第10話:白銀の進撃と、紫煙の暗殺者
サンクチュアリ王国の国境。かつて「精霊の吐息」と呼ばれた柔らかな風は死に絶え、今は腐った泥の臭いと、肺を刺すような黒い煤が空を支配していた。
その絶望の帳を切り裂くように、一筋の銀光が走り抜ける。
「全軍、歩みを止めるな。リィネ様の加護を信じ、この腐土を踏み越えろ!」
ガルハルトの咆哮が、重苦しい大気を震わせた。
白銀の甲冑を纏った聖教騎士団の先鋒。その中心で、純白の神馬に跨るリィネは、静かに目を閉じて両手を広げた。
彼女の指先から、アメジスト色の燐光が砂塵のように舞い落ちる。
「……浄め(きよめ)なさい。ここは、あの方のゴミ捨て場ではないわ」
刹那、リィネを中心に同心円状の光の波動が爆発した。
進軍路を塞いでいた、どす黒く変質した茨の森が、光に触れた瞬間に悲鳴を上げるようにして霧散していく。亀裂の走った枯れ地からは、一瞬にして青々とした苔が萌え出し、死んでいた地脈に瑞々しい魔力が還っていく。
帝国軍の将兵たちは、その「奇跡の道」を呆然と見つめた。瘴気に触れれば即座に肉が腐り落ちるはずの死地が、リィネの足元から、文字通り楽園へと塗り替えられていくのだ。
だが、その神聖な沈黙を破り、不気味な紫の煙が地面から染み出した。
煙は人の形を成し、関節を異常な方向に折り曲げながら、音もなくリィネの背後へと肉薄する。
「――リィネ……サマ……。シン……ゾウを……クダサ……イ……」
それは、ジュリアス王子が自身の瘴気を直接流し込み、生ける屍へと変えた「紫煙の暗殺者」たちだった。
彼らの眼球は溶け落ち、代わりに眼窩からはドロドロとした黒い泥が溢れ出している。ジュリアスの狂気と執着をそのまま形にしたような、おぞましい異形。
「不浄な影が、この方に触れるな!」
ガルハルトが電光石火の速さで大剣を抜き放った。
リィネの加護を受けた白銀の刃が、半霊体であるはずの暗殺者を一刀両断にする。
通常の剣では空を切るだけの紫煙だが、聖女の魔力を帯びたガルハルトの一撃は、暗殺者の実体を強制的に固定し、その魂ごと切り裂いた。
「ギ、ァァァァァァァッ!!」
暗殺者が断末魔を上げ、黒いヘドロとなって地面にぶちまけられる。
ガルハルトは剣を振り抜き、残りの三体を瞬く間に細切れにした。その野性味溢れる動きは、もはや人間の域を超え、主を守る神獣の如き気迫に満ちていた。
リィネは地面に広がる黒いシミを、冷めた目で見下ろした。
「……哀れね。あの方は、自分の罪を認める代わりに、人を化け物に変えてまで私を奪おうとする。……どこまでも、自分しか愛せないお方」
一行は、国境から数キロ入った地点にある「ミスト村」へと到達した。
かつては酪農で栄えた平和な村だった。だが、今のそこにあるのは、死臭漂う静寂だけだ。
村の広場には、瘴気病に侵された村人たちが、折り重なるようにして倒れていた。彼らの肌には、王子と同じ黒い斑点が浮かび、苦しげに喉を鳴らしている。
「……あ、ああ……聖女、様……?」
一人の老人が、泥に塗れた手をリィネに伸ばした。
かつて、この村を訪れたリィネに「偽物」と罵声を浴びせた者たちだ。王子の「聖女が国を捨てたから呪いが起きた」という嘘を信じ込み、彼女の肖像を焼いた者たちだ。
ガルハルトが剣の柄を握り、冷たく言い放つ。
「貴様ら、どの面を下げて……!」
「――いいのよ、ガルハルト」
リィネは馬を降り、泥だらけの広場の中央へと歩み出た。
彼女は慈悲深い聖母の顔でも、復讐に燃える魔女の顔でもなく、ただ「淡々と掃除をする者」の無表情で、大地に杖を突き立てた。
「……光よ、すべての汚濁を飲み干しなさい」
広場を中心に、天を突くほどの巨大な光の柱が立ち昇った。
村を覆っていた重苦しい黒い霧が、光に焼かれて消滅していく。
倒れ伏していた村人たちの体内から、不気味な黒い蒸気が吸い出され、天へと浄化されていく。
斑点が消え、瞳に光が戻った村人たちは、自分たちの体が信じられないほど軽くなっていることに気づき、一斉に嗚咽を漏らした。
「……ああ、神よ! 私たちは、なんて愚かだったんだ!」
「本物の聖女様は、私たちを捨てていなかった! 捨てていたのは、王子の方だったんだ!」
村人たちは泥に額を擦り付け、リィネに謝罪と祈りを捧げる。
リィネは彼らの感謝を浴びながらも、その視線は遥か北――王都ルミナリスの方向を見据えていた。
空の果て。
そこには、かつての白亜の城下町を飲み込むほど巨大な、不気味な「黒い繭」が鎮座していた。
王都から噴き出した瘴気が凝縮し、物理的な障壁となって国の中枢を隔離している。
「……ヴォルフガング将軍。あの繭が見えるかしら?」
合流した帝国軍の将軍に向かって、リィネが静かに問いかける。ヴォルフガングは、鋼の兜の下で顔を歪めた。
「ええ。……あれはもはや人の住む場所ではない。魔王の玉座だ」
「あれは、あの方が数年かけて溜め込み、私に押し付けていた『ゴミ』の総量よ。……ようやく、本来あるべき場所にすべてが戻ったのね」
リィネの瞳には、一切の揺らぎはない。
彼女は、ガルハルトが差し出した手を取り、再び馬上へと戻った。
「行きましょう。あの繭を一つずつ剥ぎ取り、中に引きこもっている怪物を、白日の下に引き摺り出すために」
帝国軍の軍靴の音が、大地を揺らす。
かつて聖女をゴミ箱として扱った王国。その最後の一片が腐り落ちるまで、彼女の進軍は止まらない。
背後の村人たちの祈りと、前方の怪物の悲鳴。
二つの声が交錯する中、白銀の軍勢は、暗黒の繭へと向かって、容赦なく突き進んでいった。




