第3話:物置小屋の聖女と、番犬の誓い
華やかな神殿の北端、腐りかけた木材と湿った石壁に囲まれた「物置小屋」が、聖女リィネに与えられた新たな居室だった。
かつては庭園の手入れ道具や、使い古された儀礼用の布を放り込んでいた場所だ。窓は小さく、隙間風が容赦なくリィネの薄い法衣を揺らす。
「……ふふ。案外、落ち着くわね。あの方の香水の匂いがしないだけ、ずっと清らかだわ」
リィネは埃っぽい床に腰を下ろし、自嘲気味に呟いた。
ジュリアス王子の命令により、彼女の私物はそのほとんどが没収された。豪奢なドレスも、聖教から贈られた装飾品も、今は新聖女候補であるミレーヌの部屋へと運び込まれている。
手元に残ったのは、汚れの目立つ古い修道服一着と、隠し持っていたわずかな魔導具のみ。
遠く、神殿の主塔から祝祭の鐘が鳴り響く。
それはミレーヌが「真実の聖女」として正式に認められたことを祝う音だ。民衆は歓喜し、広場では王子の慈悲を讃える歌が合唱されている。
誰も知らない。その光り輝く主塔の下で、王子の悪意を吸わされた奴隷たちが、今この瞬間も泥を啜っていることを。そして、その毒を中和し続けてきた「ゴミ箱」が、この物置小屋に捨てられたことを。
「失礼いたします、リィネ様。……ミレーヌです」
扉が軋んだ音を立てて開き、純白のドレスに身を包んだミレーヌが入ってきた。
彼女は周囲の惨状に顔を顰め、リィネに向かって「慈悲深い」笑みを浮かべた。
「なんて酷い場所……。でも、安心してください。これからは私が殿下の側でお支えします。リィネ様はもう、あんなに苦しそうに祈らなくていいんですよ」
ミレーヌの言葉には、一片の悪意もなかった。それがリィネには、何よりも残酷に響いた。
ミレーヌの背後には、すでにジュリアスから移譲されたばかりの「どす黒い靄」が、蛇のように彼女の首筋に巻き付いている。無垢な彼女は、自分が吸わされているものが「聖なる試練」だと信じ込んでいるのだ。
「……そう。なら、精一杯お励みなさい。殿下は、とても『繊細』な方だから」
リィネは冷ややかな声で応じ、視線を落とした。
ミレーヌの魔力特性は、リィネよりも「拡散」に近い。浄化の効率は良いが、その分、毒を溜め込むキャパシティは圧倒的に小さい。
計算上、彼女が王子の穢れに耐えられるのは、持って一ヶ月。それを過ぎれば、彼女の精神は内側から崩壊を始めるだろう。
(……ごめんなさいね。でも、これはあなたが望んで手に入れた「光」の代償よ)
ミレーヌが去り、夜の帳が降りる頃。
物置小屋の影から、音もなく巨大な影が滑り込んできた。
「……リィネ様」
低い、地鳴りのような声。ガルハルトだ。
彼は騎士団の制服を脱ぎ捨て、黒い旅装束に身を包んでいた。その手には、毛羽立った厚手の毛布と、まだ温かいスープの入った小瓶がある。
「ガルハルト。見張りの目は?」
「眠らせてあります。……それにしても、この場所はあまりに酷い。あの男、貴女を人として扱う気すらないのか」
ガルハルトはリィネの前に膝をつくと、冷え切った彼女の手を、己の無骨な掌で包み込んだ。
戦場を駆け、魔物を斬り伏せてきた硬い角質。だが、その触れ方は、壊れやすい羽を扱うように優しかった。
彼はリィネの素足を認めると、躊躇うことなくそれを己の膝の上に乗せ、大きな手で温め始めた。
「ガルハルト……不敬よ。あなたは騎士団長でしょう?」
「今の俺は、ただの野良犬です。貴女を暖めることすら許されないのなら、この命に価値などない」
琥珀色の瞳が、暗闇の中で獣のように鋭く、それでいて悲しげに光る。
ガルハルトの体温が、凍てついていたリィネの心に染み渡っていく。彼女は彼に身を預け、震える声で尋ねた。
「……準備は、どう?」
「完了しております。王都の西門に、聖教騎士団の精鋭五十名が待機中。地下牢からは、特に魔力耐性の高い奴隷三名を救出し、安全な場所に隠しました。彼らは王子の『契約の首輪』の不備を証明する生き証人となります」
「ありがとう。……私の魔力も、順調に『汚染』されているわ」
リィネは自身の腕をまくり、ガルハルトに見せた。
そこには、王子の毒をわざと一箇所に凝縮させた、禍々しい黒い紋章が刻まれていた。
「これは私の魔力で封じ込めた『毒の塊』。明日、殿下が私を『偽聖女』として追放する儀式の最中に、これを一気に活性化させる。……殿下には、私が魔力暴走を起こして死ぬように見えるでしょうね」
「命懸けの賭けだ。……本当に、宜しいのですか」
「ええ。あの方が私を見放し、死体として片付けようとした瞬間が、私たちの自由の時よ」
リィネはガルハルトの頬に触れた。
荒々しい髭の感触と、戦場を生き抜いてきた男の強靭な生命力。
この男がいなければ、自分はとっくに絶望という名の泥に溶けて消えていただろう。
「ガルハルト。国境を越えたら……私を、誰もいない静かな場所へ連れて行ってくれる?」
「……御心のままに。たとえ世界の果てであろうと、俺が貴女を背負って歩きましょう」
翌朝。
物置小屋の扉が、乱暴に蹴破られた。
黄金の装飾に身を包んだジュリアス王子が、取り巻きの貴族たちを連れて立っていた。
「さあ、起きろ、偽物。今日は君の『葬儀』の日だ。……ああ、いや、失敬。君という『不浄な存在』を我が国から排除する、聖なる儀式の日だったね」
ジュリアスは鼻を摘み、嫌悪感を露わにしながら小屋の中を見渡した。
リィネは静かに立ち上がり、汚れきった法衣の裾を整えた。
「……承知いたしました、殿下。私の役目を、最後の一滴まで果たさせていただきますわ」
リィネの瞳には、一切の迷いがなかった。
背後に控えるガルハルトが、腰の剣に手をかける。
運命の断罪劇まで、あと数時間。
黄金を纏う怪物が、自ら墓穴を掘る瞬間が、すぐそこまで迫っていた。




