第八話 「箱に入れるな」
「グラデーションを尊重しましょう」
その言葉を聞いた瞬間、悠は少しだけ身構えた。
哲学科の合同ゼミ。
テーマは、ジェンダーと制度設計。
発表者の学生は、スライドを映しながら話していた。
「性別は二分法ではなく、グラデーションとして理解されるべきです。したがって、制度もその多様性に対応する必要があります」
教室の多くが頷いた。
悠も、前半には頷けた。
グラデーションとして理解する。
それ自体は分かる。
人間は単純な二択ではない。
感覚も、認識も、揺らぎもある。
本人の中ですら変化することがある。
そこまでは分かる。
だが、後半で引っかかった。
したがって、制度も対応する必要があります。
そこが滑らかすぎる。
グラデーションを制度へ入れる。
それは本当に可能なのか。
発表者は続けた。
「選択肢を増やすことで、より多様な自己認識に対応できます」
スライドには、いくつもの選択肢が並んでいた。
男性。
女性。
その他。
回答しない。
流動的。
ノンバイナリー。
複数選択可。
悠はノートに書いた。
箱が増えている。
グラデーションではない。
箱だ。
発表が終わり、質疑応答になった。
白峰が手を挙げた。
「制度が扱うためには、選択肢が必要になると思います。その時点で、連続体は離散的な分類になりますが、その問題はどう処理しますか」
発表者は答えた。
「分類の限界はありますが、既存の二分法よりは包摂的です」
白峰は頷いた。
「より多い箱、ということですね」
発表者の表情が少し固まった。
悠は手を挙げた。
教授が指名する。
「神代くん」
悠は立ち上がった。
言葉を選ぶ。
抜くな。
抜くな。
「システムは、箱を用意するしかできないと思います」
教室が静かになる。
悠は続けた。
「グラデーションは連続です。でも制度や申請書やデータベースは、基本的に箱で処理します。AかBか。A+Bか。その他か。未回答か」
霧島が後ろで頷いていた。
「だから、グラデーションを制度化すると、グラデーションではなく、カラフルな箱になる」
何人かがノートを取った。
発表者が言った。
「でも、箱を増やすことで救われる人もいます」
「それはあると思います」
悠は頷いた。
「ただ、箱を増やすことと、グラデーションを扱うことは別です」
発表者は黙った。
悠は続けた。
「二つに跨る人がいたら、“二つに跨る”という箱が増える。日によって変わるなら、“日によって変わる”という箱が増える。箱を増やしても、連続性そのものは制度に入りません」
白峰が静かに言った。
「箱の増殖だな」
悠は頷いた。
「はい」
教室は少しざわついた。
反論が出る。
「でも、制度が何もしないと困る人がいるのでは?」
悠は答えた。
「困りごとは扱うべきです。でも、ジェンダーそのものを制度のキーにする必要があるのかは分けたいです」
「どういうことですか」
「制度が扱うべきなのは、自己認識そのものではなく、具体的な条件ではないでしょうか」
悠は黒板の横を見た。
教授が頷いたので、チョークを取った。
身体条件
安全条件
医療条件
競技条件
施設運用条件
契約条件
「たとえば医療なら、必要なのはジェンダーではなく身体条件かもしれない。競技なら、競技上の公平性や安全条件かもしれない。施設なら、プライバシーや安全や運用条件かもしれない」
発表者が言った。
「では、ジェンダーは無視しろということですか」
悠は首を振った。
「違います。本人の説明語としては重要です。ただ、制度運用のキーにすると壊れやすい、という話です」
霧島が口を挟んだ。
「内面の言葉と、制度の項目を分けろ、ということね」
悠は頷いた。
「はい」
白峰が言った。
「信仰に似ているな」
教室が少し反応した。
白峰は続ける。
「信仰は本人には重要だ。しかし戸籍に宗教欄はない。内心だからだ。制度上必要な行為や契約や権利関係だけ扱う」
