第二話 「他人のチンポジは分からない」
翌朝、悠は寝不足のまま大学へ向かった。
目の下には薄い影がある。
鞄には哲学書が三冊入っている。
だが、頭の中にあるのは一つだけだった。
他人のチンポジは分からない。
最悪だった。
もっと他にあったはずだ。
風。
星。
光。
川。
森。
宇宙。
哲学なら、そういうものから気づくべきだった。
なのに、よりによってこれである。
悠は歩きながら呟いた。
「いや、ないだろ……」
だが、ないと言い切れなかった。
本人には重要。
他人には分からない。
外から観測不能。
説明しづらい。
正解がない。
踏み込まれると嫌。
条件が揃いすぎていた。
哲学棟の階段を上がると、白峰がいた。
「神代。昨日、研究室に残ってたろ」
「ああ」
「何か進んだのか?」
悠は一瞬迷った。
言うべきではない。
絶対に言うべきではない。
だが、眠気と興奮で判断力が落ちていた。
「他者理解の限界について、少し分かった」
白峰が眉を上げる。
「へえ。どういう方向で?」
悠は深呼吸した。
「他人のチンポジは分からない」
白峰は止まった。
廊下の空気まで止まった気がした。
「……何?」
「他人のチンポジは分からない」
「聞き間違いじゃなかったのか」
悠は真剣だった。
「本人には重要なんだ。でも他人には分からない。外から観測できない。しかも正解がない。だから、分かったフリをするな、という話になる」
白峰は一歩下がった。
「お前、寝ろ」
「寝たら忘れるかもしれない」
「忘れた方がいい」
白峰はそう言って去っていった。
悠は廊下に取り残された。
やはり駄目だった。
だが、駄目なのは言葉だけではないか。
構造は通っている。
悠はそのことが、嫌だった。
その日の講義は、カントだった。
教授は黒板に大きく書いた。
物自体
「カントによれば、私たちは物自体そのものを直接認識することはできません。私たちは、感性と悟性の形式を通じて現象を認識している」
悠は黒板を見つめた。
物自体そのものは見えない。
見えているのは、こちらの認識を通したもの。
外から本体へは届かない。
悠の頭の中で、昨日の言葉が勝手に動き出した。
収まりそのものは、外から見えない。
悠は顔をしかめた。
やめろ。
カントを巻き込むな。
教授は続ける。
「つまり、私たちは世界そのものに触れているようで、実は常に認識の条件を通しているわけです」
悠はノートに書いた。
他人の内面も同じでは?
書いた直後に、さらに小さく書き足した。
チンポジも?
最悪だった。
だが、しっくり来た。
講義後、霧島に声をかけられた。
「君、今日ずっと変な顔してた」
「すみません」
「何か見つけた?」
悠は黙った。
霧島は目を細める。
「言いなさい」
「嫌です」
「そこまで言われると聞きたい」
悠は観念した。
「他人のチンポジは分からない、という話です」
霧島は数秒間、完全に無表情だった。
そして言った。
「最低」
「はい」
「でも続けて」
悠は驚いた。
霧島は腕を組んだ。
「最低だけど、君がそんな顔をする時は、だいたい何かある。続けて」
悠はゆっくり話した。
「他者理解って、分かった気になるのが怖いじゃないですか。でも、完全に分からないから無視しろ、でもない。本人には重要なものがある。でも他人には完全には見えない。だから、理解より距離感が必要なんじゃないかと」
霧島は黙って聞いている。
「それを一番直感的に説明できるのが……」
「チンポジ」
「言わないでください」
「君が言ったんでしょ」
悠は頭を抱えた。
「本当に嫌なんです。でも、条件が揃いすぎているんです」
「本人には重要」
「はい」
「他人には分からない」
「はい」
「外から見えない」
「はい」
「正解がない」
「はい」
「踏み込まれると嫌」
「はい」
霧島は少し黙った。
「……嫌ね」
「はい」
「でも、分かる」
悠は顔を上げた。
霧島は本当に嫌そうな顔をしていた。
「分かりたくないけど、分かる」
その言葉に、悠は少しだけ救われた。
放課後、社会問題研究会の部室で、いつもの議論が始まった。
今日のテーマは「寄り添いの実践」だった。
