第三話 「嫌悪感は反論ではない」
翌日から、悠は少しだけ有名になった。
悪い意味で。
哲学科の廊下で、誰かがこちらを見る。
食堂で、妙に視線を感じる。
講義室へ入ると、前列の学生が一瞬だけ会話を止める。
白峰は何も言わない。
霧島は面白そうに見ている。
悠は理解した。
終わった。
大学生活が終わった。
よりによって、自分は哲学科でチンポジを語ったのだ。
しかも、ちょっと通ってしまった。
それが一番よくなかった。
完全に滑っていればよかった。
「何言ってんだこいつ」で終わればよかった。
だが昨日の部室では、何人かが確かに頷いてしまった。
不快感は共有できる。
解決策は共有できない。
分かり合えないことを前提にする。
それは、思ったより使えた。
だから困った。
昼休み、悠は食堂の隅でうどんを食べていた。
そこへ霧島が座った。
「人気者だね」
「やめてください」
「哲学科で名を残したじゃない」
「残したくない名前で」
霧島は笑った。
「でも、昨日の話は悪くなかった」
悠は箸を止めた。
「本当にそう思います?」
「思う。言葉は最悪だけど」
「そこはもう分かってます」
「問題は、君がそれをどう扱うかだね」
悠は顔を上げた。
霧島は紙パックの紅茶にストローを刺した。
「強い比喩は、人を酔わせる」
「酔う?」
「昨日、少し嬉しかったでしょ」
悠は黙った。
嬉しかった。
確かに嬉しかった。
ずっと言葉にできなかった違和感が、ようやく形になった。
しかも、それが他人にも伝わった。
その瞬間、悠は少しだけ、自分が正しい側に立った気がした。
霧島は言った。
「気をつけなよ」
「何にですか」
「正しさの快感」
その言葉は、妙に重かった。
午後の講義は、倫理学だった。
教授は黒板に書く。
嫌悪と道徳判断
「人間は、しばしば嫌悪感を道徳判断と混同します」
悠は思わず背筋を伸ばした。
教授は続ける。
「不快だから悪い。気持ち悪いから間違っている。そう判断したくなる。しかし、嫌悪感は重要な感情である一方、それ自体が論証になるわけではありません」
悠は白峰を見た。
白峰もこちらを見ていた。
目が合う。
すぐ逸らされた。
教授は言う。
「たとえば、ある文化では普通の食習慣が、別の文化では強い嫌悪を呼ぶことがあります。では、その嫌悪だけで相手を悪と呼べるでしょうか」
悠はノートに書いた。
嫌だ。
でも、嫌だだけでは反論にならない。
昨日の白峰の顔が浮かんだ。
言い方は最悪だ。
下品だ。
不快だ。
だが、完全には否定できない。
嫌悪感は反論ではない。
講義後、白峰が悠の席へ来た。
「神代」
「はい」
「昨日の件だが」
来た。
悠は身構えた。
白峰は腕を組んで言った。
「私は、あの比喩が嫌いだ」
「はい」
「下品だ」
「はい」
「哲学科で口にするべきではない」
「それも、はい」
「だが」
白峰は苦い顔をした。
「嫌いだから間違い、とは言えない」
悠は黙っていた。
白峰は続ける。
「カントの物自体と同じだ、などと言うつもりはない。言ったらカントに失礼だ」
「カントさんとはお知り合いじゃないので」
「黙れ」
悠は黙った。
白峰はため息をついた。
「だが、外部から直接観測できない私的感覚、という点では、確かに類似はある」
「……はい」
「さらに、他者危害原則にも接続できる。外部へ害が出るまでは不問にする、という話だからな」
「はい」
「ウィトゲンシュタインの私的言語問題にも触れる」
「はい」
「フーコーの規範化にも、まあ、接続してしまう」
白峰は心底嫌そうだった。
「してしまうんですね」
「してしまう」
白峰は額を押さえた。
「最悪だ」
悠は何も言えなかった。
白峰は続けた。
「だが、私は認めない」
「なぜですか」
「嫌だからだ」
悠は少し笑いそうになった。
白峰は睨んだ。
「笑うな」
「すみません」
「ただし、哲学的には検討する」
悠は白峰を見た。
白峰は真剣だった。
「嫌いなものを、嫌いだから排除するのは哲学ではない」
その言葉に、悠は少しだけ感動した。
白峰は面倒くさい。
偉そうだ。
すぐカントを出す。
でも、誠実だった。
哲学者になろうとしている人間だった。
「ありがとうございます」
悠が言うと、白峰は顔をしかめた。
「感謝するな。私は不愉快だ」
「はい」
「だが、検討会を開く」
「え」
「君のその……概念の適用範囲を検証する」
「やらなくていいです」
「やる」
「本当にやめた方が」
「私は嫌悪に負けたくない」
白峰はそう言って去っていった。
悠は机に突っ伏した。
どうしてこうなった。
夕方。
研究室には、なぜか数人が集まっていた。
白峰がホワイトボードの前に立っている。
霧島は後ろで笑いをこらえている。
教授までいる。
悠は帰りたかった。
白峰が咳払いした。
「本日は、神代悠の提唱した、いわゆる……」
白峰は口を止めた。
言いたくなさそうだった。
霧島が代わりに言った。
「チンポジ哲学」
白峰が目を閉じた。
「その、概念検証を行う」
教授が穏やかに言った。
「面白そうですね」
悠は思った。
この大学は終わっている。
白峰がホワイトボードに書く。
本人には重要
他者には完全共有不能
外部観測困難
絶対正解なし
踏み込みすぎると侵襲的
外部害が出れば公共問題
白峰は言った。
