[1]婚約破棄は王妃陛下主催の舞踏会場で
近代ヨーロッパ風異世界ファンタジーです。
思ったより長くなってしまったので、短編の予定が続きものになりました。
あとヒロインの一人称の予定だったのですが、なぜか書いたら三人称になってました。なぜ!?
この世界の設定や、ヨーロッパ貴族の裏話的なものも併せてUPしましたが、別にこれは読まなくでも本編には一切かかわり合いがありません。
あと、あくまでこの作品は近代ヨーロッパ準拠なので、「まあこんな感じ」というだけで、絶対にこうでなければならないとかではありませんし、他に強要する意図は一切ございません。
そもそも創作としてのフィクションも多分に含まれています。
西大陸の枢軸とも言われる大国にして、長い歴史と華やかな文化・文明の発信地として名高いセレスティア王国の首都オルヴェール。
その中心である荘厳にして壮大な王宮『太陽の宮殿』――その中でも壁全面が銀の鏡張りであり、さらに柱や天井は精緻な神話の獣や戦いの彫刻が施された大理石で飾られ、さらには、この国で最も信奉されている”戦神”や”星の女神”の彫刻が並べられた、まさしく神々の加護や王の富を誇示するに相応しい壮麗な大広間。
下級貴族であれば生涯足を踏み入れる事すら敵わない、その"鏡の間"では、その日、王妃陛下主催の舞踏会が、国内の高位貴族や他国からの来賓を招いて、かくも盛大に開催されていた。
と――。
「うるさい! 口を開けば武器だの軍略だのと、野蛮な話でもううんざりだ!! ルヴァンサー侯爵令嬢レティシアっ。自分――私、栄えあるブリエール伯爵家三男、マケール・ゴーモンは、貴様との婚約を破棄することを、この場で宣言する!!」
そこへ場違いにも響き渡った、およそ場をわきまえないヒステリックな叫び声に、王家自慢のワインやカクテル、フルーツジュース等々を口にしながら和やかな談笑を行い、踊り疲れて小腹が空いた者は、王宮料理人が腕を振るったサンドイッチやカナッペ、一口サイズのキッシュやデザートといった饗膳を楽しんでいた(とはいえ、あくまで軽食であり、シッカリと腹を満たしたい場合は、別室に山海の珍味が山のように準備されている)招待客たちが、この突然の騒ぎにピタリと口をつぐんで目を見合わせ、微かに顔をしかめて無作法さを咎めながら、王侯貴族らしい鷹揚な仕草で騒ぎの元凶へと視線を巡らせる。
水を打ったような――宮廷楽団も困惑した様子で演奏の手を止め――静寂が"鏡の間"を支配する中、20歳ほどの……まあそれなりに整った(貴族としては平均的な)顔立ちと、伯爵家の令息としてはいささか華美過ぎる服装をした(通常パーティでは男性は女性の引き立て役になるべく、フォーマルな服装であるのが暗黙の了解である)茶髪の青年が、鼻息荒く肩を怒らせて、淡い水色のドレスを纏った15~16歳ほどかと思える、ひとりの令嬢を睨みつけていた。
”――ほう……っ……これは…これは……!?”
