最終話 「一歩だけ近づく勇気」
哲学演習の最終発表の日、哲学棟は晴れていた。
雨ではなかった。
悠は少しだけ拍子抜けした。
自分が悩む時は、いつも雨が降っている気がしていたからだ。
講義室には、学生と教員が集まっている。
白峰は前列に座っていた。
霧島は後ろの壁にもたれている。
三森も端の席にいる。
悠は発表台の前に立った。
タイトルは、こうだった。
私的収まりと公共性
――理解不能性を前提にした距離の哲学
白峰が小さく頷いた。
「まともな題だ」
霧島が笑った。
「題はね」
悠は聞こえないふりをした。
発表を始める。
「本発表では、他者理解の限界を前提に、私的領域と公共領域の境界を考えます」
声は、以前より落ち着いていた。
「人には、本人にとって切実でありながら、外部から完全には観測できない感覚があります。信仰、幸福感、自己認識、身体感覚、価値観。これらは本人にとって重要ですが、他者が完全に共有することはできません」
教室は静かだった。
「ここで重要なのは、分からないから否定するのではなく、分からないから決めつけない、ということです」
悠はスライドを送る。
内心:不問
外部行為:扱う
実害:扱う
制度:必要条件だけ扱う
「内心そのものは不問にする。しかし、外へ出た行為、契約、安全、実害は扱う。この切り分けが必要です」
白峰がメモを取っている。
教授も頷いていた。
悠は続けた。
「共感は大切です。しかし、共感は完全理解ではありません。寄り添いも大切です。しかし、寄り添いは距離を消すことではありません」
少しだけ間を置く。
「他人の全てを理解できない。だからこそ、踏み込みすぎない。だからこそ、必要な時には一歩だけ近づく」
霧島が静かに見ていた。
発表は終わった。
質疑応答。
白峰が手を挙げた。
「君の議論は、不問を重視する。だが、不問は現状維持や放置の口実にならないか」
予想していた質問だった。
悠は答える。
「なります。だから、不問は万能ではありません。外部に実害がある場合、契約や安全や制度の問題がある場合は扱うべきです。ただし、内心そのものを制度の項目にしない。そこを分けたいです」
白峰は頷いた。
「妥当だ」
霧島が手を挙げた。
「では、あなたは他者へどう近づくの?」
悠は少し黙った。
それは、論文の問いではなかった。
もっと個人的な問いだった。
悠は答えた。
「分かったフリをしないで、聞く。相手が望む距離で止まる。完全に理解できないことを忘れない」
霧島はさらに聞いた。
「それで十分?」
悠は首を振った。
「十分ではないと思います」
教室が少し静かになる。
「でも、十分ではないことを知っている方が、たぶん誠実です」
霧島は笑った。
「いい答え」
発表会が終わると、白峰が近づいてきた。
「神代」
「はい」
「私は、君の最初の比喩を今でも認めていない」
「はい」
「だが、君の論は認める」
悠は笑った。
「ありがとうございます」
白峰は不機嫌そうに言った。
「嫌悪感は反論ではないからな」
霧島もやってきた。
「最後まで言わなかったね」
悠は頷いた。
「言わない方が、伝わることもあるので」
霧島は少しだけ優しく笑った。
「やっと分かったね」
夕方。
悠は一人で大学の坂道を歩いていた。
空は晴れている。
遠くに、薄い月が出ている。
本当は、星や風や光から真理を見つけたかった。
もっと美しいものから。
もっと語りやすいものから。
もっと誇れるものから。
でも、自分が見つけたのは違った。
近すぎて、恥ずかしくて、口に出しづらくて、でもどうしようもなく強いもの。
悠は思う。
人は、他人の全てを理解できない。
それは冷たさではない。
むしろ、そこからしか始められない。
分からないから、決めつけない。
分からないから、支配しない。
分からないから、距離を測る。
分からないから、必要な時だけ手を伸ばす。
坂の下に、霧島が立っていた。
「帰る?」
「はい」
二人は並んで歩いた。
しばらく無言だった。
その沈黙は、気まずくなかった。
悠は言った。
「霧島さん」
「何?」
「僕は、あなたの全てを理解できません」
霧島は少し笑った。
「うん」
「たぶん、これからも」
「うん」
悠は一歩だけ、歩幅を合わせた。
「でも、一歩だけ近づいてみる勇気は持つことにしました」
霧島は少し黙った。
そして言った。
「それくらいなら、許す」
悠は笑った。
二人は歩いていく。
近すぎず。
遠すぎず。
ちょうどよいとは言い切れない距離で。
けれど、以前より少しだけ収まりのいい距離で。
悠は最後に思った。
分かり合えないと、分かり合おう。
それは敗北ではない。
人と人が、互いを壊さず近づくための、最初の約束だった。




