第2話:絶望を啜る黄金
王都ルミナリスの夜は、二つの顔を持つ。
一つは、宝石のような灯火に彩られた貴族たちの狂乱。もう一つは、その光が届かない地下深く、湿った石壁に染み付いた絶望の残り香だ。
「さあ、泣く必要はないよ。僕が君たちを買い取った。今日からは、この暖かい王宮が君たちの家だ」
ジュリアス王子の声は、竪琴の調べのように甘く響く。
地下の搬入口に集められたのは、薄汚れた布を纏った十数人の奴隷たちだった。彼らは王子の失政によって土地を奪われ、飢えに喘いでいた元領民だ。
彼らにとって、目の前で微笑む黄金の王子は、文字通り神の遣わした救世主に見えただろう。
「ああ、殿下……! なんというお慈悲を……」
「いいんだ。さあ、この『守護の首輪』を着けなさい。これこそが、僕との絆の証だよ」
ジュリアスが白手袋の手で、一人一人の首に黒鉄の細い輪を嵌めていく。
奴隷たちは感激に震え、その首輪が自分たちの「業」を吸い取るための触媒であることなど、夢にも思わなかった。
首輪が肌に触れた瞬間、ジュリアスの背後に渦巻く黒い霧が、触手のように奴隷たちの体内へと潜り込んでいく。一瞬、彼らの瞳から生気が失われ、硝子玉のような虚無が宿ったが、王子はそれを慈悲深い微笑みで覆い隠した。
「……リィネ、見ていたかい? これが正しい王族の在り方だ。君のように部屋に閉じこもって、澱んだ魔力を撒き散らすのとは大違いだね」
影からその光景を見つめていたリィネに、ジュリアスが勝ち誇ったような視線を向けた。
リィネは吐き気を堪え、壁に背を預けていた。彼女の瞳には、首輪を通じて王子の「腐敗」が奴隷たちへ強制的に流し込まれる回路が、吐き気を催すほど鮮明に見えていた。
(救世主……? いいえ、あなたはただ、自分の汚れをなすりつける『生きた身代わり』を補充しているだけだわ)
その夜、定例の「浄化の儀式」が執り行われた。
リィネの指先がジュリアスの首筋に触れた瞬間、今までとは比較にならないほどの「重圧」が彼女を襲った。
「――ぐ、あっ……!」
「おやおや、情けない声を出すね、リィネ。今日の汚れは少し根が深いようだ。僕が民を救うために背負った『痛み』を、君が肩代わりするのは当然だろう?」
ジュリアスは愉悦に目を細め、リィネの細い手首を強く掴んだ。
流れ込んできたのは、単なる穢れではなかった。それは、先ほど首輪を嵌められた奴隷たちが抱く、未来への微かな希望が塗り潰され、真っ黒な絶望へと変質していく際の「叫び」だった。
リィネの視界が赤黒く染まる。激痛に意識が飛びそうになる中、彼女は執念でジュリアスの首筋を凝視した。
そこにある。
王子の美しい肌の奥、脈打つ血管のそばに、不自然に脈動する小さな「接続点」が浮き出ていた。
それは古代の禁忌術によって作られた、魂のバイパスだ。彼自身の罪を奴隷へ、その残り滓の毒を聖女へと振り分けるための、呪いの心臓。
(……見つけた。それが、あなたの無敵を支える『カラクリ』なのね)
儀式が終わると、リィネは糸の切れた人形のように床に崩れ落ちた。
ジュリアスは彼女を一瞥もせず、新しい絹のハンカチで指先を拭きながら吐き捨てた。
「明日の朝、隣国の聖女候補、ミレーヌ嬢が到着する。彼女は君のように苦悶の表情を浮かべたりはしないだろう。聖女としての格の違いを、その目に焼き付けるといい」
ジュリアスが去った後、静まり返った部屋に重い足音が響いた。
ガルハルトだ。彼は音もなくリィネの傍らに膝をつくと、震える彼女の体を、壊れ物を扱うような手つきで抱き上げた。
「リィネ様……! 顔色が、もはや生者のそれではない。あの男、貴女を殺す気か!」
「……いいえ、まだよ。ガルハルト。あの方は私を殺さない。……自分を綺麗に保つための『消耗品』として、ボロボロになるまで使い潰すつもりだわ」
リィネはガルハルトの黒鉄の胸当てに顔を埋め、浅い呼吸を繰り返した。
ガルハルトの体からは、戦場を駆ける獣のような、力強くも温かい体温が伝わってくる。その野性味ある香りが、リィネの汚染された感覚をわずかに呼び戻した。
「ガルハルト……地下の、奴隷たちは……?」
「……無惨なものです。首輪を嵌められた者は皆、感情を失った抜け殻のように隅で固まっている。王子の前では笑顔を見せるよう、暗示までかけられているようだ」
ガルハルトの琥珀色の瞳に、激しい怒りの炎が宿る。彼はリィネを抱く腕に力を込め、絞り出すような声で続けた。
「俺の部下たちは皆、貴女の合図を待っている。今この瞬間、あの首を跳ね飛ばせと言われれば、地獄の果てまで付き従う覚悟だ」
「……まだ、ダメよ。今彼を殺せば、彼は『悲劇の王子』として歴史に残ってしまう。……そうではなく、彼が積み上げてきた全ての虚飾を、彼自身に飲み干させなくては」
リィネは震える手で、ガルハルトの頬にある傷跡に触れた。
その感触を確かめることで、自分がまだ「人間」であることを繋ぎ止める。
「ガルハルト。あなたが集めてくれた、地下の惨状の記録……あれを、亡命先へ届ける準備を。それから、私の魔力が完全に『毒』で埋まったフリをするわ」
「……フリ、ですか?」
「ええ。王子が私を『故障した道具』だと確信した瞬間、あの方は自ら私を、この結界の外へと放り出すはずよ。それが、私たちの唯一の脱出口」
リィネの言葉に、ガルハルトは力強く頷いた。
彼はリィネを天蓋付きのベッドに横たえると、その傍らに跪き、主君への忠誠を誓うように彼女の手の甲に額を押し当てた。
「俺の命も、部下たちの魂も、すべて貴女に預けます。……リィネ様、どうかご無理だけはなさらないでください。俺が、貴女の盾となる」
翌朝。
まだ夜が明けきらぬ神殿に、ジュリアスの傲慢な声が響き渡った。
彼は、白百合のように可憐な少女――ミレーヌを伴い、リィネの寝室に土足で踏み込んできた。
「おはよう、リィネ。今日からこの部屋は、ミレーヌ嬢が使うことになった。君のような『汚れ物』を溜め込んだ部屋では彼女が可哀想だが、まあ、掃除をすれば多少はマシになるだろう」
ミレーヌは何も知らず、無邪気な笑みをリィネに向けた。
その背後で、ジュリアスがリィネを嘲笑うように見下ろしている。
「君は今日から、神殿の隅にある物置小屋へ移ってもらう。そこで自分の無能さを呪いながら、余生を過ごすといい。……追放の準備ができるまで、ね」
リィネは何も言わず、ただ深く頭を下げた。
垂れた髪に隠された彼女の口元が、わずかに吊り上がっていることに、王子は最後まで気づかなかった。
罠は、すでに仕掛けられている。
王子の背負う「毒」が、彼女というゴミ箱を失った瞬間にどう溢れ出すのか。
リィネの心象風景には、黄金の城が内側から黒く溶け落ちていく光景が、はっきりと描かれていた。