自然な流れで相手の令嬢へと視線を移した瞬間、驚嘆とも賛嘆ともつかぬ吐息が、老若男女問わず無意識にこぼれ落ち、しんと静まり返った"鏡の間"――鏡面のように澄んだ水面に小石を投げた……そんな、さざ波にも似た声にならない波紋が、幾重にも重なったうねりとなって会場の隅々まで行き渡るのだった。
「……なんと…なんという可憐な令嬢であることか」
修辞や追従ではない、誰かがこぼした何のてらいもないその呟きに、誰もが無言のまま……感に堪えないとばかり、『然り』と揃って同意を示した。否、示さざるを得なかった。
長いプラチナブロンドの髪に菫色の瞳をした、美しくも儚い風情の……まるでお伽噺のお姫様か、夢の中の天女や天使もかくやという――美人・美女には見慣れた王侯貴族の面々でさえ目を奪われ、見惚れずにはいられない――まさに絶世・傾国としか言いようのない、美少女を目の当たりにして、にわかに浮足立つ参加者たち。
ここらへんは、さすがは海千山千の貴族たちである。直前の騒ぎなどなかったかのように――お互いに阿吽の呼吸で連携をし――興味のあること以外には、もはやどうでもいいとばかりの変わり身の早さで、場の空気を入れ換えた。
浮足立った招待客たちの声を潜めた囁き声が、瞬く間に"鏡の間"を席捲する。
「オリエントの詩に歌われた”沈魚落雁、閉月羞花”とはまさにかの佳人を形容する言葉であろう」
「白を基調とした淡色のドレス……ということは未婚の貴族令嬢であろう。着ているモノの品も良い。装飾品も上級貴族のもの。――どこの令嬢であろうか?」
「先ほど、あちらの粗忽者が『ルヴァンサー侯爵令嬢』と叫んでいたような?」
「ああ、驚いて聞き逃しかけていたが、言われてみれば彼の令嬢の背後に控えられている《付添人》は、社交界の花と謳われるルヴァンサー侯爵夫人ですな!」
「まあっ、髪と瞳の色以外は、夫人のお若い頃に生き写しですわねっ」
「そちらは父君である元帥閣下――いや、ルヴァンサー侯爵の色ですな」
「はうぅぅぅ……あの方もお若い頃から大層な美丈夫で、同年代の娘たちの憧れでしたわ」
「令嬢はお二方の良いとこどりということか。しかしながら……」
なお、『付添人』というのは未婚の令嬢が公式行事に参加する際に、必ず同伴する保護者であり、通常は母親・姉・叔母・信頼できる家庭教師などが通例であった。
さらに侯爵家ほどになるともう一名、会場に上級メイドを同伴することが可能であり、本来はルヴァンサー侯爵夫人の傍に控えているはずのそのメイドは、この茶番が始まってすぐに夫人の目くばせを受け、軽く一礼をして身を翻し、壁際に待機していた従僕へ「護衛に伝えなさい!」と指示を出していた。
今頃は侯爵家の専用馬車の周囲に待機している従者・護衛――揃いの制服にルヴァンサー侯爵家の家紋の入った真紅のマント、サーベル、短銃を装備した騎士たち――に事の次第を伝え、即座に伝令役が戦場仕込みの強靭な軍馬(黒で統一)を駆って、全力で侯爵邸へ疾走していることだろう。馬の速さと機動力から鑑みて、およそ15~20分以内に報告はなされるはず。
いまだにどうしたものかとオロオロしている室内の近衛隊や、出入り口から困惑した表情で中の様子を窺っているだけの宮殿警備員の不甲斐ない有様に、内心で大いに失望を広げながら、その猛者たちが独自に討伐したドラゴンの骨から削り出し、骨組みに使われている愛用のエヴァンタイユを手に、気持ちを切り替えるルヴァンサー侯爵夫人。
(今頃はルヴァンサー侯爵が無言で殺気を放ちながら伝家の宝刀を抜いて、長男継嗣であるアルベリクが、青筋を立てながら短銃の手入れをし始めた……ってところかしら?)
