第八章 本部へようこそ
そして——。
ついに、その時間がやって来た。
昨日までは「まだ明日か」と思っていたはずなのに、一晩眠って目を覚ませば、もう今日だった。
僕たちは朝から身支度を整え、忘れ物がないか何度も確認してから家を出発した。
車の中では、いつもなら誰かが何かしら雑談をしている。
今日の朝ご飯の話だったり。
最近見つけた面白いお店の話だったり。
トロンプくんの大好きなジャズの話だったり。
だけど今日は違った。
車内は、驚くほど静かだった。
誰もが、それぞれ緊張している。
大会議。Venom Desire最高幹部が勢ぞろいする場所。
そんな場所へ、自分たちが足を踏み入れる。
それだけで胸がいっぱいだった。
そして。
車は、大都市の中心部へと入っていく。
高層ビルが何本も空へ向かって伸び、街には多くの人々が行き交っている。
その中でも——。
ひときわ異彩を放つ建物があった。
巨大。
漆黒。
まるで空そのものを突き刺すかのような一本の塔。
周囲にも背の高い建物はたくさん建っている。
しかし、それらすべてを従える王のように、その黒い建物だけは圧倒的な存在感を放っていた。
誰が見ても分かる。
あれこそが。
Venom Desire。
その本部だ。
「——着いたぜ……。Venom Desire……本拠地ッッ!!」
ミライ・ユくんが、いつも以上に慎重な運転で車を駐車スペースへ滑り込ませる。
ブレーキも驚くほど滑らかで、まるで高級ホテルの送迎車みたいだった。
エンジンを止めると、小さく息を吐く。
「……ふう」
普段なら「着いたぞー!」なんて軽く言うミライ・ユくんが、今日は少しだけ硬い表情をしていた。
それだけ、この場所が特別なんだ。
僕は窓越しに黒い本部を見上げた。
「すごい……」
思わず声が漏れる。
近くで見ると、その迫力は想像以上だった。
黒く磨き上げられた外壁は陽の光を受けても鈍く輝くだけで、まるで巨大な黒曜石の城のよう。
入口へ続く階段は広く、左右には美しく整えられた庭園。
噴水から流れる水さえ、どこか気品を感じさせる。
行き交う組員さんたちも、皆きっちりとスーツを着こなし、姿勢がいい。
ここがVenom Desireの中心。
世界最大級の組織を支える、本当の本部なんだ。
そう思うだけで自然と背筋が伸びた。
昨日。
僕は二人に大会議の話を伝えた。
「——と、いうわけで」
「明日、二人にもついて来てほしいんだよね」
一瞬。
本当に、一瞬だけ静寂が流れた。
そして——。
「はあああああああああああああああッ!?!?!?」
「ええええええええええええええッ!?!?!?」
二人は見事なくらい同時に絶叫した。
「た、大幹部全員ッ!?!?」
「ぼぼぼぼぼ僕たちもッ!?!?」
「う、うん……」
「いやいやいやいやいやいやッ!!」
「そんな簡単に言う話じゃないよおおおおッ!!」
トロンプくんは頭を抱えて部屋中をぐるぐる歩き回る。
ミライ・ユくんはソファから転げ落ちそうになりながら、
「俺たち死ぬッ!!」
と、本気で叫んでいた。
もちろん死にはしない。
だけど、それくらい衝撃だったんだろう。
僕も少し笑ってしまった。
この前、兄さんから通信が来た時も二人とも大混乱だったけど……。
今回はそれ以上だった。
その慌てっぷりがあまりにも面白くて、思わず吹き出してしまったくらいだ。
そして。
その「明日」が、今日になった。
実際に。本当に。
Venom Desire本部まで来てしまった。
車のドアを開ける。
