第1話:泥を啜る聖女と、黄金を纏う怪物
王都ルミナリスの中央神殿、その最奥にある「清浄の間」は、皮肉にもこの国で最も不浄な場所だった。
窓一つない石造りの部屋に、微かな銀の鈴の音が響く。それは祈りの合図ではなく、家畜を呼び寄せる合図に近い。
「……お待たせいたしました、ジュリアス殿下」
リィネは、震える指先を組んで深く頭を下げた。プラチナブロンドの髪が肩から滑り落ちる。その毛先は、かつての神聖な輝きを失い、どす黒い煤を塗りつけたように変色していた。
目の前には、白と金を基調とした豪奢な椅子に深く腰掛ける青年、ジュリアスがいた。
「遅いよ、リィネ。君を待っている間に、僕の指先が少し荒れてしまったじゃないか。見てごらん、この不快な色を」
ジュリアスが差し出した手は、一般の目から見れば白く美しい。しかし、聖女であるリィネの瞳には、その皮膚の下を這い回るドロドロとした黒い泥のような「穢れ」が透けて見えた。
彼が日々、裏で繰り返している身勝手な振る舞い。弱者を踏みにじり、己の欲望のみを優先させる精神の腐敗。それらが「業」となって、彼の魂を内側から腐らせている。
リィネは無言で彼の前に跪き、その両手を自身の手で包み込んだ。
瞬間、焼けるような激痛が彼女の全身を駆け巡った。
「――っ」
「おっと、声を漏らさないでくれ。僕の気分が台無しになるだろう?」
ジュリアスは冷ややかな笑みを浮かべ、彼女の苦痛を嗜むように見下ろしている。
リィネの体内にある清らかな魔力が、濁流となってジュリアスの中へ流れ込み、代わりに彼の中に溜まった「汚泥」が、彼女の腕へと逆流してくる。
本来、聖女の浄化とは、穢れを天に還し霧散させるものだ。だが、この男に対してだけは違う。彼は自分の汚辱を消し去るのではなく、隣に立つ「器」へと移し替えているに過ぎない。
リィネの白い腕に、浮き彫りになった血管のような黒い紋様が広がっていく。
それは、ジュリアスが昨夜、地下牢に繋がれた奴隷たちに投げつけた罵詈雑言、あるいは彼らの希望を奪った代償の「重み」だった。
(……ああ、今日もこの男は、誰かの人生を壊したのね)
リィネは胃の底からせり上がる嘔吐感を必死に抑えた。
彼女が「浄化」を終えるたび、ジュリアスの肌は陶器のような輝きを取り戻し、反対に彼女は命の灯を削り取られたように衰弱していく。
民衆は、この光り輝く王子を「神に愛された救世主」と呼び、血色の悪い聖女を「不真面目な偽物」と指差す。その歪な構図こそが、ジュリアスの望む世界だった。
「ふう、ようやくスッキリした。やはり君は便利な『道具』だ。性能が落ちてきたとはいえ、まだ使い道はある」
ジュリアスは満足げに立ち上がると、跪いたままのリィネの肩を、汚れ物でも払うかのように軽く叩いた。
彼女がどれほどの激痛に耐えているか、どれほど精神を摩耗させているかなど、彼には微塵も興味がない。暖炉の煤を払うための箒が痛もうが、持ち主が心を痛めることはないのと同じだ。
「……殿下、近頃は王都の外縁部で瘴気が濃くなっていると聞き及んでおります。私の力を、民の救済のために割かせていただくお許しを――」
「却下だ。君の仕事は僕を美しく保つこと、それだけだ。民のことなら僕が笑顔を見せれば解決する。それとも何かい? 君は僕よりも自分の『仕事』の方が大事だと言うのか?」
ジュリアスの瞳が、一瞬だけ爬虫類のような冷たさを帯びる。
リィネは伏せ目がちに首を振った。ここで反論しても無意味であることを、この数年で嫌というほど学んでいた。
「……失礼いたしました。お言葉通りに」
「よろしい。明日の夜会には、もう少しマシな顔をして出席してくれよ。僕の婚約者が幽霊のようでは、僕の格が下がるからね」
ジュリアスが鼻歌まじりに部屋を出ていく。