軍人貴族の妻として、北方騎馬民族の侵略・魔狼の集団暴走・川の氾濫や土砂崩れなど、何度となく火急の事態にも対処してきた金髪碧眼の美魔女――結婚して20年以上経つが、いまだ娘とは姉妹に間違えられる――ルヴァンサー侯爵夫人は、優雅に広げたサテン製のエヴァンタイユで口元を覆いながら、全幅の信頼を寄せる家臣団と、一粒種の娘と妹を溺愛する夫と長男の動きを想定しつつ、うっそりと嗤った。
鼻息荒い婚約者(たった今、大声で破棄されたので元婚約者ということになるか……?)と対峙す態で見世物にされながらも、特に動じた風もなく軽く小首を傾げた一人娘(他は全員男兄弟ばかりである)からの、「どうしますか?」と若干辟易したような視線を感じて、ルヴァンサー侯爵夫人は本日の主催であり、公私ともに親交のある王妃陛下の顔色をゆるりと窺う。
途端、典雅な王族の笑みはそのままに、心なしか背中に修羅を背負いつつ、実にいい笑顔で王妃陛下は閉じた扇で、首の下を掻っ切るジェスチャーを示した。
王侯貴族の女性たちが密かに使う『扇子言葉』である。
『やっておしまいなさい』
ルヴァンサー侯爵夫人は扇を閉じて、扇の先端を右頬に当てる、これも『扇子言葉』で返した。
『了解しました。――レティシア、情け無用。ルヴァンサー侯爵家門として、本気でやりなさい』
『わかりました。可及的速やかに対処いたします』
即座に、王妃陛下>ルヴァンサー侯爵夫人>レティシアの間に暗黙のコミュニケーションと合意がなされる。
「どこを見ている!? 聞いているのかレティシア! それとも見た目だけの山猿には、英邁にして高尚な宮廷貴族の言葉が理解できんのか?! まったく、これだから古臭い歴史と暴力だけにしか素養のない”軍人貴族”は嫌なんだ。我ら宮廷貴族の中核を担う”法衣貴族”とは会話が成立しないからな」
そんな一瞥すらも気に食わなかったのか、或いは啖呵を切ったはいいが、周りの反応が予想よりも淡白だったせいか……普通、これだけあからさまに無視されれば、いたたまれずに退散するものだが、面の皮の千枚張りに厚いらしいマケール伯爵令息のさらなる暴言に、この場に招待されている”軍人貴族”たる門閥貴族たちが色めき立つ。
逆に現在の宮廷貴族の主力派である”法衣貴族”たちは無反応……もしくは苦々しい表情で、マケール伯爵令息を睨めつけた。
確かに”法衣貴族”たちは、大臣、裁判官、官僚として国の要職を担っているが、所詮は領地を持たない『名ばかり領主』『新興貴族』である(実際、法衣貴族の筆頭たる、宰相リヴェルモン卿からして伯爵でしかない)。
古くからの門閥貴族や領主貴族の影響力は隠然として強大であり、これを軽視することは厳に慎まねばならなかっのだ……が、バカが勝手に”法衣貴族”の代表面をして、目の前で《ドラゴンの逆鱗に触れる》が如き蛮行・暴言を重ねる姿に、気の弱いご婦人方は次々と卒倒し、せっせと王宮付きの侍女と宮殿警備員によって控室へ運ばれていった。
「とにかく貴様との婚約は破棄だ、破棄っ! いくら見た目がよかろうと、ダンスの時に手を握る以外、指一本触らせないような置物のような女など、いてもいなくても同じだからな。今日も今日とてせっかく俺がブリエール伯爵家の馬車で送り迎えしてやろうとしたのに、けんもほろろに断りやがって……。婚約者同士なら二人きりの時間を愉しむべきだろうがっ」
『いや、未婚の令嬢ならそれが当たり前だろう!!!』
マケールが吐き捨てた苦言(暴言)に、その場に居合わせた王侯貴族たちの心が、派閥や利害、主義主張を越えてひとつになった。
未婚の貴族令嬢はたとえ婚約者とはいえど、肌を触らせたり、ましてや馬車の中で二人きりになるなどという破廉恥なことはしない。デートをするにしても《付添人》と女性使用人、護衛同伴が必須である。
「よって貴様の有責により婚約は破棄とする。そして代わって――」
啖呵を切ったところでマケールが手招きをすると、貴族たちの列の間から小柄だが胸は大きい、ピンクブロンドの髪をした15~17歳と思える令嬢が、小鹿のように躍り出てきて当然のようにマケールの腕に身を寄せて取りすがった。
そんな非常識な女性の行いと、それを王侯貴族の面前で許容するマケールの倫理観の欠如に、先ほどとはまた違う種類のどよめきが沸き起こる。
同時に白目を剥いてぶっ倒れるブリエール伯爵家の侍従。
それを恐ろしくポジティブに解釈して、ドヤ顔になるマケール・ゴーモンであった。
(知らない顔ね。どこの家の者かしら? ナチュラルメイクに見せかけて厚化粧をしているけど、素顔は平凡だわね)
(態度があざとらしいから幼く見えるけど、年齢はレティシア嬢より1~2歳上ってところかしらね。見た目も中身も『金と泥を比べる』みたいなものだけれど……)
(胸はパッドとコルセットで盛った偽胸。下品なドレスと装飾品は派手だけど、どちらも付け焼刃感があるので、所作と併せても下級貴族か或いは郷士がいいところね)
(ご覧になって! 舞踏会にあんな短い色付き手袋で来るなんて、王妃陛下を侮辱しているのかしら!?)
