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聖女の毒、王子の腐敗。~身代わりの奴隷と騎士たちを連れて亡命したら、王国が勝手に滅び始めました~  作者: 寝不足魔王


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第14話:白銀の休息と、解かれた呪縛

 王都ルミナリスの跡地を包む夜は、かつてないほどに静謐だった。

 日中の騒乱――帝国軍の無力化と、リィネによる圧倒的な聖域化の余韻が、微かな銀色の塵となって宙を舞っている。リィネの魔力が地脈の毒を喰らい、純白の結晶へと作り変えたクリスタルの樹木が、月光を反射して青白くまたたいていた。


 そこにはもう、腐敗の臭いも、肺を焼く瘴気も存在しない。

 リィネは、ガルハルトが瓦礫の中から運び出し、丁寧に汚れを拭き取った背もたれ付きの椅子に深く腰掛けていた。


「……リィネ様。夜風が冷えてまいりました。これを」


 背後から、ガルハルトの低い、地鳴りのような声が響く。

 彼は白銀の加護を帯びた外套をリィネの肩にふわりとかけ、その大きな手で襟元を整えた。リィネは、彼の指先が自身の首筋に触れた瞬間、わずかに肩を揺らした。


 かつて、この首筋はジュリアス王子が「毒を流し込むための注ぎ口」としていた場所だ。

 誰かに触れられることは、すなわち「他者の不浄を流し込まれる苦痛」と直結していた。

 だが、今、ガルハルトの指先から伝わってくるのは、刺すような魔力の冷たさではなく、生きている人間としての確かな熱だった。


「……ありがとう、ガルハルト。……貴方は、疲れていないの?」


「貴女の傍にいるだけで、俺の傷も疲れも癒えていくようです。……皮肉なものですね。王国では、貴女の傍にいるだけで皆が『清らか』になれると信じられていたのに、実際は貴女一人がその代償を支払わされていた」


 ガルハルトは、リィネの足元に膝をつき、野営用の小さな焚き火に薪をくべた。

 パチパチと爆ぜる火の粉が、二人の顔をオレンジ色に染める。ガルハルトは、使い込まれた鉄の小鍋で淹れたばかりの茶を、木製のカップに注いでリィネに差し出した。


 リィネは、躊躇いがちにそのカップを受け取った。

 彼女にとって、「飲食」は長らく苦行でしかなかった。

 体内に王子の毒が充満していた頃、リィネの味覚は完全に麻痺していたのだ。何を口にしても腐った泥の味がし、喉を通るものはすべて鉄の錆のような嫌な臭いを伴った。

 彼女は、生きるために必要な最低限の栄養を、吐き気を堪えながら流し込むだけの毎日を過ごしてきた。


「……っ」


 一口、茶を啜った瞬間。

 リィネのアメジスト色の瞳が、驚愕に大きく見開かれた。


「……おいしい」


 掠れた声が、彼女の唇から零れ落ちた。

 ただの乾燥した茶葉を、煮え湯で出しただけの粗末な飲み物だ。

 しかし、リィネの舌の上で踊るのは、大地の芳醇な香りと、茶葉の爽やかな渋み。そして、それを淹れたガルハルトの、不器用なまでの丁寧さが伝わる温もりだった。


「……おいしいわ、ガルハルト。……苦くない。……泥の味が、しないの」


 リィネの手が、小刻みに震え始める。

 カップを握りしめる指先が、白くなるほどに力がこもる。

 彼女は、もう一口、今度は確かめるように深く啜った。温かい液体が喉を通り、胃に落ちる。その当たり前の感覚が、彼女の閉ざされていた五感を、一枚ずつ剥ぎ取るように呼び覚ましていく。