「神代の比喩が成立する条件は、おそらくこの六つだ」
霧島が頷く。
「かなり整理されてるね」
白峰は不本意そうに言った。
「整理しないと不快すぎる」
教授が微笑んだ。
「では、他の例に適用してみましょう」
一人の学生が言った。
「宗教は?」
白峰は書く。
宗教。
本人には重要。
他者には完全共有不能。
外部観測困難。
絶対正解なし。
踏み込みすぎると侵襲的。
外部害が出れば公共問題。
沈黙。
霧島が言った。
「通るね」
白峰が悔しそうに頷いた。
「信仰は、内心としては不問。外部行為で害が出れば扱う。かなり古典的だ」
教授が頷く。
「信教の自由ですね」
悠は黙っていた。
自分の比喩が宗教へ接続してしまった。
嫌だった。
学生が言う。
「ジェンダーは?」
ホワイトボードに書かれる。
ジェンダー。
本人には重要。
他者には完全共有不能。
外部観測困難。
絶対正解なし。
踏み込みすぎると侵襲的。
外部害が出れば公共問題。
また沈黙。
白峰は小さく言った。
「通る」
霧島が言った。
「でも制度に接続すると、箱が必要になる」
悠は反応した。
「グラデーションが死ぬ」
全員が悠を見る。
悠は続けた。
「制度は箱を用意するしかできない。A、B、A+B、その他。箱を増やしても、連続体は戻らない。グラデーションはカラフルな箱になる」
白峰が目を細めた。
「……それは良い指摘だ」
悠は少し驚いた。
白峰が褒めた。
だがすぐに白峰は言った。
「比喩名以外は」
「はい」
教授が楽しそうに言った。
「では、幸福は?」
幸福。
本人には重要。
他者には完全共有不能。
外部観測困難。
絶対正解なし。
踏み込みすぎると侵襲的。
外部害が出れば公共問題。
霧島が言った。
「これも通る。幸せにしてあげる、が怖くなる」
教授は頷いた。
「善意の侵襲性ですね」
悠はその言葉を書き留めた。
善意の侵襲性。
自分が昨日感じていたものに、ようやく少し上品な名前が付いた。
検証は一時間続いた。
自由。
思想。
承認欲求。
アイデンティティ。
メンタルヘルス。
文化差。
パーソナルスペース。
通るものが多すぎた。
もちろん、通らないものもあった。
犯罪件数。
税率。
契約書。
交通ルール。
KPI。
白峰は言った。
「これは内心や私的感覚の問題には強いが、数値指標や制度設計一般には別の枠組みが必要だ」
悠は頷いた。
「万能じゃない」
霧島が言った。
「そこ、かなり大事」
教授も頷いた。
「万能を名乗った瞬間、思想は危険になります」
悠は、その言葉を強く覚えた。
検証会が終わる頃、ホワイトボードは文字でいっぱいになっていた。
白峰は疲れた顔で言った。
「結論を言う」
悠は身構えた。
白峰は言った。
「この比喩は不適切で、不快で、下品で、公共の場に向かない」
悠は頷いた。
「はい」
「しかし、私的感覚の不可観測性、他者理解の限界、制度化の危険、共感の侵襲性を説明するメタファーとしては、かなり強い」
研究室が静かになった。
白峰は苦々しく続けた。
「認めたくはない」
教授が笑った。
「それも大事な感情です」
白峰は不機嫌そうに言った。
「ですが、嫌悪感は反論ではありません」
悠は、その言葉を聞いて、胸の奥が少し熱くなった。
哲学は、こういうものなのかもしれない。
嫌でも見る。
不快でも考える。
認めたくなくても、構造が通るなら検討する。
その誠実さだけは、確かに美しかった。
帰り道。
悠と霧島は並んで歩いていた。
雨は上がっていた。
「良かったね」
霧島が言った。
「何がですか」
「一応、哲学として検討された」
「検討されたのがチンポジですけど」
「そこが面白いんじゃない」
悠は苦笑した。
「僕は、もっと綺麗なものが良かったです」
「星とか?」
「はい。星とか風とか」
霧島は笑った。
「でも君は股間だった」
「言わないでください」
「言うよ。だってそこが大事だから」
悠は霧島を見た。
霧島は静かに言った。
「綺麗な言葉じゃないから、逃げられないんだと思う」
悠は黙った。
確かにそうだった。
共感。
寄り添い。
尊重。
多様性。
綺麗な言葉は、上へ逃げる。
だが、身体は逃がしてくれない。
そこまで来られたら嫌だ。
ほっといてほしい。
でも、困っていることは否定されたくない。
その距離感が、どうしようもなく身体で分かってしまう。
霧島が言った。
「ただし、気をつけて」
「何にですか」
「君、これで人を殴れるよ」
悠は足を止めた。
霧島も止まった。
「すごく切れる。たぶん、いろんな議論を切れる。でも、切れるから危ない」
悠は何も言えなかった。
霧島は続けた。
「この哲学は、相手を黙らせるためじゃない。たぶん、自分が踏み込みすぎるのを止めるためのもの」
悠は、その言葉の意味を完全には理解できなかった。
ただ、胸の奥に残った。
強いものは、危ない。
そして、強いものを見つけた人間は、たぶん一度間違える。
悠はまだ、それを知らなかった。
夜。
悠はノートを開いた。
今日の結論を書く。
嫌悪感は反論ではない。
その下に、もう一行。
強い比喩は、人を酔わせる。
さらにその下。
万能ではない。万能にしてはいけない。
最後に、小さく書いた。
抜くな。
自分でも意味が分からなかった。
だが、なぜかその言葉が必要な気がした。




