第6話:亡霊の王宮と、白銀の進撃
朝日に輝くフォル・セフィラの大陸を、白銀の流星が駆けていた。
聖女リィネを乗せたガルハルトの愛馬は、もはや獣の域を超えていた。蹄が地面を叩くたびに、清浄な魔力の火花が散り、疲れを知らぬ神馬となって荒野を突き進む。
その後を追う五十名の聖教騎士たちもまた、リィネから溢れ出す「真の加護」によって、その身に纏う甲冑が鏡のように白く輝いていた。
「……体が、熱い。これほどまでに力が漲るとは」
ガルハルトは手綱を握る拳を締め直した。かつて王宮で「ゴミ箱」の番犬を強いられていた頃の、鉛のような重苦しさは微塵もない。今の彼は、一振りで岩山をも断ち切れる確信に満ちていた。
ふと、リィネが隣を並走する救出部隊に目を向けた。そこには、事前にガルハルトが地下牢から救い出していた、魔力耐性の高い三名の奴隷たちがいた。
「……リィネ様。本当に、貴女様なのですか?」
かつて王子の「業」を首輪越しに吸わされ、廃人のようだった彼らは、今やリィネの光に当てられ、その瞳に意志の灯火を取り戻していた。
リィネは優しく微笑み、馬を寄せた。
「ええ。もう大丈夫よ。あなたたちの首に嵌められていた呪いの鎖は、あの方と共に王宮に置いてきたわ。……これからは、あなたたちの足で、あなたたちの人生を歩みなさい」
その言葉に、元奴隷たちは落涙し、馬上で深く頭を垂れた。
だが、リィネたちが自由へと向かう一方で、置き去りにされた「サンクチュアリ聖王国」の王宮は、文字通りの地獄と化していた。
王宮の最上階、ジュリアス王子の寝室。
黄金の装飾に囲まれ、最高の寝心地を誇るはずの天蓋付きベッドで、ジュリアスは自身の悲鳴で目を覚ました。
「熱い……! 身体中が、焼けるように……っ!」
彼は這いずるようにして姿見の前までたどり着き、そこに映った自分を見て、絶叫した。
昨晩まで陶器のように滑らかだった彼の肌は、どす黒い死斑のような紋様に覆われ、指先からは不気味な黒い蒸気が立ち昇っていた。
リィネという「唯一の排出口」を自ら捨てたことで、彼が数年間にわたって溜め込み、奴隷たちに肩代わりさせていた「数千人分の怨念と腐敗」が、呪いの契約の解除と共に、持ち主である彼自身へと一気に逆流し始めたのだ。
「殿下! どうなさいまし……ああっ!?」
異変を察して駆け込んだ新聖女ミレーヌは、変わり果てたジュリアスの姿を見て腰を抜かした。
ジュリアスは、救いを求めるように彼女の細い手首を掴む。
「ミ、ミレーヌ! 浄化だ! 早く、僕を癒やせ! 昨日のように、清らかな祈りを捧げるんだ!」
「は、はい……っ! お、お鎮まりください……!」
ミレーヌは震える手でジュリアスの額に触れた。
だが、次の瞬間。
彼女の純白の法衣が、ジュリアスの肌に触れた箇所から「シュウッ」と音を立てて黒く焼け焦げた。
ミレーヌの魔力は、王子の巨大な汚泥を受け止める器としては、あまりに小さすぎたのだ。
「――ぎ、あぁぁぁぁぁぁっ!!」
ミレーヌは、自身の血管に溶けた鉛を流し込まれたような衝撃に絶叫し、白目を剥いてその場に昏倒した。彼女の美しい金髪は一瞬にして老婆のように白く枯れ果て、口からはどす黒い反吐が溢れ出す。
唯一の希望さえ失ったジュリアスは、腐り落ちていく自分の指を凝視し、狂ったようにリィネの名を呼び続けた。だが、その声が届くことは、二度とない。
一方、リィネ一行は、隣国「アイゼンハウト帝国」の国境関所へと到達していた。
そびえ立つ黒鉄の城壁。そこには、数千の精鋭を擁する帝国守備隊が待ち構えていた。
「止まれ! それ以上の進軍は、我が帝国への宣戦布告と見なす!」
城壁の上から響いたのは、鋼を叩くような力強い声だった。