外へ出ると、ひんやりとした風が頬をなでた。
巨大な本部を見上げるだけで心臓が少し速くなる。
「うわああ~~!!」
トロンプくんが両手で頭を押さえた。
「緊張するうううッ!!」
いつも明るいトロンプくんまで、今日はさすがに落ち着かない様子だ。
隣ではミライ・ユくんが何度もネクタイを直している。
「うう……なあ、俺……髪、乱れてねえか?」
普段ならそんなこと全然気にしないのに。
今日は前髪を触ったり、襟を整えたり、靴を見たり。
何度も身だしなみを確認している。
それだけ緊張しているんだ。
僕は思わず笑顔になった。
「うん!相変わらずかっこいいよ!」
「……は」
ミライ・ユくんは少しだけ目を丸くする。
そして照れくさそうに視線を逸らした。
「……なら、いいけどよ」
耳が少しだけ赤くなっている。
その様子がなんだか可愛くて、トロンプくんと二人で思わず笑ってしまった。
「よーし!」
トロンプくんが両手で自分の頬をパンッと叩く。
「笑顔笑顔ッ!僕たちはカゲエくんの護衛なんだからね!」
「そうだな」
ミライ・ユくんもうなずく。
「どんな大幹部が相手でも、胸張って行こうぜ」
「……うん!」
僕も大きくうなずいた。
三人で顔を見合わせる。
そして、小さく笑い合う。
緊張はしている。
だけど、一人じゃない。
三人一緒だから、大丈夫だ。
僕たちは覚悟を決めると、ゆっくりと漆黒の巨大な建物へ向かって歩き始めた。
自動扉が静かに左右へ開く。
そして——僕たちは、Venom Desire本部の入口へと足を踏み入れた。
だが——。
「……えっ?」
自動扉をくぐった瞬間、僕は思わず立ち止まってしまった。
想像していた景色と、あまりにも違っていたからだ。
目の前に広がっていたのは——。
受付カウンターがぽつんと置かれた、静かな空間。
それだけだった。
床は磨き上げられた大理石。
天井も高く、照明も豪華ではある。
けれど。
そこには誰もいない。
そして何より不思議だったのは、正面に見える豪華な応接室のような景色だった。
一見すると、人が談笑しているように見える。
ソファが置かれ、観葉植物が並び、高価そうな絵画まで飾られている。
しかし——。
よく見ると。
「……あれ?」
僕は目を細めた。
「あれ……全部……」
近づいてみる。
すると。
「壁紙……?」
思わず声が漏れた。
人も。机も。ソファも。飾られた絵画も。すべて。ただの壁紙だった。
精巧すぎる立体風の壁紙。
遠くから見れば本物にしか見えないほど完成度が高い。
「何もねえ……?」
ミライ・ユくんも眉をひそめる。
「どういうことッ!?」
トロンプくんも壁をぺたぺた触り始めた。
「え!? ここで合ってるのかな!?」
「場所は間違ってねえ」
ミライ・ユくんは即座に首を横へ振る。
「昔、一度だけ偉い人をここまで送り届けたことがある」
「建物も場所も完全に一致してる」
「だから、ここで合ってるはずなんだが……」
三人で顔を見合わせる。
静かすぎる。
組員さんもいない。
受付嬢さんもいない。
人の気配すら感じられない。
まるで廃墟みたいだ。
その時だった。
ブゥン……。
足元から低い振動音が響く。
「「「!!!」」」
床一面に、巨大な魔法陣が浮かび上がった。
何重にも重なる幾何学模様。
淡い白い光が円を描きながら回転していく。
「な、なんだこれ!?」
「転移魔法か!?」
「えぇぇぇぇぇッ!?」
僕たちが慌てている間にも魔法陣はどんどん輝きを増していく。
そして——。
シュオオオオオオオッ!!