一瞬にして海千山千の貴族婦人たちが、そのピンクブロンド令嬢を値踏みする。
「このゼリー・オーブリー男爵令嬢を新たな婚約者とすることを宣言する! ゼリー嬢は氷細工のように冷たい貴様と違って、常に優しくこの俺を癒してくれる、まさに慈母の如き存在だ。地上に降りた”星の女神”の化身と言っても過言ではないだろう!!」
刹那、"鏡の間"に設置してあった、名工の手になる”星の女神”の像が、何の予兆もなく突如真っ二つに割れた。
過言過ぎたらしい。
女神の癇癪を目の当たりにして、”法衣貴族”の中でも、神職である神殿貴族たちが、卒中のようにバタバタと心臓麻痺でぶっ倒れる。
いろいろな意味で阿鼻叫喚、混乱と喧騒の坩堝と化した"鏡の間"。
『つまり、この絶世の美少女相手に婚前交渉を目論んでいたけれど、身持ちが硬くて何もできなかったので、あっちの緩そうな令嬢に乗り換えたってことか?』
『それって単なる浮気では?』
『なんでそれで婚約者の有責になるんだ?』
『だいたい男爵家……まして令嬢ごときが、この舞踏会に参加できるわけないだろう? 堂々たる不法侵入ではないのか?』
『オーブリー男爵というと、父親の代で爵位を得た奴隷商人ですな』
『ええ、何でも現当主の夫人も解放奴隷だそうで……』
次々に引き起こされる予想を遥かに超えた非常事態と言動に、二の句が継げない様子でお互いの常識の擦り合わせをする賓客たち。
なお、ブリエール伯爵家の侍従は泡を吹いてピクピクしていたが、誰も心配する素振りもなく(下手に関わり合いになりたくないので)放置されていた。
「――はあ、なるほど……。つまりブリエール伯爵令息は。そちらにいらっしゃるオーブリー男爵令嬢…でしたか? その方と婚約をなされるという理解でよろしいでしょうか?」
絹製の純白(未婚の令嬢の正装)である、肘上までの長い手袋を着用した華奢な指先で、愛用の扇をこれ見よがしになぞりながら(扇子言葉:意味「あなたなんか大嫌い」)、その見た目に相応しい銀鈴のような声で、レティシア嬢はマケール・ゴーモンを正面からひたと見据えて念を押した。
「その通りだ! いまさら嘆いたところで自業自得と――」
「それは慶事ですわね。おめでとうございます。お二方の門出をお祝い申し上げますわ」
嵩にかかって言い募ろうとしたマケール・ゴーモンの機先を制して、レティシア嬢が見事な淑女の礼を取ってみせる。
「な、なんだ……それは? は、ははぁ、強がりか。プライドと古いだけの歴史しかない門閥貴族はこれだから――」
「ところで」
さらに言い募ろうとしたマケール・ゴーモンに向かって、レティシア嬢は小鳥のように小首を傾げた。
「先ほど『婚約破棄』などとおっしゃっていたように聞こえたのですが……? それはどなたとどなたのお話でしょうか?」
「はン! まだ理解していなかったのか?! これだから道理を理解できぬ”軍人貴族”は困る。慈悲深い俺がもう一度宣言する! 貴様――ルヴァンサー侯爵令嬢レティシアと、この俺、栄光あるブリエール伯爵家三男たる、マケール・ゴーモンとの婚約だっ!」
「婚約……? マケール・ゴーモン卿とは社交の場でブリエール伯爵とご一緒の際に、何度かご挨拶した程度の関係ですが?」
「とぼけるな! 国の重鎮、国王陛下の信任の厚い法務大臣たる父の威光目当てで、五年前に斜陽のルヴァンサー侯爵が陛下に泣きついて、王命で貴様と俺との婚約がなったことを知らんとは言わせんぞ!!」
鬼の首を獲ったような顔で、どうだとばかりに胸を張るマケール・ゴーモン。
