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股間に聖剣があった ――分かり合えないと分かり合う哲学  作者: チンポジ博士


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第四話 「切れる刃」

チンポジ哲学は、広がらなかった。


広がってはいけなかった。


少なくとも悠はそう思っていた。


だが、大学という場所は狭い。


哲学科の一部では、すでに妙な噂になっていた。


「例の比喩」

「神代のやつ」

「最低だけど分かるやつ」

「言いたくないけど強いやつ」


誰も名前を正面から呼ばない。


その配慮が、かえって恥ずかしかった。


悠はなるべく大人しくしていた。


講義では黙る。

サークルでも黙る。

研究室ではノートを閉じる。


自分は危ないものを見つけた。


そういう感覚があった。


けれど、刃物は一度切れ味を知ると、使ってみたくなる。


その日は、社会問題研究会で公開討論会があった。


テーマは、


「当事者の声をどう社会に届けるか」


だった。


学生だけでなく、他学部の教員や外部団体の人も来ていた。


悠は後ろの席に座っていた。


発言するつもりはなかった。


壇上では、活動家の女性が話していた。


「私たちは、声を上げられない人たちの代弁者でなければなりません」


悠の指が動いた。


ノートに書く。


代弁者。委任は?


女性は続ける。


「社会には、まだ多くの無理解があります。私たちは寄り添い、理解を広げ、制度を変えていく必要があります」


悠はペンを止めた。


まただ。


理解。

寄り添い。

制度。


全部が一直線につながっている。


本人の困りごと。

代理人の言葉。

社会の義務。

制度化。


その流れが、あまりにも滑らかだった。


滑らかすぎるものは怖い。


質疑応答の時間になった。


白峰が手を挙げた。


「代弁という言葉がありましたが、代表性の確認はどのようにされていますか。同じ属性の中に異なる意見がある場合、それはどう扱われますか」


よい質問だった。


悠は少し感心した。


活動家の女性は笑顔で答えた。


「もちろん多様な声があります。ただ、声を上げられない人の存在を考えれば、誰かが先に言葉にする必要があります」


白峰は引かなかった。


「それは、本人の意思を推定しているということですか」


「推定ではなく、寄り添いです」


悠の中で、何かが音を立てた。


寄り添い。


その言葉は便利すぎる。


本人意思の確認。

代表権。

委任。

費用。

責任。


それらを全部、柔らかく包んでしまう。


悠は手を挙げていた。


霧島が後ろで小さく「あ」と言った。


司会が悠を指した。


「そちらの方」


悠は立ち上がった。


「神代悠です」


マイクを受け取る。


手が少し震えている。


だが、口は勝手に動いた。


「代弁者という立場について確認したいです。本人から委任されていない場合、その代理はどこまで正当化されますか」


女性は少し表情を硬くした。


「声を上げられない人のために、誰かが声を上げる必要があります」


「それは分かります。ただ、声を上げられない人が、本当にその主張を望んでいるかは確認できませんよね」


「だからこそ、私たちは想像力を働かせる必要があります」


「想像した結果が外れていた場合、その責任は誰が負うんですか」


会場が少しざわついた。


悠は止まらなかった。


「さらに、属性を根拠に主張するなら、反論も属性へ向かいます。それをすぐ差別とするなら、議論が閉じませんか」


女性は言った。


「差別されている人の痛みに寄り添うことは、そんなに悪いことですか」


ここで止まればよかった。


本当は止まるべきだった。


だが悠は、刃を抜いた。


「あなたのチンポジに寄り添います、と言われたら嫌じゃないですか」


会場が凍った。


完全に凍った。


誰も笑わない。


誰も頷かない。


ただ、空気が死んだ。


白峰が目を閉じた。


霧島が顔を覆った。


悠は、自分が何をしたか一瞬で分かった。


だが遅かった。


活動家の女性は静かに言った。


「その比喩は、あまりに失礼ではありませんか」


悠は言葉を失った。


正しい。


失礼だった。


「すみません」


悠は頭を下げた。


「ただ、言いたかったのは、本人の内面や収まりに、他人が“寄り添う”という言葉で踏み込みすぎる危険です」


女性は冷たく言った。


「あなたは、苦しんでいる人に何もしないことを正当化しているように聞こえます」


悠は反射的に言った。


「違います。具体的な困りごとは扱うべきです。でも、本人の内面を勝手に代弁するなと言っています」


「それは、声を上げられない人を見捨てることです」


「では、あなたはその人の声をどうやって確認したんですか」


「……」


「確認できないなら、代弁ではなく、あなたの主張ではないですか」


会場の空気がさらに硬くなった。


悠は言い切った。


言い切ってしまった。


その瞬間、妙な快感があった。


相手の言葉が止まる。


会場が黙る。


問いが刺さる。


切れた。


自分の刃は、切れた。


そして、その快感に気づいた瞬間、悠は自分が嫌になった。


討論会はその後、司会が強引にまとめた。


「時間も迫っておりますので……」


悠は座った。


隣にいた白峰が小声で言った。


「最悪だな」


「分かってる」


「いや、分かってない」


白峰は前を向いたまま言った。


「君は今、勝った気になっただろ」


悠は何も言えなかった。


討論会が終わると、悠は逃げるように会場を出た。


雨は降っていなかった。


だが、空は重かった。


中庭まで来ると、霧島が追いついてきた。


「神代くん」


悠は振り返った。


霧島の表情は、今までで一番冷たかった。


「今日は駄目」


悠は頷いた。


「はい」


