ギャルの家で勉強会 3
机の上は雑に散らかっていた。 ノートは、数字と丸みを帯びた文字で埋め尽くされている。
ペンを置き、顔を上げたのはほぼ同時だった。
高千穂は椅子から立ち上がり、ぐっと伸びをした。 深めの息を吐いて、半分閉じた目を麻戸に向ける。
「いま何時?」
麻戸はスマホの画面を触る。
「六時前」
「んじゃ二時間くらいはやってたんだね、ふつうに疲れたわ」
「おかげで助かりましたです」
「教える方が身につくって言うしモーマンタイ」
「ありがとう」
「ん」
教材をバッグにつめる麻戸を見ながら、高千穂は再び椅子に座った。
「実際どうなん。ちゃんと覚えれた?」
「要点は理解出来たから赤点回避はいけそうだ」
「なら良かったわ。 数字を考えたやつは誰だとか言い出した時には末期だと思ってさ」
「テストは期末ですけどね」
「え、うるさ」
しかし疲れた、と麻戸は心の中で呟く。
高千穂は言わば直感型だった。 なんとなく把握していて、なんとなく出来る。 だからその感覚的な説明を理解するのは容易ではなかった。
だが、彼女はどこまでも真剣だった。
レベルの低い質問にも、分からない所が分からないという麻戸に対して、笑いながら根気強く教えてくれていた。
申し訳なさに苛まれながらもペンを離さず、言い訳や泣き言を吐かないように何度も言葉を飲み込んだ。
だからこそ今、わずかな罪悪感とそれを遥かに上回る達成感で、麻戸は心地の良い疲労に潰されかけていた。
「お疲れさま」
ことん、とお皿に乗ったバームクーヘンが置かれた。 高千穂の方にも同じように出されている。
「さっきいただいたものよ。 麻戸くんも食べましょ」
「あ、はい。ありがとうございます」
「麻戸が持って来たのにお礼言うのって違和感パないね」
「なら俺がここで『おう、ご苦労』とか言ったらどうする?」
「そりゃあドン引き大爆笑よ。 亭主関白かっての」
麻戸はキッチンを見た。 そこには冷蔵庫を開けているお母様がいる。 少しずつ眉間には皺が寄り、顎に手を置いて固まった。
「いや、不倫はちょっと……」
「ママの旦那になれなんて誰も言ってねーんだわ」
「そう、か。ヒヤヒヤした」
「あたしはゾワッとしたよ」
麻戸は安堵の息を漏らした。
そして机の上にある二つのバームクーヘンに目を向ける。横から伸びて来る手。 オレンジジュースの入ったグラスが置かれた。
「あれ、お母様は食べないんです?」
「え、その呼び方定着すんの?」
「高千穂のお母さんっていうのも長いし、さん付けとかでも良いんだろうけど、失礼じゃないし良いかなって思って」
そう言いつつやはりキモいか、と感じた麻戸は『なんて呼んだら良いですか?』とお母様に直接ぶつけた。
「不安がってんじゃん」
「ふふ、呼びやすいならそれで良いわよ」
高千穂に茶化されつつも、お母様から確かな了承をもらった。
で、それはそれだ。
先ほどの疑問の答えを求めてお母様を見る。
高千穂家は甘い物は普通に食べると聞かされていたから、口にしたくないというわけではないだろうが……。
「えっと、私がいてお邪魔じゃないかしら? こういうのは同級生だけで、と思っていたのだけど……」
お母様はへにょりと眉を曲げた。
「分かる。 あたしもそれ思ったわ。 友達のお母さんとか気まずくね?」
そういえば、と麻戸は考える。 そしてすぐに分かった。
「バイトの影響かな。 休みの日とかに開店から入ると主婦さん達が良くしてくれるから、その名残り? なにも緊張せん」
「麻戸って無駄にハイスペだよね。 ぼっちだから人に知られる事なく終わるのがマジで惜しい」
「お母様、お願いですから一緒に食べてください。そして娘さんに友達をいじめないよう伝えてください」
六割ほど本気の願いを、お母様はくすくすと笑いながらキッチンへ戻って行った。 きっとバームクーヘンを片手に持って来るだろうと、麻戸はフォークに手を付けずに待つ。
すると、高千穂が思い立ったように声を上げてキッチンへ向かった。 家主の行動理由なんて特に考えないが、人様の家で一人ぽつんと椅子に座っていると、どうにもおさまりが悪い。
