第12話:汚泥の王冠と、審判の接吻
王宮最上階、玉座の間。
崩れ落ちた壁の隙間から吹き込む風は、もはや生者の呼吸ではなく、死にゆく国の断末魔だった。
リィネの指先から放たれた漆黒の雷光が、ジュリアス王子の胸元に突き刺さる。それは、彼女が数年間、その身を挺して飲み込み続けてきた「王子の毒」のすべて――純化され、濃縮され、何倍にも増幅された、因果の報いそのものだった。
「あ……が、は……っ!?」
ジュリアスは一瞬、天を仰いで恍惚とした表情を浮かべた。
リィネの魔力が体内に入り込んだ瞬間、あまりの密度の高さに、彼はそれを「極上の浄化」だと錯覚したのだ。だが、その歓喜は一秒も持たなかった。
彼の全身の毛穴から、どす黒いヘドロが噴水のように噴き出した。かつての陶器のような肌は、内側から膨れ上がる汚泥の圧力に耐えきれず、ひび割れた大地のように無数に裂け、そこから紫色の腐敗臭を放つ蒸気が漏れ出す。
「熱い……! 熱いぞ、リィネ! 何をした……僕の中に、何を流し込んだんだ!!」
ジュリアスは狂ったように叫び、玉座の肘掛けを掴んだ。
だが、その黄金の肘掛けさえも、彼の手に触れた瞬間、黒く変色してドロドロに溶け落ちていく。彼が今まで、奴隷や聖女という「ゴミ箱」に捨て続けてきた不浄が、今、唯一の持ち主である彼の元へ、利息をつけて一気に帰還したのだ。
「……何をしたか、ですって? 決まっているではありませんか」
リィネは一歩、また一歩と、汚泥の中に膝をつく王子へと歩み寄る。
彼女の歩く道だけは、神聖な魔力の障壁によって汚泥が左右に割れ、一滴の汚れも彼女の純白の法衣を汚すことはない。
その瞳は、凍てつくアメジスト。
慈しみも、怒りも、復讐の悦楽さえも削ぎ落とされた、ただ「正しく在るべき形」を執行しようとする、絶対的な審判者の美しさ。
「貴方がおっしゃったのですわ。……掃除は崇高な義務だと。……私はただ、その義務を全うしているに過ぎません。……この国から、最大の『汚れ』である貴方を、一粒残らず片付けるという義務を」
「ふざけるな! 僕は王子だ! 神に愛された黄金の救世主なんだぞ! ……そうだ、身代わりだ! 地下の奴隷どもに流せ! 首輪の契約を起動しろ!!」
ジュリアスは血走った目で叫び、空中に不可視の術式を編もうとした。
彼が誇る「無敵」のシステム。自分の痛みも、罪も、すべて他者へ転嫁する呪いの回路。
だが。
ドォォォォォォォォォン!!
城の地下から、地鳴りのような爆鳴が響き渡った。
玉座の間の床が大きく揺れ、ジュリアスが編みかけていた術式が、霧散して消える。
「……残念でしたわね。今、ガルハルトたちが地下の中継器(祭壇)を破壊しました。……貴方の『痛み』を受け止める器は、もうこの世界には存在しません」
「な……っ!? あ、ああああああああっ!!」
中継器という「逃げ道」を失った瞬間、行き場を失った数年分の「業」が、ジュリアスの肉体へと逆流の嵐となって襲いかかった。
彼の背中から、不気味な黒い触手のような瘴気が数十本も噴き出し、まるで彼自身の影が彼を食らおうとしているかのように蠢く。
ジュリアスの黄金の髪は一瞬で抜け落ち、頭皮からはどす黒い粘液が溢れ出した。
かつて彼が踏みにじってきた名もなき奴隷たちの怨嗟。
彼が私欲のために枯らした大地。
彼が「ゴミ箱」扱いした聖女の、数千夜に及ぶ孤独な苦痛。
それらすべてが、物理的な質量となってジュリアスの骨を砕き、内臓を焼き、精神を千々に引き裂いていく。
「リィネ……助けてくれ……リィネ……! 君ならできるだろう!? 昔みたいに、僕の首筋に触れて、この『熱さ』を吸い取ってくれ!! お願いだ、君だけなんだ……僕を綺麗にできるのは!!」
