第13話:毒の女王の覚醒と、白銀の跪拝
王都ルミナリスの跡地。かつて白亜と称えられた城の残骸は、今や巨大なクレーターのような不毛の地と化していた。
瓦礫の山から立ち昇るのは、ジュリアス王子の消滅と共に噴き出した、数年分の「澱」である。どす黒い霧が地を這い、生ける者の肺を腐らせようと鎌首をもたげている。
その絶望の震源地に、リィネは一人、静かに立っていた。
彼女の白い法衣の裾が、ヘドロに塗れた石畳を撫でる。本来ならば、その瞬間に彼女の肉体は猛毒を吸い込み、激痛にのたうち回るはずだった。だが――。
「……ああ、この感覚。……懐かしくて、そして、あまりに軽いわ」
リィネは、自身の掌を見つめた。
王子の支配(結界)が消えた今、彼女の肉体は「受動的に吸わされるゴミ箱」であることを、自らの意志で拒絶していた。
彼女が深く息を吸い込むと、周囲の瘴気が渦を巻いて彼女の喉へと吸い込まれていく。だが、それは苦痛ではない。
リィネの体内にある、長年毒に晒され続け、異常なまでに変質・強化された魔力回路。それが、吸い込んだ「悪意」を、瞬時にして莫大な「純粋魔力」へと精製し、彼女の四肢に脈動する力として還元していく。
リィネにとって、この世の「毒」はもはや彼女を傷つける刃ではない。
それは、彼女を無限に強化するための、最高の「燃料」へと昇華されていたのだ。
「止まれ! それ以上の接近は許さん!」
瓦礫の向こう側、帝国の軍旗を掲げた一団が姿を現した。
ヴォルフガング将軍率いる、帝国軍の「聖女回収部隊」だ。彼らは魔法障壁を何重にも展開し、リィネを「危険な遺物」として確保しようと、魔導銃の銃口を一斉に向けた。
「リィネ殿! 貴女の魔力暴走は、帝国の管理下でなければ抑えられん! 大人しくこちらへ来い! 貴女のような『毒塊』を、野に放っておくわけにはいかないのだ!」
ヴォルフガングの声には、隠しきれない戦慄が混じっていた。
彼は見ているのだ。リィネが立つ周囲数メートルだけが、あまりに神々しく、あまりに清浄な光で満たされ、物理的な法則すら書き換えられている異常な光景を。
リィネは、ゆっくりとヴォルフガングの方へ顔を向けた。
その瞳は、透き通ったアメジスト。
かつての「ゴミ箱」と呼ばれた少女の、怯えた色は微塵もない。
「……管理? 毒塊? ……ふふ。帝国の方々は、本当にお言葉が過ぎますわね」
リィネが、そっと指を鳴らした。
パチン、という乾いた音が廃墟に響く。
刹那。
ヴォルフガングたちの展開していた最新鋭の魔法障壁が、ガラス細工のように粉々に砕け散った。それだけではない。兵士たちが手にしていた魔導銃、騎士たちが纏っていた魔導鎧――帝国が誇る魔導文明の粋を集めた装備が、一瞬にして「浄化」され、ただの錆びた鉄塊へと成り果てた。
「な……っ!? 何をした! 我が軍の装備が……魔力が、消えただと!?」
「消したわけではありませんわ。……ただ、あまりに『清らか』にして差し上げただけ。……悪意や攻撃性を糧に動く貴方たちの道具は、私の前ではただのゴミに過ぎません」
リィネが一歩、踏み出す。
彼女の足元から、眩いばかりの紫銀色の光が波紋となって広がり、王都全域を覆っていた黒い瘴気を一瞬で飲み込み、中和していく。
毒を吸い尽くし、それを「支配」した聖女の権能。
それは癒やしですらない。世界を彼女の望む「白」に染め上げる、絶対的なる裁定の力。
「ヴォルフガング将軍。皇帝陛下にお伝えください。……私はもう、誰のゴミも引き受けません。……これからは、私を汚そうとする不浄そのものを、この世から消し去って差し上げます、と」
リィネの背後から、一人の男が歩み寄った。
白銀の装飾を施された、漆黒の外套。
ガルハルトだ。彼はリィネの放つ、常人なら即死するほどの高濃度な神聖魔力の中にありながら、平然とした顔で彼女の隣に立った。
「リィネ様。……帝国の後続部隊は、俺の騎士団がすべて追い払いました。……鼠一匹、この聖域には入れさせません」
ガルハルトの声には、かつての王家への忠誠ではなく、一人の女性への狂信に近い情愛が宿っていた。
彼はリィネの前に膝をつくと、彼女の汚れ一つない指先を、己の荒れた唇に引き寄せた。
「……ガルハルト。不敬よ、こんな公衆の面前で」
「今の俺に、仕える主はおりません。……俺が膝を折るのは、世界でただ一人、俺の心を救ってくれた貴女の前だけだ」
ガルハルトの琥珀色の瞳が、リィネを射抜く。
彼は、リィネが神のような力を手に入れても、彼女を「神」として崇めたりはしなかった。
彼は知っている。この美しい光の下で、彼女がどれほどの泥を啜り、どれほどの屈辱を耐え忍んできたかを。
彼が愛しているのは、無敵の聖女ではなく、かつて物置小屋で震えながら、自分を信じてくれた「リィネ」という一人の女性だ。
「リィネ……。もう、あんなゴミ共の相手はよしましょう。……ここは、貴女が望むままに作り変えればいい。……俺が、そのすべてを見守り抜く」
ガルハルトがリィネの手の甲に、深く、刻印を刻むような口づけを落とした。
その触感に、リィネの頬がわずかに赤らむ。
圧倒的な力で世界を平伏させた直後、彼女は初めて、ただの恋する少女のような表情を見せた。
「……ええ。行きましょう、ガルハルト。……私たちの、誰にも邪魔されない場所へ」
リィネが再び指を振ると、崩壊した王宮の跡地から、巨大なクリスタルの樹木が天に向かって芽吹いた。
それは帝国のあらゆる軍事力を拒絶する、絶対的な不可侵領域の境界線。
ヴォルフガングたちは、もはや声を上げることすらできず、ただ遠ざかっていく白銀の騎士と聖女の背中を、畏怖と共に眺めることしかできなかった。
王都は消え、王国も滅んだ。
だが、その灰の中から、かつてないほど美しく、そして残酷なまでに純粋な「聖域」が、産声を上げようとしていた。
聖女リィネ。
毒を喰らい、絶望を飲み干した彼女の逆襲は、今、完全なる勝利(戴冠)を以て、ハッピーエンドへの道へと直通したのだ。
静寂に包まれた聖域の中で、リィネはガルハルトの肩に頭を預けた。
数年間の重荷が、ようやく消えていくのを感じながら。