もぞりと座りなおしていると、お母様が一人で戻って来た。
「ごめんなさいね、私ったら確認しなくて」
「?……いえ」
「いま梓ちゃんが用意してるから待っててね」
「お構いなく。……?」
高千穂が何かしてるんだろう。 そんなざっくりとした解釈で、脈絡のない言葉に頷いた。
お母様とは滞りなく話をした。
学校での高千穂はどうだとか、そんなやつ。ありきたりだが、同級生の母親とする初めての会話としてはベストな話題だった。
「おまたせー」
会話に花が咲こうとしていた時、高千穂が戻って来た。
「はい、どうぞ」
目の前に置かれたのはマグカップ。 湯気と同時に、缶やインスタントとは違う奥深い香りが漂ってくる。
利きコーヒーなんて大それた事は出来ないが、それがドリップして作ったものだというのは分かった。
「もしかして高千穂が作ったのか? あの、喫茶店でありそうな、くるくるーってお湯入れるやつ」
「そーよ。 パパのお墨付きだから味は悪くないんじゃん? 知らんけど」
「すごいな……、ありがとう」
密かに待ち望んでいたラッキーアイテムに、麻戸は思わず顔を近づけた。
「じゃあ揃った事だし、いただきましょうか」
「いっただきまーす!」
「いただきます」
それぞれフォークに手を伸ばす。
麻戸は一口サイズに切ったバームクーヘンを口に運んだ。
舌の上に広がる甘味。 鼻に抜けるバターの香り。 それらは記憶の通りの物だった。
「んっ、すごくおいしい!」
お母様は口元に手を当てながら目を輝かせた。
「バームクーヘンなのにしっとりしてるから食べやすい」
「ですよね。 うちの親も美味しく食べてくれていたので、お父様の口にも合うかと思いまして」
「絶対に合うわよ。 帰って来たら早速食べさせてみるわね」
「ぜひ、そうしてください」
お母様はもう一口頬張る。横目でそれを見届け、麻戸はそっと胸を撫で下ろした。
チョイスは間違ってなかった、と高千穂が淹れてくれたコーヒーを飲む。
一度だけ喉に通してから、すぐマグカップを机に置いた。 対面から突き刺さる視線に耐えきれず、顔を上げる。
「ど、うした……?」
「感想言い合いっこターイム」
高千穂は頬杖ついた状態で言った。
なるほど……と思い、コーヒーに視線を落とす。
「……なんか、落ち着きました」
一応それなりに考えたが、果たしてこれは感想として成り立っているのか。
落ち着いたから何だよ、と麻戸は頭の中でツッコミを入れ、改めて口を開く。
美味しいです、そう言おうとした。
「良かった。 バームクーヘンもめちゃ美味しいよ」
柔らかく目を細める高千穂。 当然その様子は視界に入っているが、焦点が合っているのは高千穂の恰好だった。
白いブラウスの上に重なる、紺色の生地と首周りの紐。 胴体をすっぽりと覆うそれは、ギャルという属性から遠く離れたスタイル。
「エプロン……?」
思わず、そう呟いた。
高千穂はきょとんとして自身の恰好を見ると、胸を張った。
「そう、良いっしょ。 さっきコーヒー淹れる時に着けちゃった」
「…………へぇ」
「あ、もしかしてエプロン軽んじる民? 言っとくけど優秀だかんね? シャツに汚れが付かないのもそうだけど、濡れた手とか簡単に拭けるし」
なかなかリアルな使い方や生地のヨレ感。 日頃から使い込んでいることが分かる。
「そんなに気に入ったのなら、自分の好きな物を買ったら良いのにねぇ」
「これは違うんです?」
「私のお下がりなのよ……」
言われてみれば確かに紺色の無地は、高千穂にしては無難なデザイン。
「もぉー、まだ言うの? これが良いんじゃん。可愛いし。 麻戸もそう思わない?」
「思う」
「ほら」
「言わせてるじゃないの……」
親子のやり取りを聞きながら、麻戸はマグカップに口をつける。 まだコーヒーは飲まない。 湯気を浴び、香りを鼻腔から脳まで届かせる。
高鳴る鼓動が鎮まるのを待った。
(俺、エプロン好きだったっけ……?)