一人の学生が言う。
「私たちはもっと当事者の気持ちに寄り添う必要があると思います」
悠の身体が反応した。
昨日までなら、言葉にできない違和感だった。
だが今は違う。
はっきり見えた。
近い。
近すぎる。
悠は思わず言った。
「それ、どこまで寄り添うんですか」
学生が振り向く。
「どういう意味?」
悠は言葉を選んだ。
チンポジと言うな。
絶対に言うな。
「他人の内面って、完全には分からないですよね。なのに“寄り添う”と言うと、かなり近くまで入れる前提に聞こえるんです」
「でも、無関心よりはいいでしょ」
「それはそうです。でも、理解した気になる危険はありませんか」
「じゃあ何もしないの?」
「そうじゃなくて。具体的に困っていることがあるなら、それを扱う。でも内面そのものを分かったことにしない」
少し空気が硬くなった。
霧島が黙って見ている。
悠は続けた。
「例えば、不快感はあると分かる。でも、何が収まりになるかは本人にしか分からない。だから、解決策までこちらが決めるのは危ない」
「収まり?」
誰かが聞いた。
悠は固まった。
出る。
言葉が出そうになる。
他人のチンポジは。
悠は必死に飲み込んだ。
「……距離感です」
霧島が少し笑った。
白峰が部室の隅で冷たい目をしていた。
「神代」
白峰が言った。
「それは結局、何もしないことの正当化では?」
悠は首を振った。
「違う。実害や具体的な困りごとは扱うべきだと思う。ただ、内面を全部こちらが理解したことにして制度化するのは危ない」
「抽象的だな」
「はい」
「もっと分かりやすく言えないのか」
悠は沈黙した。
霧島が止めようとした。
だが遅かった。
悠は言った。
「あなたのチンポジに寄り添います、って言われたら嫌じゃないですか」
部室が死んだ。
完全に死んだ。
誰も動かない。
白峰は目を閉じた。
霧島は天井を見た。
言った悠本人も、すぐに後悔した。
だが、発言は戻らない。
一人の学生が、小さく言った。
「……嫌ですね」
別の学生も言った。
「それは、かなり嫌」
白峰が低い声で言った。
「言い方が最悪だ」
悠は頷いた。
「はい」
「だが、言いたいことは分かった」
白峰は悔しそうだった。
「本当に最悪だが」
悠は深くうなだれた。
議論はそこで終わらなかった。
むしろ、奇妙に進み始めた。
「つまり、寄り添うにも距離がいるってこと?」
「不快感は理解できるけど、解決策は本人ごとに違うって話?」
「属性じゃなくて、具体的な困りごとを見るべきってこと?」
悠は頷いた。
「たぶん、そうです」
霧島が静かに言った。
「分かり合えないことを、前提にする」
悠はその言葉を受け取った。
「はい」
「でも断絶ではない」
「はい」
「一歩だけ近づく」
悠は少し驚いた。
その言葉は、まだ自分の中にもなかった。
一歩だけ近づく。
近づきすぎない。
でも離れすぎない。
それは、ずっと探していた距離だった。
部会のあと、白峰が悠の前に立った。
「神代」
「はい」
「その比喩は二度と使うな」
「すみません」
「だが、完全には否定できない」
白峰は悔しそうに言った。
「それが腹立たしい」
悠は少し笑いそうになった。
白峰は続けた。
「哲学者としては、不快だから間違いとは言えない」
「哲学者なんですね」
「茶化すな」
白峰は去っていった。
霧島が近づいてきた。
「君、今日すごかったね」
「褒めてます?」
「半分」
「残り半分は?」
「事故」
悠は肩を落とした。
霧島は笑った。
「でも、分かった。君の違和感」
「本当ですか」
「うん。理解したとは言わない」
悠は霧島を見た。
霧島は続けた。
「でも、少しだけ近づけた気はする」
その言い方が、悠にはとても収まりよく聞こえた。
夜、悠は一人でノートを開いた。
今日の出来事を書き残す。
不快感は共有できる。
解決策は共有できない。
ゴールは共有できる。
ルートは人それぞれ。
だから、分かり合えないことを前提にする。
そして最後に、小さく書いた。
チンポジ哲学。
すぐに線で消した。
だが、消しても見えた。
悠はため息をついた。
本当に、よりによってだった。