悠は白峰を見た。
その整理は強かった。
発表者は少し考え込んだ。
「でも、本人にとっては切実です」
悠は静かに答えた。
「切実さは否定していません」
ここは丁寧に言う必要があった。
「むしろ、本人には切実だからこそ、雑に制度へ入れない方がいいと思います。箱に入れた瞬間、箱に入らない人が出る。するとまた新しい箱が要る。最終的に、本人の収まりより、どの箱に入るかが問題になる」
教室が静かになった。
悠は続けた。
「グラデーションを本当に尊重するなら、箱に入れないという選択肢もあるのではないでしょうか」
言い終えて、悠は座った。
心臓が少し速い。
でも今回は、切った感覚はなかった。
投げた。
問いとして置いた。
霧島が小さく言った。
「良かった」
白峰は前を向いたまま言った。
「比喩を使わずに済んだな」
悠は小声で返す。
「危なかったです」
「何を言いかけた」
悠は黙った。
白峰は察したように目を閉じた。
「言わなくていい」
講義の後、発表者が悠のところへ来た。
「神代くん」
「はい」
「さっきの、納得したわけじゃないけど、考える必要はあると思った」
悠は少し頭を下げた。
「ありがとうございます」
「グラデーションを制度化した瞬間に箱になる、というのは、ちょっと嫌な指摘だった」
「僕も嫌です」
「でも、分かる」
発表者は苦笑した。
「君、そういうの多いね」
悠は困ったように笑った。
「本当は、もっと綺麗な話をしたいんですけど」
「無理そうだね」
「はい」
夕方、研究室で白峰がホワイトボードにまとめを書いていた。
グラデーション:連続
制度:離散
制度化:箱化
箱の増殖:分類戦争
対策:内心は不問、外部条件で扱う
霧島が言った。
「かなり整理されたね」
白峰は頷く。
「これは使える。名前以外は」
悠は机に突っ伏した。
「またそこですか」
「そこが致命的だからだ」
教授が研究室に入ってきた。
ホワイトボードを見る。
「面白いですね」
白峰が背筋を伸ばす。
「教授、制度はグラデーションを扱えると思いますか」
教授は少し考えた。
「制度は、完全なグラデーションをそのまま扱うことは苦手でしょうね。制度は線を引きます。線を引けば、内側と外側ができます」
悠は強く反応した。
線を引けば、内側と外側ができる。
それは、自分がずっと感じていたことに近い。
教授は続けた。
「ただし、制度は線を引かないと運用できない。問題は、どこで線を引くか、そして線の外側に何が落ちるかを自覚しているかです」
白峰が言った。
「つまり、線を引くこと自体を善としない」
「そうです」
教授は微笑んだ。
「線は必要です。しかし、線を引くとは、同時に切ることでもあります」
悠はノートに書いた。
線を引くとは、切ることである。
その夜、悠は一人で帰り道を歩いた。
街灯の下、アスファルトが少し光っている。
彼は今日の議論を思い返した。
グラデーション。
箱。
線。
制度。
人間は連続している。
制度は切る。
社会は箱を作る。
箱に入る人を救う。
同時に、箱に入らない人を作る。
では、どうすればいいのか。
全部を箱にするな。
全部を制度へ入れるな。
必要な外部条件だけ扱う。
内心は、不問に残す。
悠は立ち止まった。
不問。
その言葉は、以前なら冷たく聞こえた。
今は違う。
不問とは、見捨てることではない。
問わないことで守られる領域もある。
戸籍に宗教欄がないように。
内心を制度の箱へ入れないことで、守られるものがある。
悠はノートを取り出し、街灯の下で一行だけ書いた。
箱に入れないことも、尊重である。
書いたあと、少し笑った。
やっと、あの言葉を使わずにここまで来られた。
だが、奥にはある。
確かにある。
封印された、最低の聖剣。
抜かない。
でも、そこにあることは知っている。
そして、それでよかった。




