第十八章 確定された敵の勝利
そして。
楽しいドライブも終わりを迎え、僕たちを乗せた車はゆっくりと医療班本部の駐車場へ滑り込んだ。
キィッ。
タイヤが静かに止まり、エンジン音も次第に小さくなっていく。
「……よし。到着だ」
ミライ・ユくんがハンドルから手を離し、大きく息を吐いた。
「今日も安全運転だったぜ」
「うん!」
僕は笑顔で頷く。
「本当に揺れも少なくて快適だったよ!」
「だろ?」
トロンプくんも元気よく頷いた。
「途中でゼーユ看護師長まで寝ちゃうくらいだったもんね!」
「へへっ」
ミライ・ユくんは少しだけ得意そうに鼻を鳴らす。
「ま、俺に任せとけば安心ってことだな」
「調子乗ってる~!」
「乗ってねえ!」
二人がいつものようにじゃれ合い始める。そのやり取りを聞いていたゼーユ看護師長は、
「ん……」
と、小さく目を開けた。
ゆっくり瞬きを繰り返しながら辺りを見渡す。
「あれ……」
一瞬だけ状況を確認すると、
「ああ、着いたんだね」
そう言って小さく笑った。そして少しだけ照れくさそうに頭をかく。
「いやあ……考え事してたら、つい寝ちゃったよ」
肩をすくめながら苦笑いする。
「みんなと一緒にいるのに寝ちゃうなんて、マナー違反だったね。ごめんね」
「いえいえ!」
僕は慌てて首を横に振った。
「全然そんなことありません!」
「むしろ!」
思わず笑顔になる。
「ゼーユ看護師長の貴重な寝顔が見られて、ラッキーでした!」
「そうそう!」
トロンプくんも勢いよく手を挙げる。
「ゼーユ看護師長の寝顔、すっごく綺麗でしたよ~!」
「なんか天使みたいだった!」
ミライ・ユくんも笑いながら続ける。
「めちゃくちゃ安心しきって寝てましたよ」
「普段あんな姿見せないですし!」
三人から一斉にそんなことを言われ、
「ええ?」
ゼーユ看護師長は少し目を丸くした。
「そうだった?」
くすっと笑いながら首をかしげる。
「自分じゃ全然分からないなあ」
「でも……」
少しだけ遠くを見るように空を見上げ、
「気付いてないだけで、結構疲れてたのかもしれないね」
そう静かに呟いた。
その声には、ほんの少しだけ本音が混じっているようにも聞こえた。
「そうですね……」
僕は優しく微笑む。
「ゼーユ看護師長、今日はもうゆっくり休んだ方がいいですよ」
「最近、本当に忙しそうでしたし」
「そうそう!」
トロンプくんも何度も頷く。
「今日は絶対お仕事禁止~!」
「いっぱい寝て!いっぱいご飯食べて!いっぱい休んでください!」
「ははは」
ゼーユ看護師長は思わず吹き出した。
「君たち、私のお母さんみたいだね。」
「えへへ」
三人で顔を見合わせて笑う。
車のドアを閉め、それぞれ荷物を持ちながら駐車場を歩き出した。
夕焼けに染まった医療班本部は、今日もどこか神秘的だった。
白を基調とした巨大な建物。
窓ガラスには茜色の空が映り込み、まるで建物全体が柔らかな光に包まれているようだった。
入口付近には色とりどりの花壇が並び、
微かな風に揺れる花々が優しい香りを運んでくる。
いつ見ても、心が落ち着く場所だ。
「うーん」
ゼーユ看護師長は軽く伸びをする。
「そうだね」
「今日は休院日にもしてあるし」
「急患でも来ない限り、今日はもう仕事は終わり」
「久しぶりにゆっくり休んじゃおうかな」
「それがいいですよ!」
僕は笑顔で答える。
「たまには何もしない日があってもいいと思います!」
「賛成~!」
トロンプくんがぴょんと飛び跳ねる。
「ゼーユ看護師長にも休日は必要ですっ!」
「そうだな」
ミライ・ユくんも静かに頷いた。
「休める時に休んどかねえと」
「ありがとう」
ゼーユ看護師長は三人を見回し、どこか嬉しそうに微笑んだ。
「本当に、優しい子たちだね」
その言葉に。
僕たち三人は、少し照れくさそうに笑う。
「あははは!」
「えへへ~!」
「そんなことないですよ」
笑い声を交わしながら。
四人は並んで医療班本部の玄関へ向かって歩いていく。
自動ドアの前に立つと、センサーが反応し、
ウィーンと静かな機械音を響かせながら、ゆっくりと扉が左右へ開き始めた。
——その瞬間だった。
ガヤガヤガヤガヤッ!!!!!!