突如暴露された有力貴族同士の国王を介しての裏事情に、居合わせた招待客たちが息を呑んだ。
古くから王国を支える”軍人貴族”の筆頭にして、現在は陸軍元帥を兼任するルヴァンサー侯爵と、『法と弁舌の番人』として中央で権力をふるう新興貴族である”法衣貴族”の実質的なNo.2である(No.1である宰相リヴェルモン伯爵には、未婚の男子はまだ幼い孫しかいない)ブリエール伯爵家との間で婚姻を結ぶ。
あからさまな政略結婚だが、何かと水面下で対立が絶えない”軍人貴族”と”法衣貴族”の融和のために、国王陛下が便宜を図っても確かにおかしくはない、と。
そんな思惑が錯綜する中、渦中の二人……の準当事者である、王妃陛下とルヴァンサー侯爵夫人は、アルカイックスマイルを浮かべたまま能面のようになった。
「しかしながら、貴様は婚約者としての義務を果たさず! あまつさえ真実の愛で結ばれた俺とゼリー嬢との関係に嫉妬して、学院において彼女のノートを燃やす! ダンスの衣装を破り捨てる! 示し合わせて全員で無視する! 階段から突き落とす。そして事もあろうに破落戸を雇って、彼女を襲わせるという悪辣非道な行いを繰り返したこと、この俺が知らないと思っているのか!! 法の番人であるパパ――ブリエール伯爵に進言して、貴様など『洗濯所』送りだっ!」
その瞬間、ルヴァンサー侯爵夫人愛用のエヴァンタイユが、黒鉄よりも強靭なドラゴンの骨組みごと真っ二つにへし折られた。
『洗濯所』というのは神殿系列の施設であり、主に犯罪者や娼婦、不貞を働いたアバズレ女性が隔離され(家族でさえ会えない)、名前を捨てられ番号で呼ばれて何年も……ことによると一生涯、洗濯や刺繍作業を無賃で行わなければならない場所である。
『修道院』の場合は神に帰依して、貴族の令嬢でそれなりの寄付があれば案外ぬくぬくと暮らせるのだが――そもそも『修道院』は犯罪者の隔離施設でないので、世俗で犯罪を犯した者は《場が穢れる》と言って引き取らない。その代わりに――『洗濯所』では人間としての尊厳を奪われ、仮に解放されても”犯罪者”という汚名は一生ついてきて剥がれることはない。貴族令嬢にとっては死ぬよりも凄惨な仕打ちであった。
そうマケール・ゴーモンに指弾された形になったレティシア嬢は、明らかに右から左へと聞き流して、必要な部分だけ小考してから、「ああ」とばかり胸のつかえが降りたような表情で頷く。
「五年前……そういえばルヴァンサー侯爵から、国王陛下との雑談ついでに、そのような話が出たと愚痴られた記憶がありますわ。――まあ、即座に断ったので話は立ち消えになったそうですが」
軽く視線を飛ばすと、ルヴァンサー侯爵夫人も心なしか、思い出すのも腹立たしいとばかり、うんざりした表情で軽く頷いて同意を示した。
「は……あ!? こ、断った。こ、こ、この俺が妻にしてやると、ち、父上に低頭して頼んだ縁談を、こ、こ、断っただとぉっっ!?!」
素っ頓狂な声を張り上げるマケール・ゴーモン。
「えーーーっ、マケール様。レティシア様が一方的にマケール様に恋慕して、家格を盾に王命で無理やり結ばれた不本意な婚約じゃなかったんですか~っ? 本当は逆? 駄々こねて婚約できたと思ったら、勘違いだったの~~??」
オーブリー男爵令嬢ゼリーが空気を読まずに――ある意味、周囲の疑問を代弁した空気を読んだ(「いいぞ、もっとやれ!」と内心で喝采を送る野次馬たち)――傷口を割いて塩を塗りたくる。
「な、な、な、んで、こ、こ、こ」
動揺のあまり言葉にならないが、おそらく『なんで断るんだ。この俺様が婚約してやろうと話を持ちかけたのに』とか言いたいのだろう。