「何が駄目だったか、分かる?」


「比喩が失礼でした」


「それもある」


霧島は一歩近づいた。


「でも一番駄目なのは、君が勝ちに行ったこと」


悠は黙った。


霧島は続けた。


「チンポジ哲学って、何のためのものだった?」


「……分かったフリをしないため」


「そう。踏み込みすぎないため」


「はい」


「なのに君は、それで相手に踏み込んだ」


悠は言い返せなかった。


霧島の言葉は正しかった。


「君は相手の主張を切った。切れるから。気持ちよかったでしょ」


悠は俯いた。


「……はい」


「最悪」


「はい」


「でも、分かる」


悠は顔を上げた。


霧島は苦い顔をしていた。


「鋭いものを見つけたら、使いたくなる。特に、自分がずっと言語化できなかったものなら」


悠は小さく言った。


「僕は、距離感の話をしているつもりでした」


「うん」


「でも、距離感なく使いました」


「うん」


霧島は頷いた。


「だから危ないのよ」


その一言は、討論会のどの反論よりも刺さった。


その夜、悠はノートを開いた。


何も書けなかった。


代弁するな。


寄り添いすぎるな。


踏み込みすぎるな。


それは正しいと思う。


だが、その正しさを相手に叩きつけた時、自分は何をしていたのか。


悠はペンを握った。


ようやく一行だけ書いた。


チンポジ哲学で、人を殴った。


その文字は、ひどく情けなかった。


次の日、悠は研究室に行かなかった。


講義にも出なかった。


スマホには、白峰から一通だけメッセージが来ていた。


論点は悪くなかった。態度が悪かった。


白峰らしい。


霧島からは何も来なかった。


それが一番きつかった。


夕方、悠は大学の裏手にある小さな公園へ行った。


ベンチに座る。


子供が砂場で遊んでいる。


母親たちが距離を取りながら話している。


老人が犬を連れて歩いている。


世界は、妙に普通だった。


悠だけが、変な哲学に飲まれている。


自分は何をしたかったのだろう。


他人を分かりたかった。


分かったフリをしたくなかった。


誰かの内面を雑に扱いたくなかった。


でも、結局、自分も雑に扱った。


「神代」


声がした。


白峰だった。


なぜか缶コーヒーを二本持っている。


一本を悠に投げる。


悠は受け取った。


「ありがとうございます」


白峰は隣に座った。


しばらく沈黙した。


白峰が言った。


「君の昨日の指摘は、完全に間違いではない」


悠は缶を見つめた。


「でも間違えました」


「そうだ」


白峰は容赦なかった。


「君は、相手の代理性の弱さを突いた。それは論点として成立する」


「はい」


「だが、君は相手を論破することに酔った」


「はい」


「その瞬間、君は哲学者ではなく、ただの議論好きになった」


悠は苦笑した。


「痛いですね」


「痛く言っている」


白峰は缶コーヒーを開けた。


「だが、私も気をつけなければならない」


「白峰が?」


「私は引用で人を殴る」


悠は少し驚いた。


白峰は前を向いていた。


「カント、ヘーゲル、フーコー。偉人の名前を出せば、相手は黙ることがある。私はそれを知っている」


悠は黙った。


「君はチンポジで殴った。私はカントで殴る。品位の差はあるが、構造は似ている」


「……カントさんに申し訳ないですね」


「本当に申し訳ない」


白峰は初めて少し笑った。


「だから、これは君だけの問題ではない」


「じゃあ、何の問題ですか」


白峰は考えた。


「刃物を持つ者の問題だ」


悠は缶を握った。


刃物。


確かに、あれは刃物だった。


切れる。


だから危ない。


夜、悠は霧島に会いに行った。


研究室には灯りがついていた。


霧島は本を読んでいた。


悠が入ると、顔を上げた。


「来たんだ」


「はい」


「反省した?」


「しました」


「何を」


悠は少し考えた。


「チンポジ哲学は、相手を切るためのものじゃない」


霧島は本を閉じた。


「続けて」


「分かったフリをしないためのものです。相手に向ける前に、自分に向けるものです」


霧島は黙っていた。


悠は続けた。


「僕は、距離感を守る話をしていたのに、距離感なく踏み込みました」


霧島は小さく頷いた。


「それで?」


悠は息を吸った。


「もう、振り回しません」


「使わない?」


「いえ」


悠は首を振った。


「使います。でも、抜く前に止まります」


霧島は少し笑った。


「封印聖剣?」


「逆刃刀です」


霧島は吹き出した。


「何それ」


「相手を斬るんじゃなくて、自分を止める刃」


霧島はしばらく笑っていた。


そして、静かに言った。


「それなら、少しは哲学っぽい」


悠も少し笑った。


「チンポジなのに」


「チンポジなのに」


二人は笑った。


笑えたことで、少しだけ救われた。


その夜、悠はノートに新しいページを作った。


タイトルを書く。


逆刃刀としてのチンポジ哲学


我ながら最悪だった。


だが、その下に書いた言葉は、少しだけ真面目だった。


これは相手を斬るための思想ではない。

自分が踏み込みすぎる瞬間に、自分を止めるための思想である。


悠はペンを置いた。


窓の外に、夜の大学が見える。


哲学棟の明かりは少ない。


世界は相変わらず分からない。


他人も分からない。


自分も、まだ分からない。


だが、少なくとも一つだけ分かった。


強い言葉を手にした人間は、簡単に正しい側へ立ってしまう。


だから必要なのは、さらに強い言葉ではない。


止まること。


抜かないこと。


一歩だけ近づき、そこで止まること。


悠はノートの端に、小さく書いた。


分かり合えないことを、まず自分に分からせる。

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