ジュリアスは這いずり、リィネの足元に縋り付こうとした。
だが、彼の手が彼女の靴に触れる寸前、リィネは氷のような冷徹さで、その手を踏みにじった。
ぐしゃり、という嫌な音が静まり返った広間に響く。
「……汚らわしい。……貴方は、最後まで私を『道具』としてしか見ていないのね」
リィネは、身を屈めて王子の顔を覗き込んだ。
半分が溶け落ち、眼球が剥き出しになった王子の無惨な顔。そこには、かつての傲慢な美貌の欠片もない。
「……ジュリアス殿下。……貴方は知っていますか? 真の浄化とは、汚れをどこかへ移すことではありません。……汚れそのものを、この世の理から消し去ることなのですわ」
リィネが両手を広げた。
彼女の全身から、天を貫くような、透き通った紫銀色の光柱が立ち昇る。
それは帝都で覚醒し、帝国の魔導師たちすら戦慄させた、超高密度に純化された神聖魔力。
「……これは、私からの最後のプレゼントです。……貴方が愛してやまなかった『自分自身』ごと、すべての汚れを消し去って差し上げましょう。……跡形もなく、記憶の一片すら残らないほどに」
「や、やめろ……! 僕が消える……!? 王子である僕が……!? そんなの、認めな、い……っ!!」
「――さようなら。……私の、人生の澱」
リィネの指先が、慈しむように王子の額に触れた。
刹那。
視界が真っ白に染まるほどの、圧倒的な光の奔流が玉座の間を呑み込んだ。
浄化ではない。それは「消滅」の奇跡だった。
光に触れた汚泥は瞬時に昇華し、王子の肉体は、粒子となって分解されていく。
彼が溜め込んできた「毒」は、リィネの魔力という究極の溶媒に溶け、宇宙の塵へと還されていった。
「あ……あ、あ…………」
ジュリアスの最期の声は、悲鳴ですらなかった。
ただ、自分の存在が、自分が汚した世界から根こそぎ消えていく恐怖に震えた、小さな吐息。
光が収まったとき、そこには玉座も、汚泥も、そして「ジュリアス」という男の残骸すらも、何も残っていなかった。
がらんとした玉座の間。
リィネは、一人静かに立ち尽くしていた。
背負い続けてきた「ゴミ箱」としての役割。自分を縛っていた毒の鎖。そのすべてが、今、完全に消滅した。
ズズズ……と、城全体が激しく揺れ始めた。
主を失い、瘴気の核を破壊されたサンクチュアリ王城が、自重に耐えきれず崩壊を始めたのだ。
「リィネ様!!」
崩れる壁を蹴破り、ガルハルトが飛び込んできた。
彼は迷うことなくリィネを横抱きにすると、背後で降り注ぐ瓦礫の雨を、白銀の加護を帯びた背中で弾き飛ばしながら、崩壊する城を駆け下りた。
「……終わったわ、ガルハルト」
彼の腕の中で、リィネは力なく笑った。
ガルハルトは彼女をさらに強く抱きしめ、唸るように応えた。
「ええ。……すべて、終わりました。……これからは、貴女様を汚すものは何一つありません」
城が轟音を立てて崩れ落ちる。
王都を覆っていた不気味な黒い繭が、内側から弾け、霧となって霧散していく。
砂塵が舞う中、リィネたちが城外へと脱出した瞬間、東の空から、本当の朝日が差し込んだ。
王国の象徴であった白亜の城は、跡形もなく消え去った。
そこに残ったのは、浄化され、真っ新な大地へと還った「空っぽの土地」だけだ。
リィネは、朝日を浴びて輝くガルハルトの横顔を見つめた。
彼女の髪は、もう黒ずむことはない。
彼女の瞳は、もう痛みで潤むことはない。
「……行きましょう、ガルハルト。……私たちの、新しい国へ」
聖女リィネ。
かつてゴミ箱と呼ばれた少女は、今、自らの手で過去を葬り、真の救世主として、新たな歴史の第一歩を踏み出した。