帝国第三軍将軍、ヴォルフガング。戦歴三十年、大陸でも指折りの武闘派として知られる巨漢が、鋭い眼光でリィネたちを見下ろしていた。
王宮からの早馬により、「偽聖女と反逆騎士団が逃亡中」との通達はすでに届いていた。
「ガルハルト。……少し、お話ししてくるわ」
リィネは静かに馬を降りた。
ガルハルトが反射的に彼女を遮ろうとするが、彼女は優しくその手を制し、一歩、また一歩と、数千の伏兵が潜む関所へと歩み寄った。
「サンクチュアリの偽聖女リィネだな。王宮からは、貴様を捕らえ次第、即刻処刑せよとの通達が来ている。……抵抗するなら、容赦はせんぞ」
ヴォルフガングが腰の戦斧に手をかける。その瞬間、彼の周囲にいる兵士たちが一斉に弓を引き絞った。
だが、リィネは動じない。彼女はただ、アメジストの瞳を真っ直ぐに将軍に向け、凛とした声で応じた。
「……処刑、ですか。あのような『腐りゆく国』の言葉を、帝国の賢明なる将軍が鵜呑みになさるとは」
「何だと……?」
「ヴォルフガング将軍。貴方は、足元に蔓延る『病』に気づいていらっしゃらないのかしら?」
リィネが不意に、荒れ果てた関所の地面に膝をつき、掌を土に当てた。
刹那、関所全体が震えるほどの、圧倒的な神聖魔力の波動が爆発した。
リィネの手のひらから、無数の光の筋が地脈を伝って広がっていく。
関所の周りで枯れ果てていた痩せた土地が、瞬く間に青々とした草原に変わり、数百年も実をつけなかった老木が、一瞬にして白い花を咲かせた。
「なっ……馬鹿な……!? これは、大規模浄化魔法か!?」
ヴォルフガングは目を見開いた。
それだけではない。城壁の上で彼を支えていた兵士たちの顔色が、劇的に改善していく。
長年の行軍で足を患っていた者。瘴気に当てられて咳が止まらなかった者。そのすべてが、リィネから放たれた「余波」だけで、瞬時に完治したのだ。
ヴォルフガング自身も、かつての古傷――右胸に刻まれた、消えることのなかった鈍痛が、霧散していくのを感じていた。
「……信じられん。王宮の報告では、魔力を枯渇させた無能な女だと……。だが、この圧倒的なまでの『清浄』は……これこそが、真の聖女の力だというのか!」
将軍の身体が、本能的な戦慄に震えた。
彼は今まで、サンクチュアリ王国の聖女たちが放つ光を何度も見てきた。だが、それらはすべて「装飾」された、どこか胡散臭いものばかりだった。
目の前の少女が放つ光は違う。それは、ただそこに存在するだけで世界を再定義してしまうような、絶対的な慈悲と、それ以上に恐ろしいほどの「格」の違い。
「……ヴォルフガング将軍。私は、争いに来たのではありません。……ただ、私の力を、正当に扱ってくれる場所を探しているだけです」
リィネは立ち上がり、汚れた服のままでも、王妃以上に優雅な一礼をした。
将軍は戦斧から手を離し、呆然と彼女を見つめていた。
彼の背後、サンクチュアリ王国の方向からは、不気味な黒い雲が空を侵食し始めていた。まるで、国そのものが断末魔を上げているかのように。
「……全軍、武器を収めろ! ……リィネ殿。いや、リィネ様」
ヴォルフガングは城壁を飛び降りると、土埃を立ててリィネの前に膝をついた。
一国の将軍が、追放されたはずの「偽聖女」に、最大限の敬意を示す。
「不躾な無礼をお許しいただきたい。……帝国は、貴女のようなお方を待っていた。……ようこそ、アイゼンハウト帝国へ」
リィネの背後で、ガルハルトたちが誇らしげに胸を張る。
大陸の歴史が、今、決定的に動き始めた。
王国の滅亡と、帝国の躍進。その中心には、かつて「ゴミ箱」と呼ばれた少女が、誰よりも美しく立っていた。




