第十話 「封印聖剣」
悠は、その言葉を封印することにした。
チンポジ哲学。
あまりにも強い。
あまりにも恥ずかしい。
あまりにも切れる。
使えば議論を止められる。
使えば概念を剥がせる。
使えば相手の踏み込みすぎを可視化できる。
だが、それを口にした瞬間、自分もまた踏み込む側になる。
だから、封印する。
悠はノートの表紙に小さく書いた。
必要な時だけ解凍。
その日、哲学科では公開討論会があった。
テーマは、
「理解し合う社会は可能か」
大きすぎる題だった。
壇上には教授、白峰、霧島、外部講師、そしてなぜか悠が座っている。
悠は何度も断った。
だが教授が言った。
「君は、理解できないことについて考えている。なら、出る意味があります」
白峰は言った。
「余計な比喩を使わないなら、出ろ」
霧島は言った。
「逃げてもいいけど、たぶん後悔するよ」
だから悠は座っていた。
会場には学生が多かった。
社会問題研究会の面々もいる。
三森もいる。
先日の活動団体の代表も後ろにいた。
討論が始まる。
外部講師が言う。
「分断を超えるには、共感が必要です」
白峰が言う。
「ただし、共感は同一化ではありません。相手を理解したつもりになる危険があります」
霧島が続ける。
「寄り添いも同じです。距離が近すぎれば、支援ではなく侵入になります」
教授は頷く。
「理解とは、支配の別名になることがあります」
会場は静かだった。
悠は黙って聞いていた。
すでに話はかなり近いところまで来ている。
あの言葉を使えば、一撃で落とせる。
でも、使わない。
抜かない。
質疑応答に移る。
一人の学生が手を挙げた。
「でも、理解し合えないと言ってしまうと、結局、冷たい社会になりませんか」
悠はマイクを持った。
「そうなる危険はあると思います」
自分の声が少し震えていた。
「理解できない、で終われば冷たい。でも、理解できる、と言い切るのも危ない」
学生は聞いている。
悠は続けた。
「僕は、他人の全てを理解できないと思います。たぶん、誰もできません」
白峰が黙って頷いた。
霧島は悠を見ている。
「でも、だから何もしない、ではないと思います」
悠は言葉を探した。
あの言葉を使わずに。
奥にある刃に手をかけずに。
「不快感や困りごとがあることは、分かるかもしれない。苦しい、嫌だ、収まらない、そういう状態があることは否定しない。でも、何がその人にとっての収まりなのかは、本人にしか分からない」
会場が静まる。
悠は続けた。
「だから、解決策を押し付けない。代弁しすぎない。制度へ入れすぎない。分かったフリをしない」
一呼吸置く。
「必要なのは、完全理解ではなく、距離感だと思います」
その言葉を言った時、悠は少しだけ手応えを感じた。
切っていない。
でも、届いている。
別の学生が質問した。
「では、社会問題として扱うべきかどうかは、どう判断するんですか」
悠は答えた。
「外に出た実害があるか。具体的な困りごとがあるか。誰が何に困っているのか。誰が費用と責任を負うのか。どこまで行けば解決なのか」
それは、これまで考えてきたことだった。
「内心そのものは不問でいい。でも、外部行為や安全や契約や制度の問題になったら扱う」
教授が小さく笑った。
白峰が言う。
「かなり主権者の語彙だな」
悠は頷いた。
「たぶん、陳情ではなく設計にしないといけないんだと思います」
霧島が続ける。
「可哀想、だけでは制度にならない」
白峰が加える。
「差別か否か、だけでも足りない」
教授が締める。
「理念と実装を分ける必要がありますね」
討論は続いた。
悠は何度も言いかけた。
それ、チンポジです。
でも言わなかった。
言わなくても、議論は進んだ。
むしろ、言わない方が進んだ。
討論会の最後、司会が一人ずつまとめを求めた。
白峰は言った。
「嫌悪感は反論ではありません。しかし、嫌悪感もまた無視できるものではありません。問題は、それをどう制度へ接続するかです」
霧島は言った。
「寄り添うことより、踏み込みすぎないこと。支援は、距離を消すことではなく、距離を測ることでもあります」
教授は言った。
「理解の限界を知ることは、反知性ではありません。むしろ知性の出発点です」
最後に、悠の番になった。
悠はマイクを握った。
一瞬だけ、頭の中にあの言葉が浮かぶ。
封印聖剣。
モザイク付き。
逆刃刀。
悠は心の中で笑った。
そして言った。
「分かり合えないことを、分かり合う」
会場が静かになる。
「僕は、それが冷たさだとは思いません。完全には分からないから、決めつけない。完全には分からないから、近づきすぎない。でも、完全には分からないからこそ、相手の言葉を聞く」
悠は少し息を吸った。
「分からないまま、一歩だけ近づく。そのくらいの距離から始めたいです」
拍手は、すぐには起きなかった。
少し遅れて、誰かが手を叩いた。
それが広がった。
大きな拍手ではない。
熱狂でもない。
ただ、静かで、控えめな拍手だった。
悠には、それで十分だった。
討論会のあと、白峰が言った。
「最後まで言わなかったな」
「はい」
「偉い」
「初めて褒められました」
「比喩を使わなければ、君は比較的まともだ」
「比較的」
霧島が笑った。
「封印できたね」
悠は頷いた。
「抜かない方が、伝わることもあるんですね」
霧島は言った。
「たぶん、それが使いこなすってこと」
帰り道、悠は一人で歩いた。
大学の門を出る。
空は暗くなりかけていた。
雲の切れ間に、少しだけ星が見える。
本当は、ああいうものから真理を見つけたかった。
星。
風。
光。
海。
でも、自分が見つけたのは違った。
もっと下。
もっと近い。
もっと恥ずかしい。
けれど、そこに確かにあった。
他人には分からない収まり。
踏み込まれたくない領域。
分かったフリをされたくない感覚。
悠はノートを開いた。
今日の最後に、一行だけ書く。
封印しても、そこにある。
そして、その下にもう一行。
使わないことで、働く哲学もある。
悠はノートを閉じた。
刃は抜かなかった。
だが、確かに持っていた。
それでいい。
いや、それがいい。




