一歩 2
「高千穂……たか、たかちー」
「おおっ、あだ名っぽい! でもイヤ」
「梓………あずさ…………梓」
声に出すことで脳を刺激。 イントネーションから新たな発想を得る。
しかしその過程で『おーい』と遮られた。
顔を横に向けると、声を発した本人は廊下側を向きながら頬杖を付いていた。 後頭部に話しかける事になるが気にせず問いかける。
「何です」
「……………、」
「高千穂?」
「……………名前、連呼すんなし」
麻戸はハッとした。
彼氏(仮)の前で名前呼びなんて失礼だったんじゃ………という訳ではなくインスピレーションが湧いた瞬間だった。
「あずさん」
高千穂が振り返る。
「これはどうっすか!? 名前と敬称の合体! いつどこで何をしていても使えますよ!」
「無しで」
「…………チェンジ」
もうネタが尽きたと言わんばかりに、麻戸は指をくるんと回す。
「あ、うん。その事なんだけどさ」
「?」
「麻戸の下の名前、なんだっけ?」
直後、大きな声が空間を切り裂いた。
「アハハハハッ、ギャッハハハハハハ!!!」
高千穂の机の前にいた男子の笑い声だ。
「名前知らねーってマジかよ! どんだけ絡みなかったんだよ!」
「ほんとにな。確かに自己紹介はしてなかったけど、まさか知らないとは」
「お前めっちゃ必死に平静保ってんじゃん!ハハッ、かっわいそ!」
この大爆笑している男子を見て、同情してくれているとは一ミリ足りとも思わない。 だからといって腹を立てたりしないが、そんな事よりも寒気がする。
理由は分からない。 だが原因が目に見えないものだとするなら、それはもう答えが出ている。
「え、なんにも面白くないんだけど」
高千穂は平然と言った。 しかし声を聞いた途端に、麻戸は息苦しさを感じた。
という事は、そういう事だ、
高千穂は、不機嫌を隠し持っている。
「今までは話すのに困らなかったから気にしなかったけど、今は知りたいと思って聞いてんの。 これ、普通じゃない?」
高千穂の違和感に気付かないのか、男子はニヤついた顔をして口を開こうとしていた。
何を言うつもりかは知らないが、恐らく状況を悪化させる事だろう。 それに対して高千穂も退くとは思えない。
麻戸は一瞬であり得そうな未来を想像すると、即座に言い放つ。
「普通っすね。曜真って言います」
すると高千穂は麻戸を一目見ると小さな笑みを浮かべ、
「ようま。………ん、曜真ね」
あだ名探しのためにブツブツと言い始める。
男子は不満を表情に出しながら、落ち着きなく体を揺らしていた。 少しだけ無言が続くと、男子が『じゃあ俺行くわ。 また放課後』と言った。
「あーい」
それはあまりにも適当な返事だった。いや、仲の良い者同士なら特別変な事ではない。 ただ少しばかり不完全燃焼で終わったのだから、後に引きそうだと麻戸は思った。
何となく視線で男子の背中を追う。 スムーズな足取りだったが、教室を出る辺りで急に振り返って来た。
視線が交錯したのは一瞬。
感情を読む時間すらなく、男子はそのまま行ってしまった。
「ねぇ、ギブ。曜真ってもう完成されてるしあだ名無理だわ」
高千穂は椅子の背にもたれながら両手を上げて上半身を伸ばした。
「諦めるには早い。 まだ、よーちゃんが残ってる」
「あーちゃんの時にも思ったけど、麻戸って"ちゃん付け"キャラじゃないんよね」
「あ……、そうっすか」
「ほら、愛嬌ないし」
「全身に鳥肌立たせたくないなら追い討ちかけるな」
言うと高千穂は笑った。 なんとも居心地の悪さを感じるほど純粋な笑顔。
「高千穂」
「んー?」
「先に謝っとく。 喧嘩になったらごめん」
「喧嘩? 誰が?」
「高千穂が、彼氏と」
「……………あー、そゆこと」
高千穂は合点がいったとばかりに二回ほど大きく頷いて、続けた。
「藤木とは中学から一緒でさ」
話の流れから察するに、先ほどの男子の名前が藤木なのだろう。
「なかなか長い付き合いのようで……」
「あんま絡みなかったのに高校に入ってから名前呼びしてくんの。 ちょっと引くよね」
「…………え」
「彼氏なわけないじゃん」
高千穂は断言した。 秘密にしているのか、という疑問すら浮かんでこない。
だがそれが本当だとするなら、あの男子の振る舞いはとても分かりやすいもので、それでいて高千穂の口振り的には成就しない恋らしい。
「なるほど。……………?」
そして、麻戸はふと思う。
名前呼びに対して高千穂は"引く"と言った。 じゃあ先ほどの、あだ名を付けようとして名前を呼んでいた時に高千穂が言った『名前、連呼すんなし』とは、嫌な気持ちにさせていたのではないのか。
いまさら気付いてもすでに遅く。
水に流せるのなら、それに越した事はない。
「……藤木とは、中学は一緒でもクラスとか全く違くてさ。 友達関連でも絡み無かったのに、去年同じクラスになった途端に名前呼びしてくるんだよ? 改めて突っ込むのもなんだからスルーしたけどさ。 ちょっとだけ引いちゃった。 あからさまってか、ちゃんとした理由があれば名前呼びも嬉しいんだけどね」
突然、怒涛の如く高千穂が言い放つ。息を切らさず、言葉を噛む事もない。
ただ、何かしらの意を含んでいるような真っ直ぐな瞳で見て来ている。
「あ、うん。さっきの言ってたやつの原文、だよな……。 ご丁寧にどうも?」
「……余計な頭回しちゃったよ。 八割は麻戸のせいでもあるんだから謝って」
両側のこめかみを人差し指でクルクルなぞりながら、高千穂が言う。
それは姉と妹がいる麻戸としては、簡単に頷けるものではないセリフだ。
「確認なんすけど……。謝ったとして、何で謝ってるか分かってる? って聞いて来ないっすよね?」
「聞かねーわ。 いってもあたしの考えすぎだったし……」
ほぉ、と麻戸は何となくの相槌を打った。 会話は噛み合っているのだが、どこかが欠けている。
すぐに高千穂が『もう今の無し。忘れて!』と言った。
その強制的に会話をぶった斬るのは麻戸が苦手とするギャルの行動であったが、鼓動が大きく高鳴るのを無視して記憶の糸を一心に辿る。
その時、チャイムが鳴った。
「始めるから席につけー」
同時に教師が入って来る。
ガヤガヤとしていた声は少しずつ薄れていき、椅子を引いたり、教材を準備する音だけになっていく。 次第に教師だけの声が教室に響くようになるだろう。
しかしまだ。
一人の男の声が悪目立ちをするような静けさにはなっていない。
「ありがとう」
雑音の中に溶け込む麻戸の声。 それは隣の席にだけの届いた。
「名前呼びのやつ。気にしてくれたんだな」
例によって授業の準備をしていた高千穂は手を止めて、大きく見開いた瞳を麻戸に向けた。
「実際、悪い事をしたなって思ってた。 自己完結で終わったけど」
「………話そうよ、全部」
高千穂なら『それが駄目』だ何だと色々と言って来そうだったが、時間に限りがある今、選び抜いた言葉なのかも知れない。
だがその端的な言葉には心が楽になる効果が秘められていて、
「ああ」
と、麻戸は満足気に言った。