扉が閉まった瞬間、リィネは床に両手をつき、荒い呼吸を繰り返した。
視界がチカチカと火花を散らす。体内に流れ込んできた他者の「悪意」が、心臓を針で刺すように苛んでいた。
「……リィネ様!」
控えの間で待機していた屈強な男が、音もなく駆け寄ってきた。
黒鉄の甲冑を纏った、野性味溢れる偉丈夫――聖教騎士団長、ガルハルトだ。
彼は大きな掌をリィネの肩に添えようとして、躊躇い、拳を握りしめた。今の彼女は、触れるだけで壊れてしまいそうなほど、細く、脆い。
「……ガルハルト。来てくれたのね」
「無理をなされるな。あのような外道の毒を、これ以上吸い込んでは、貴女の魂が……!」
ガルハルトの琥珀色の瞳には、隠しきれない殺意が宿っていた。その矛先はもちろん、今しがた悠然と去っていった王子に向けられている。
彼は騎士団長という立場上、王子の側近としても振る舞わねばならない。だからこそ、見てしまったのだ。王宮の最深部で、名もなき奴隷たちが「王子の業」を肩代わりさせられ、抜け殻のように使い潰されていく地獄を。
「大丈夫よ。あの方は、私のことを『ゴミ箱』だと思っている。けれど、ゴミ箱が溢れたとき、何が起きるかをご存じないの」
リィネは、ガルハルトの支えを借りてゆっくりと立ち上がった。
黒ずんだ指先を、痛々しくも見つめる。
その瞳の中には、かつて王女として、聖女として持っていた慈悲の心とは別の、凍てつくような「意志」が宿っていた。
「ガルハルト。騎士団の準備は、進んでいるかしら?」
「……御心のままに。五十名の精鋭、いつでも王都を焼き払う覚悟はできております」
「いいえ、焼く必要はないわ。この国は、放っておいてもあの方と共に自滅する。私たちは、その瞬間に『ただそこにいない』だけでいいの」
リィネは窓のない壁を見据えた。
この壁の向こうでは、何も知らない民衆が、王子の偽りの光を称えて歌っている。
彼らもまた、リィネを「無能な聖女」と呼び、石を投げる者たちだ。
だが、それでいい。彼女の「浄化」の力が、王子の内側でどれほどの「毒」を中和し、この国を繋ぎ止めているか。それを知る日は、そう遠くないはずだ。
「殿下は新しい『器』を探していらっしゃる。私が使い物にならなくなる前に、代わりを見つけ、私を『偽物』として捨てるつもりよ」
「そのような不敬、断じて許し難い……!」
「いいえ、ガルハルト。それこそが、私たちの唯一の好機よ」
リィネは、痛む胸を押さえながら、微かに、けれど美しく微笑んだ。
それは、毒蛇を飼い慣らす女神のような、酷薄で聡明な笑みだった。
「あの方が私を捨て、国境の外へ放り出した瞬間――私を縛るこの『穢れの鎖』は断ち切られる。その時、この国がどうなるか……楽しみだとは思わない?」
ガルハルトは息を呑み、そして深く、忠実な犬のように頭を垂れた。
王宮の地下に蔓延る腐敗した空気の中で、二人の静かな誓いだけが、不気味なほどの純潔を保っていた。
翌日、王宮には新しい客人が招かれた。
それは隣国からやってきた、まだ年若い、清純そのものといった佇まいの令嬢だった。
ジュリアスは彼女の手を取り、リィネに見せつけるように囁いた。
「見てごらん、リィネ。彼女は君と違って、とても澄んだ瞳をしている。神の声が聞こえそうなほどにね」
リィネは、冷めた目でその光景を見つめていた。
新しい犠牲者。新しい「ゴミ箱」。
王子の背後で、目に見えない黒い霧が、鎌首をもたげて令嬢に這い寄っていくのが見えた。
(ええ、どうぞ。その子にあなたのすべてを注ぎ込みなさい。そして、私を自由にして)
砂時計の砂が落ちるように、終わりの足音が近づいていた。
聖女リィネの「逆襲」は、まだ誰にも気づかれぬまま、静かに、確実に幕を開けようとしていた。




