余興だった。……リィネ殿。貴様が言った『舞台』、私が用意しよう。……王国が自らの毒で溶け落ち、民衆が本当の『救世主』を求めて泣き叫ぶその時に、貴様を再臨させてやる」
謁見を終え、帝宮の高台にある客室に案内されたリィネは、バルコニーから南の空を見つめていた。
夕闇が迫る中、サンクチュアリ王国の空は、もはや夜よりも暗い紫黒色に染まっていた。
リィネが去ってから、まだ数日。
王宮という名の巨大な膿は、今まさに破裂しようとしていた。
「……ガルハルト。あちらは、もう手遅れね」
「ええ。……リィネ様。俺たちは、もうあそこへは戻りません。……貴女様が真に愛され、敬われる、この新しい大地のために、俺のすべてを捧げます」
ガルハルトがリィネの肩に、帝国の毛皮で縁取られた豪奢なマントをかけた。
その温もりを感じながら、リィネは静かに目を閉じる。
明日からは、帝国という巨大な駒を使い、自分を「ゴミ箱」にした全てのものへの、本当の清算が始まるのだ。