そう解釈したレティシア嬢は、聞き分けのないダメな子供を相手にするように、噛んで含めるように説明を続けるのだった。
「なぜと言われましても……ルヴァンサー侯爵としてもメリットはございませんし、それにはばかりながら、当時から国内においては同格以上の一門から、また国外からも、もったいなくも王族の方々や、複数の王子殿下などから婚姻の打診がございますので、それならばわたくし本人の希望に沿って伴侶を選んだ方が、後々余計な確執を避けられますのでその方がよいと、お父様も国王陛下も理解を示しておりますわ」
なぜ国内の伯爵家、それも継承者でもない三男――それも将来の出世や叙爵が確定している優良物件ならともかく。この程度――如きと結婚する必要があるのか? と暗に示すのだった。
それから心底不思議そうにマケール・ゴーモンに尋ねる。
「そもそも婚約したのでしたら、神殿で婚約式を行うのが習わしですが、それがなかった時点で破談になったと思いませんでしたの?」
さんざん自分は知的階級である”法衣貴族”だと吹聴した挙句の無知蒙昧ぶりに、参加していた”軍人貴族”が、方々で吹き出したり嘲笑を放った。
「そ、そんなことは知っている! だがあれだ……貴族の中でも幼少の頃から婚約を結んでいる者たちがいるだろう。そいつらだって婚約式はやらずに先延ばしにしているので、俺とお前の関係もそういうものだろう! そうに違いない!!」
半ば自分に言い聞かせるように声を張り上げる。
対するレティシア嬢は教科書を読み上げるような淡々とした口調で、
「それは婚約ではなく、家同士で決めた儀礼的な『婚約の約束』です。それとその場合は『婚約者』ではなく、「男性婚約予定者』か『女性婚約予定者』と呼ばれるのがマナーですわね。――だいたい婚約や結婚は神殿の管轄ですのに、正式な婚約を貴族とはいえ勝手に決められるわけがないではありませんか?」
『法務大臣』の息子がなぜそのような基礎も知らないんでしょう? と、言わんばかりの目でまじまじと見られて、咄嗟に反論しかけて……何も言葉が出ずに真っ赤な顔で地団太を踏むマケール・ゴーモン。
「だったら、だったらなんで、会えばいつも笑顔になって、その上で俺が贈った手紙や宝石を受け取ったんだ!?」
「それはマナーとして殿方に恥をかかせるわけにはいかないので、会話を広げていただけで、正直、なぜ友人でもないのに毎度毎度不機嫌そうな顔で、そのくせ必ず話しかけてくるのかと薄気味悪――不思議に思っていたくらいで……それと手紙と宝石ですか?」
キョトンとするレティシア嬢に代わって、母であるルヴァンサー侯爵夫人が、戻て来た伝令の侍女から受け取った予備のエヴァンタイユを悠然と広げて、どちらにともなく言い放つ。
「面識もない殿方からの手紙など未婚の娘に見せるわけがないでしょう。すべて写しを取って保管してあります。それと宝飾類ですが、これらも意図が不明でしたので、手紙の写しとともにブリエール伯爵に返却致しましたわ。『貴方の馬鹿息子は未婚の侯爵家の娘に不躾な手紙と高価な品を送る礼儀知らずですが、伯爵家では娘を金品で買えると思っているのですか?』と抗議文を添えて」
「うわぁ、マケール様。親しくもない相手から、いきなり宝石とか送られてきたらドン引きするわぁ。たとえ婚約者でも、花とか詩集とか小物とか、気を遣わないモノを贈るのがマナーっしょ? 脂ぎった成金オヤジが若い娘にドレスとか宝石とかホイホイ買ってやったら、誰がどう見ても下心ありありじゃん。まあ、あたしん家は『貰えるものは貰っとけ』が家訓だから貰っといたけど」