 美味しいと感じられる。

 風が心地よいと感じられる。

 隣にいる人間を、愛しいと感じられる。


 その事実が、リィネの心に堰き止められていた感情の決壊を招いた。

 一筋の涙が、彼女の頬を伝い、茶の中に落ちて波紋を作る。


「リィネ様……? お口に合いませんでしたか」


 ガルハルトが狼狽し、慌てて彼女の顔を覗き込んだ。

 リィネは首を横に振り、声を上げて泣き始めた。

 それは「ゴミ箱」だった頃の悲鳴ではない。一人の人間として、自分の人生を取り戻したことを祝福する、あまりに遅すぎた産声だった。


「私は、ずっと、この味を忘れていたの。……誰の毒も混じっていない、本当の、水の味を……」


「……リィネ様」


 ガルハルトは、迷いを捨てた。

 彼は騎士としての礼節をかなぐり捨て、床に膝をついたまま、震えるリィネの肩をその逞しい腕の中に閉じ込めた。

 かつての王子が「支配」のために彼女を拘束したのとは、正反対の抱擁。

 彼はリィネを、自分より上位の「聖女」としてではなく、今にも消えてしまいそうな「一人の少女」として、その胸に抱き寄せた。


「……泣いてください。……今まで吸い込んできた泥を、すべて涙に変えて、俺の胸に捨ててください。……俺は、貴女の毒を吸わされるだけの男にはなりません。……貴女の悲しみを、貴女と共に背負う男になると決めたのです」


 リィネは、ガルハルトの黒い旅装束の胸元に顔を埋めた。

 彼の心臓の音が聞こえる。ドクン、ドクンと、一定のリズムで刻まれるその鼓動は、王子のそれのように傲慢ではなく、大地のように深く、誠実だった。

 ガルハルトの体からは、戦場を駆ける獣のような荒々しい体温と、夜露に濡れた草のような、清潔な香りがした。


 リィネは彼の腕の中で、どれほどの時間、泣き続けたか。

 やがて涙が枯れ、呼吸が整う頃、彼女は初めて自分の意志で、ガルハルトの首元に細い腕を回した。


「……ガルハルト。……私、もう、誰の身代わりにもならないわ」


「ええ。……これからは、貴女が自分自身の人生を歩むためだけに、その力を使ってください。……俺が、そのための時間を、死ぬまで守り抜きます」


 二人の影が、焚き火の光に引き伸ばされ、重なり合う。

 その時、聖域の境界線付近で、微かな魔力の揺らぎがあった。

 帝国軍の使者が、リィネの圧倒的な威圧に恐れをなし、地面に這いつくばって「不可侵条約」の書状を置いていったのだ。

 帝国は、リィネを「兵器」として扱うことを諦めた。いや、彼女という存在が、もはや人知を超えた「自然災害」に近い神威であることを悟り、ただ触れぬように距離を置くことを選んだのだ。


 リィネは、遠ざかっていく使者の気配を、冷めた目で見つめた。

 かつて自分をゴミ箱扱いした世界が、今、自分との関わりを断とうとしている。

 それでいい。

 リィネが望んでいたのは、豪華な王宮でも、民衆の称賛でもない。

 ただ、この広い世界の中で、誰にも汚されず、自分の好きな茶を飲み、自分を愛してくれる人の声を聞ける、小さな、けれど絶対的な「自分だけの場所」だった。


「……ガルハルト。……明日の朝になったら、あの瓦礫の隙間に、一輪の花を植えましょう。……魔法ではなく、私たちの手で、土を掘って」


「……御心のままに、リィネ。……いや、リィネ。……俺が、貴女の隣で、その手を一生離しません」


 ガルハルトが、リィネの額に、慈しむような柔らかな口づけを落とした。

 リィネは目を閉じ、深い、深い眠りへと誘われていく。

 隣には、自分を汚さない、唯一の「騎士」がいる。

 夜明けは、もうすぐそこまで来ていた。

 それは、聖女リィネとしての義務が終わり、一人の女性としてのハッピーエンドが始まる、祝福の朝日だった。


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