マグカップ越しに目線を上げる。 今もまだ、可愛い可愛くない論争を続けている高千穂を見ると、説明出来ない何かに惹かれた。
その時、高千穂と視線が交じり合う。
「え……、ほんとは変とか言う?」
「言わんよ」
「…………や、そんなマジに言われると照れるんだけど」
高千穂の普段の様子から発生するギャップも然りだが、なにより纏っている雰囲気に違和感がない。
元より容姿が良く、エプロンという日用品を最大限に際立たせている。
それは加算ではなく乗算として。
「まさに、鬼に金棒だな」
「厳ついな! よくそんな可愛いと対極にある言葉見つけて来たね」
「なら、虎に翼でも」
「ビジュだけ可愛くしても駄目なんだわ」
「似合ってます」
「鬼とか虎とか言われたあとで喜べるか」
呆れ顔で不満をこぼす高千穂。
リビングに妙な沈黙が訪れた。
「麻戸くん、ご飯食べていく?」
「なんで今!?」
お母様は椅子から立つと、机の上にある食器の回収を始めた。
「そろそろ良い時間だし、夜ご飯の準備でもしようかなって思って」
「だとしてもタイミング……」
「それで、どうかしら?」
高千穂を無視して、お母様は麻戸を見た。
「梓ちゃんも楽しんでるみたいだし、私としてもゆっくりして行ってほしいのだけど」
『なんか恥ずっ!』と言いながら高千穂は机に伏せた。否定しない辺り、少なからずそう思ってくれていたのだろう。
麻戸は、お母様の言葉を額面通りに受け取った。
「でしたら甘えても良いですか? 実は、友達の家のご飯に興味がありまして」
「さすがぼっち」
「こればかりは、一ノ瀬の家に行っても部屋から出ないっていう高千穂と似たり寄ったりだろ」
「あ、確かに」
高千穂は伏せたまま顔だけ上げている。
クスクスと上品に笑う声がした。お母様はキッチンの方から言った。
「じゃあ腕によりをかけて作るから、麻戸くんはお家に連絡してね」
「はい、ありがとうございます」
そうなれば高千穂も手伝うのだろうか。 同級生がエプロン姿で料理を作る所が気になるとは、と麻戸は自身もちゃんとした男子高校生なんだなと悟る。
スマホを起動させた。 画面にはメッセージが一件。
嫌な予感を覚えつつ確認すると母からだった。
どうやら仕事の都合で急遽出るようになったらしい。 そのため、猫が家に一匹でいる状態とのこと。
(今は、七時前か……)
ちょっと前に毛玉を吐いたらしい。ここで帰路についたとしても、すぐに他の誰かが帰って来るだろう。
自分じゃなくても良いんじゃないか。姉や妹に聞いてみようと、連絡先を開いた。
指が、止まる。
(………………へえ?)
無意識に思っていたことを意識して考えると、歪に口角が上がる。
何事からも優先していた猫と、最近友達になったギャルを天秤にかけることが出来てしまった。
(そうか。そんなにか……)
その事実に疑いながらも納得した。母の連絡先をタップする。
分かった、すぐに帰る——と返信してスマホをしまう。
「すみません。 家で猫の子守りを頼まれてしまって……、ご飯はまたの機会でも良いですか?」
言うと、二人から同時に視線を浴びた。
「出たな、猫! やっぱ少しだけでもやばいん?」
「もしも何かが起きてエアコンが切れたりしたら、猫が干からびてしまう……」
「えっ、猫って干からびんの?」
「うん」
「まじか……」
きゅっ、と水の流れが止まった。
お母様がタオルで手を拭きながら近付いて来る。
「用事があるのなら残念ね。 でも、有り合わせを出すことにならなくて良かったかも」
イタズラが成功したように、お母様は笑った。
「ぜひまた来てね。 あらかじめ教えてくれたら、好きな物とか用意出来るから」
「……ありがとうございます」
帰りの支度はすでに整っている。 バッグを肩にかけてリビングを出た。 玄関で靴を履いて振り返ると、高千穂とお母様が見送りに来てくれている。
「それじゃあ、今日はありがとう」
「ん、明日また学校でね」
麻戸は手を上げると、高千穂は小さく手を振った。
「お母様もありがとうございました」
「色々と新鮮で楽しかったわぁ」
「それなら良かったです」
直後、お母様の笑みが消える。怖いわけではない。 ただ、目を逸らせないほど真剣な眼差しだった。
「ありがとね、麻戸くん」
その一言に何らかの含みを感じた。
麻戸は以前、立花から送られて来たメッセージを思い出した。
——ごめぇんね、謝罪の理由は黙秘権行使、と。
さらに甘い物とコーヒーの組み合わせ。 それは高千穂には言っていないはずだった。
散らばった点が繋がりかけている。
しかし麻戸は強引に、脳内で文字を起こした。
(どうでもいい)
投げやりになったわけではない。
立花が決めたのなら何でも良い。 仮に高千穂に話していたとしても、それでも尚こうして誘ってくれたのだから、何でも良い。
麻戸はあえて考えるのを放棄する。
「いえ、これからもよろしくお願いします」
そう告げて、麻戸は玄関をあけた。