案外良識があるのか、ゼリー嬢が背後からあっけらかんと『真実の愛の相手』を背中から撃った。
「な、な、な、な、な……」
公衆の面前で婚約者の悪行を暴いて糾弾するつもりが、四面楚歌で精神的にタコ殴りをされた上に、自分の行いがすでに(侯爵家からの苦情付きで)ブリエール伯爵に暴露されていると知って、声にならずに作動不能になるマケール・ゴーモン。
一方、ルヴァンサー侯爵夫人の補足を聞いて、「あらまあ」とエヴァンタイユで口元を押さえるレティシア嬢。
「なるほど。行き違いの理由が理解できましたわ」
平仄がいったという表情で、大きく目を開けて瞬きをした。
「……実を申しますと、わたくし宛に見知らぬ男性から一方的な想いをつづられた封書が、連日のように届けられますの。大部分が宮廷物語にある『狂気の愛』や『報われぬ愛』を拗らせたような愚にもつかない内容ですので、侍女長や執事などが内容を精査し、必要と認めたものだけが手元に届けられますので……その」
つまり愚にもつかない内容だったので、一度もレティシア嬢が読むどころか、手紙の存在そのものも教える必要はないと判断されたのだろう。
もはや道化と化したマケール・ゴーモンとゼリー嬢を会場から排除しようと、王妃陛下が近衛隊に指示を出す気配を感じで、実は密かに堪忍袋の緒をまとめて切らしていたレティシア嬢は、速やかに右手の肘上までの長い手袋を外して、思い切りよくマケール・ゴーモンの顔面に投げつけると、澄んだ声で朗々と言い放った。
「わたくし個人への根も葉もない罵詈雑言と冤罪はもとより、我がルヴァンサー侯爵家に対する侮蔑と、王妃陛下主催の舞踏会を台無しにした責任。その命を賭けて償っていただきましょう。――《盾の乙女》レティシア・アデル・ド・ルヴァンサーが、マケール・ゴーモン・ド・ブリエール…」
「マケール・フィリベール・ド・ブリエール=ゴーモンだ! ゴーモンはド・ブリエール伯爵家の複合姓だ!」
「あらそうでしたの?」
この期に及んで初めて目の前の青年の本名を知ったらしいレティシアは、気を取り直して仕切り直しをする。
「わたくし、《盾の乙女》レティシア・アデル・ド・ルヴァンサーは、マケール・フィリベール・ド・ブリエール=ゴーモンに『決闘』を申し込みます!」
そう声高らかに宣言された言葉が"鏡の間"の隅々まで響き渡り、心なしかシャンデリアの明かりに照らされた”戦神”の像がニヤリと笑った風に見えた次の瞬間、数秒の空白を置いて、割れんばかりの驚愕の叫びが会場のみならず、『太陽の宮殿』全体を震わせるような轟音となって放たれたのだった。
なお事態について行けず、
「は……へ……。け、決闘……⁇」
頭の上に肘上までの長い手袋を乗せたまま、呆然と呟くマケール・ゴーモン。
「なんで近代ヨーロッパ風世界の婚約破棄で、『ざまぁ』が常にレスバなんなわけ? ヨーロッパ貴族界に準じたら、普通に決闘で決着とかなるんじゃないの?」というのが執筆の動機でした。
ちなみに本来のヨーロッパでは表向きは決闘は禁止で、また女性は当事者でも決闘はできません(やった女性もいましたが、その場合は勝っても「痴話喧嘩の末、相手を殺した」と判断されました)。できるのは父親か兄、婚約者になります。
また一週間後くらいに更新できればいいかなぁとか予定してます。私には最初に書いてから逐次更新するというやり方がどうにも性格的に合わないので、誠に申し訳ございませんが随時更新とさせていただきます。