第九話 「代理人の声」
「弱者の声を届ける」
その言葉は、たぶん間違っていない。
声を上げられない人はいる。
言葉にできない人もいる。
制度へ届かない人もいる。
だから、誰かが橋渡しをすることには意味がある。
だが悠は、最近その言葉を聞くたびに、別の問いが浮かぶようになっていた。
誰の声なのか。
本人の声なのか。
代理人の声なのか。
それとも、代理人が本人の声として出している自分の主張なのか。
その日の社会問題研究会には、地域活動団体の代表が来ていた。
テーマは、
「声なき人々を代弁する」
だった。
悠はもう、この題名だけで少し身構えた。
代表の男性は、穏やかな口調で話した。
「社会には、声を上げられない弱者がいます。私たちは、その人たちの声を届ける役割を担っています」
部室の学生たちは真剣に聞いている。
三森もノートを取っていた。
白峰は腕を組んでいる。
霧島は、悠の方をちらりと見た。
抜くな。
悠は自分に言い聞かせた。
代表は続ける。
「当事者本人は、怖くて声を上げられない場合があります。だからこそ、私たちが社会へ訴える必要があるのです」
悠はノートに書いた。
必要な場合はある。
でも、代表権は?
質疑応答になった。
白峰が手を挙げた。
「代理や代弁をする場合、本人意思はどのように確認していますか」
代表は答えた。
「もちろん、現場で多くの声を聞いています」
「その“多くの声”と異なる意見を持つ当事者は、どう扱いますか」
代表は少し困った顔をした。
「どの立場にも多様な意見はあります。ただ、構造的に苦しんでいる人々の声を可視化することが大切です」
悠は思った。
答えていない。
構造。
弱者。
可視化。
言葉が大きくなるほど、本人の輪郭が薄くなる。
三森が手を挙げた。
「当事者本人が“そこまでは言っていない”と思う場合もあると思うんですが、その場合はどうなりますか」
代表は少しだけ笑った。
「それは、その人がまだ自分の置かれた構造に気づいていない可能性もあります」
その瞬間、部室の空気が変わった。
悠の中で、刃が揺れた。
本人が違うと言っても、代理人が構造で上書きできる。
それはかなり危うい。
悠は手を挙げた。
「神代です」
代表が頷く。
悠はゆっくり言った。
「弁護士は、勝手に代理人にはなれません」
部室が静かになる。
「委任が必要です。利益相反も問われます。本人の意思も確認されます。なのに社会運動では、“弱者のため”という言葉だけで代理人のように振る舞えることがあります」
代表の表情が少し硬くなった。
悠は続けた。
「もちろん、代弁が必要な場面はあると思います。でも、代理人になるなら、まず委任と代表権の問題があるはずです」
霧島が小さく頷いた。
白峰も黙って聞いている。
悠は言った。
「当事者本人が“そこまでは言っていない”と言った時に、“構造に気づいていないだけだ”と返せるなら、それはもう本人の代弁ではなく、代理人の思想ではないですか」
部室の空気が重くなった。
代表はゆっくり答えた。
「しかし、本人が自覚できない抑圧もあります」
「あると思います」
悠は即答した。
「でも、それを理由に本人意思を上書きできるなら、代理人はかなり強い権力を持ちます」
代表は黙った。
悠はここで止まるべきか迷った。
抜くな。
でも、これは言うべきだと思った。
「無料で代表するな、と思います」
霧島が顔を上げた。
悠は続けた。
「代表するなら、コストも代表してください。費用も、責任も、副作用も、終了条件も。弱者の声だけ借りて、負担は現場や制度や他人へ渡すなら、それは代弁ではなく、他人の褌で相撲を取っているだけです」
沈黙。
誰もすぐには答えなかった。
これは切ったのか。
それとも、問いを置けたのか。
悠には分からなかった。
代表は静かに言った。
「厳しいですね」
悠は頷いた。
「はい」
「でも、必要な批判でもあります」
悠は少し驚いた。
代表は続けた。
「私たちも、本人のためと言いながら、自分たちの活動のために問題を大きくしていないか、常に問われるべきです」
その言葉は、悠の予想と違っていた。
もっと反発されると思っていた。
代表は苦笑した。
「代弁者は必要です。でも、代弁者は危うい。そこは認めないといけません」
白峰が初めて口を開いた。
「代理人構造の自己増殖リスクですね」
代表は頷いた。
「その通りです。問題があるから活動がある。しかし活動が続くために問題を必要とするようになれば、本末転倒です」
部室の空気が、少しだけ緩んだ。
悠は思った。
この人は誠実だ。
自分の立場の危うさを、ちゃんと見ている。
講義の後、代表は悠に近づいてきた。
「君の言い方は少し刺さるね」
悠は頭を下げた。
「すみません」
「いや、いい。ただ、刺すだけで終わると敵を作る」
悠は黙った。
代表は笑った。
「でも今日は、刺した後に引いた。だから議論になった」
悠は少し安心した。
「代弁って、やっぱり必要なんでしょうか」
代表は考えた。
「必要な時はある。本人が本当に声を出せない時、制度へアクセスできない時、暴力や圧力の中にいる時」
「はい」
「でも、代弁者は本人ではない。そのことを忘れた瞬間、危ない」
悠は頷いた。
代表は最後に言った。
「代理人は、本人より大きな声を出してはいけない」
その言葉は、強かった。
夜。
悠はノートに書いた。
代理人は必要な時がある。
だが、代理人は本人ではない。
本人より大きな声を出した瞬間、代弁は乗っ取りになる。
その下に、もう一行。
代表するなら、コストも代表しろ。
悠はペンを止めた。
これは、チンポジ哲学に近い。
本人の収まりを、他人が勝手に代表するな。
本人の不快感を、他人が勝手に社会問題へ変換するな。
本人が望んでいないのに、本人の旗を掲げるな。
悠は、あの言葉を思い出した。
分かり合えないことを、分かり合う。
代理人も同じだ。
本人の全ては分からない。
だからこそ、本人の代わりに話す時は、怖がらなければならない。
自分は本人ではない。
その恐怖を持たない代理人は、危ない。
翌日、研究室で白峰が言った。
「昨日の君は、比較的まともだった」
「比較的」
「比較的だ」
霧島が笑った。
「成長したね」
悠は少し照れた。
「切ってませんでしたか」
霧島は考えた。
「切った。でも斬り捨てなかった」
白峰が頷く。
「問いとして置いた。相手が答える余地を残した」
悠は、その言葉に少し救われた。
霧島が言った。
「逆刃刀、少し使えてきたね」
悠はノートを閉じた。
「まだ怖いです」
「怖いくらいでいい」
霧島は言った。
「怖くなくなったら、たぶん終わり」
悠は頷いた。
その日の帰り道、悠は一人で考えた。
活動家。
代理人。
支援者。
弁護士。
メディア。
学者。
誰かのために語る人たちはいる。
必要な人たちだ。
だが、必要であることと、無条件に正しいことは違う。
代理するなら、恐れろ。
代表するなら、コストも持て。
本人の声を借りるなら、本人より大きな声になるな。
悠は夜道で立ち止まった。
街灯の下に、自分の影が伸びている。
その影を見て、少しだけ思った。
自分もまた、チンポジ哲学の代理人になりかけていた。
自分が見つけたと思った言葉を、必要以上に大きな声で語りかけていた。
それは危ない。
哲学もまた、本人より大きな声になってはいけない。
悠は小さく笑った。
「哲学の代理人にも、委任状が要るのかもな」
もちろん、誰も委任していない。
だからこそ。
彼はその言葉を、もう少し静かに扱おうと思った。