まばゆい光が天井まで一直線に伸びた。
「うわっ!!」
思わず目を閉じる。
身体全体がふわりと浮いたような感覚。
まるで空へ吸い込まれていくようだった。
その時。
どこからともなく、落ち着いた女性の声が聞こえてきた。
《こんにちは》
機械音声のようでもあり、人間の声のようでもある、不思議なアナウンスだった。
《Venom Desire本部へようこそ》
《これより、本人確認を開始いたします》
「本人確認……?」
「なんだこれ……」
「何が始まるっていうのさ!?」
三人とも辺りを見回す。
しかし真っ白な世界が広がっているだけで、人影は一つも見えない。
《いくつか質問をさせていただきます》
《質問には正確にお答えください》
《まず、年齢とお名前をどうぞ》
「え、えっと……」
僕は少し緊張しながら答えた。
「十八歳……カゲエです」
少し間を置いて、
「……十八。ミライ・ユ…インパストだ」
ミライ・ユくんが答える。
「十七歳!トロンプルイユです!」
トロンプくんも元気よく返事をした。
すると。ピロン。どこかで電子音が鳴る。
《確認しました》
《続いて》
《魔法能力について説明してください》
「あ、はい!」
僕は深呼吸してから話し始めた。
「《メイドインキャンバス》です」
「絵や写真などの芸術作品の世界へ入り込むことができます」
「俺は《オーバー・レインボー・ロード》」
ミライ・ユくんが続く。
「能力が発動している時は、ノッているものの物理情報を無視できる」
「僕は《ミスター・スポットライト》!」
トロンプくんはいつもの調子で笑う。
「指定した場所や物、人に《注目》を集めることができます!」
再び電子音。
《確認しました》
そのまま終わるかと思った。
しかし。
《続いて》
《カゲエさん》
「は、はい?」
《代表として》
《ボスとの思い出について、お話しください》
「……え?」
僕は一瞬固まった。
「思い出……?」
「そんな質問あるの!?」
トロンプくんも驚いている。
ミライ・ユくんも腕を組んで考え込む。
「なるほど……」
「本人しか知らねえ話か」
確かに。
兄さんとの思い出なんて、他人には分からない。
最高レベルの本人確認だ。
《どのような内容でも構いません》
《思い出をお話しください》
「えっと……」
僕は昔を思い出す。
「僕が六歳くらいの頃かな」
「兄さんがパンケーキを作ってくれたことがあって」
懐かしい光景が頭に浮かぶ。
「でも兄さん、料理があんまり得意じゃなくて」
「思いっきり真っ黒に焦がしちゃったんだ」
思わず笑ってしまう。
「兄さんは『食べるな!絶対食べるな!』って止めたんだけど」
「僕、『食べるもん!』って言って聞かなくて」
「一口食べた瞬間——」
当時を思い出して顔をしかめる。
「苦すぎて」
「『うええええぇぇ……!』って吐き出しちゃったんだ」
ミライ・ユくんとトロンプくんが思わず笑う。
「兄さんも笑いながら」
「『だから言ったろ!?……まあ、焦がした俺が悪いんだけどさ』って」
「そのあと二人で材料をもう一回混ぜ直して」
「今度はちゃんと焼けて」
「一緒にクリームを乗せたり、フルーツを飾ったりして——」
《十分です》
「え?」
《ありがとうございました》
「え、ちょっと待って!まだ話したりな——」
ピロン。
軽快な電子音が鳴る。
《正式な本人確認が完了しました》
《認証成功》
《ようこそ》
《カゲエ様》
《ミライ・ユ様》
《トロンプルイユ様》
その瞬間だった。
ゴォォォォォォォ……!!
世界中が再び真っ白な光に包まれる。
「うわあっ!」
あまりの眩しさに目を閉じる。
身体がふわりと浮く感覚。
数秒後。
ゆっくり目を開けると——。
「…………」
誰も声が出なかった。
そこに広がっていたのは。
まるで王族が暮らす宮殿のような、豪華絢爛な大空間だった。
真紅の絨毯がどこまでも続き。
巨大なシャンデリアが天井から輝き。
黒と金を基調とした壮麗な柱が何本も並んでいる。
組員たちが忙しく行き交いながらも、皆どこか気品を漂わせていた。
先ほどの何もない受付とは、まるで別世界。
秘密組織の本拠地にふさわしい、圧倒的な威厳と風格がそこにはあった。
僕は思わず息をのむ。
「……すごい」
ここが——。
今度こそ、本当の。
Venom Desire本部だった。




