第十一話 「言わない哲学」
討論会のあと、悠の周りは少し静かになった。
以前のように、妙な噂でざわつくことはない。
むしろ、誰もあの言葉を口にしなくなった。
それが悠にはありがたかった。
忘れられたわけではない。
たぶん、みんな覚えている。
だが、口にしない。
それは無視ではなく、不問だった。
悠は、その距離感が好きだった。
ある日の午後、哲学科の小さな演習で、教授が言った。
「今日は、神代くんに少し話してもらいましょう」
悠は固まった。
「何をですか」
教授は穏やかに笑う。
「君が最近考えていることです。ただし、例の言葉は使わずに」
教室が少し笑った。
悠は頭を抱えた。
「それ、縛りプレイじゃないですか」
白峰が言った。
「むしろ救済措置だ」
霧島も頷く。
「言わない方が君のため」
悠は諦めて前に立った。
黒板の前。
チョークを持つ。
以前なら、ここで強い言葉を探した。
相手を黙らせる言葉。
一撃で刺さる比喩。
概念を切る刃。
だが今は違う。
言わないことで伝わるものがある。
悠は黒板に書いた。
私的な収まり
そして言った。
「人には、自分にとっては重要だけれど、他人には完全には分からない感覚があります」
教室は静かだった。
「それは、思想かもしれない。信仰かもしれない。身体感覚かもしれない。幸福感かもしれない。自分の中では切実でも、外から完全には観測できないものです」
悠は続けた。
「問題は、それをどう扱うかです」
黒板に書く。
理解
共感
寄り添い
尊重
制度化
「これらは、よい言葉です。でも、使い方を間違えると、他人の内面へ入り込みすぎることがあります」
白峰が腕を組んで聞いている。
霧島は少し笑っている。
「だから、僕は最近、尊重とは理解することではなく、問わないことでもあると思うようになりました」
教授が静かに頷いた。
「不問です」
悠は黒板に大きく書いた。
不問
「不問は、無関心ではありません。見捨てることでもない。ただ、本人の内面そのものを外から決めつけないということです」
三森が手を挙げた。
「でも、不問にすると、困っている人を見逃すことになりませんか」
悠は頷いた。
「そこが難しいです。だから、内心は不問。でも外に出た困りごとは扱う」
黒板に書き足す。
内心:不問
外部行為:扱う
実害:扱う
契約:扱う
安全:扱う
「困っているなら、具体的に扱う。誰が、何に、どう困っているのか。費用は誰が負うのか。どこまで行けば解決なのか」
悠は一呼吸置いた。
「でも、その人の全てを分かったことにはしない」
教室は静かだった。
それは、以前のような沈黙ではない。
戸惑いの沈黙でもない。
考える沈黙だった。
白峰が手を挙げた。
「では、共感は不要か」
「不要ではないと思います」
悠は答えた。
「ただ、共感は入口であって、証明ではない。相手の苦しさに気づくきっかけにはなる。でも、それで相手の内面を理解したことにはならない」
白峰は頷いた。
「妥当だ」
霧島が言う。
「じゃあ、寄り添いは?」
悠は少し笑った。
「距離を詰めることではなく、相手が望む距離で止まることだと思います」
霧島が満足そうに頷いた。
教授が言った。
「神代くん」
「はい」
「今日、君は一度も例の言葉を使いませんでしたね」
教室に小さな笑いが起きた。
悠は苦笑した。
「はい。使わない方が、ちゃんと届く気がしました」
教授は頷いた。
「それもまた、哲学の作法です」
悠はチョークを置いた。
発表は終わった。
拍手はなかった。
その代わり、誰も急いで話し始めなかった。
その沈黙が、悠には嬉しかった。
講義のあと、白峰が言った。
「今日の発表は、初めて普通に良かった」
「初めて」
「初めてだ」
「ありがとうございます」
白峰は少し迷ってから言った。
「君の最初の比喩は、私は今でも嫌いだ」
「はい」
「だが、君がそこから持ってきた問いは、かなりまともだ」
悠は少し笑った。
「嫌いなままでいいです」
白峰は頷いた。
「嫌いなまま検討する。それが哲学だ」
霧島が横から言った。
「二人とも、少し仲良くなったね」
白峰と悠は同時に言った。
「なってません」
霧島は笑った。
その夕方、悠は三森に呼び止められた。
「神代先輩」
「何?」
三森は少し緊張していた。
「この前、ゼミで話したんです。属性じゃなくて個人を見るって」
「うん」
「そしたら、少し揉めました」
「そうか」
「でも、前よりは話せました。私も、“分かってない人たちが悪い”って思いかけてたんです。でも、それも決めつけですよね」
悠は少し驚いた。
三森は続けた。
「分かってくれないから敵、ではなくて、分かり合えないところから話す。そう考えたら、少し楽でした」
悠は頷いた。
「それは、僕もまだ練習中」
三森は笑った。
「私もです」
彼女が去ったあと、悠は少しだけ空を見上げた。
自分が見つけたものが、誰かを論破するためではなく、誰かが少し楽に話すために使われた。
それは、思っていたよりずっと嬉しかった。
夜。
悠は研究室に残った。
机には、例のノートがある。
表紙には、まだ小さく書いてある。
必要な時だけ解凍。
悠は新しいページを開いた。
タイトルを書く。
言わない哲学
そして書き始める。
強い言葉は、口にした瞬間に人を傷つけることがある。
だが、口にしなくても、その言葉で自分を止めることはできる。
哲学は、語るためだけにあるのではない。
語らないためにもある。
分かったフリをしそうな時。
代弁しそうな時。
共感を押し付けそうな時。
制度化しすぎそうな時。
その瞬間に、心の中でだけ抜けばいい。
悠はペンを止めた。
そして、最後に書いた。
これは、人を斬る哲学ではない。
人へ踏み込みすぎる自分を止める哲学である。
書き終えて、悠はノートを閉じた。
窓の外には、夜の大学が沈んでいる。
光は少ない。
だが、完全な暗闇ではなかった。
悠は小さく息を吐いた。
分かり合えない。
それは悲しいことかもしれない。
でも、それだけではない。
分かり合えないからこそ、丁寧になれる。
分かり合えないからこそ、決めつけずに済む。
分かり合えないからこそ、一歩だけ近づく意味がある。
悠は、あの言葉を口にしなかった。
だが、心の片隅にはあった。
封印されたまま。
抜かれないまま。
それでよかった。