「「「!!!」」」
静かだったはずの医療班本部に、耳をつんざくような喧騒が一気に押し寄せてきた。
怒鳴り声。悲鳴。泣き声。
慌ただしく走り回る足音。
医療器具が運ばれる金属音。
ありとあらゆる音が入り混じり、まるで戦場そのものだった。
「包帯もっと持って来てください!」
「こっちの患者さん、出血が止まりません!」
「魔力切れです!回復薬を!」
「こちらもお願いします!」
次々と飛び交う叫び声。
そして。
「大丈夫ですか!?」
「今、応急処置します!!」
「もう少しだけ我慢してください!」
「ゼーユ看護師長が到着するまでの辛抱ですよ!!」
「ううっ……!」
「痛ぇ……!!」
「腕が……腕が動かねぇ……!」
入口付近には、床一面に座り込む負傷者たち。
腕から血を流す者。肩を押さえて苦しそうにうずくまる者。足を引きずって歩く者。魔力切れでぐったりと壁にもたれかかる者。
医療班の隊員たちは額に汗を浮かべながら、必死に応急処置を続けていた。
包帯が次々と消費され。回復薬も次々と運ばれていく。
普段は落ち着いた医療班本部が、今はまるで野戦病院のようになっていた。
「これは……一体……」
僕は思わず息を呑む。
視線を巡らせると。
負傷者たちの胸元には、全員同じ徽章が光っていた。
黒いバッジ。中央には大きく刻まれた二文字。
——VD。
Venom Desireの証。
「みんな……組員だ……!」
どうして。何が起きたんだ。
さっきまで大会議をしていたばかりなのに。
どうしてこんなことに——。
僕がそう言い終えるより早く。
キュイイイイイイイイン……!!!!
眩い光が一気に視界を埋め尽くした。
「!!」
床いっぱいに広がる巨大な魔法陣。
青白く輝く幾何学模様が医療班本部全体を覆い尽くしていく。
その光はあまりにも神々しく。
まるで天使が舞い降りたかのようだった。
次の瞬間。淡い光が負傷者全員を優しく包み込む。
すると。
「……あれ?」
「うおっ!」
「お、おおおお!!」
一人の組員が腕を見つめる。
さっきまで裂けていた傷口が。
みるみる塞がっていく。
「傷が……!」
「治ってる!!」
「腕が動く!!」
「うおおおおおっ!!」
「怪我治ったぜぇぇぇ!!」
「痛くねぇ!!」
「この魔法は……!!」
一人の医療班隊員が感動したように叫ぶ。
「ゼーユカタルシス様だ!!」
「「「ゼーユカタルシス様ーーーッ!!!」」」
歓声が一斉に響き渡る。
ゼーユ看護師長はゆっくりと前へ歩き出した。
白衣をなびかせながら。
その姿には、さっきまで車で眠っていた穏やかな雰囲気はもうない。
医療班を率いる最高責任者の顔だった。
「皆……」
周囲を静かに見渡す。
「大丈夫かい?」
その一言だけで。張り詰めていた空気が少しだけ和らぐ。
「ゼーユカタルシス様……!」
「ありがとうございます!」
「助かりました!!」
誰もが安堵の表情を浮かべていた。
やっぱり。この人は違う。一瞬で。この場にいた全員の傷を治療してしまった。
やっぱり、この人は——。魔法の天才だ。
医療班の先輩たちが慌ててゼーユ看護師長のもとへ駆け寄る。
「ゼーユ看護師長!」
「状況を説明してくれるかい」
その声は落ち着いていた。
焦りはない。
だからこそ、周囲も冷静さを取り戻していく。
「ま、魔法都市中心部で……!!」
息を切らしながら報告する医療班隊員。
「——アールデコ一行が魔法暴走しているのですッ!!!」
「——何……?」
ゼーユ看護師長の表情が止まる。
「「「!?」」」
僕たち三人も言葉を失った。
アールデコさん。
ついさっきまで同じテーブルで話していた。
落ち着いていて。冷静で。知的で。少し照れ屋な、あの大幹部。その人が。
魔法暴走……?
信じられなかった。
ゼーユ看護師長の瞳が静かに細められる。
その表情から、柔らかな笑みは完全に消えていた。
「……更に詳しく」
低く、静かな声。
先ほど治療を受けた組員が前へ出る。
「魔法攻撃を駆使して暴れてるんだッ!!」
声は震えていた。
「空全体が……!」
「邪悪な赤紫色の渦に覆われてる!!」
「その巨大な魔法陣から次々と魔法レーザーが降ってきて……!」
「爆発魔法!」
「雷撃魔法!」
「炎の魔法!」
「ありとあらゆる攻撃魔法が雨みたいに降り注いでるんだ!!」
その光景を思い出したのか。
組員は拳を震わせながら続ける。
「何十人……いや、何百人もの組員が病院送りになった!!」
「大幹部様方が必死に食い止めてくださっているが……!」
「皆様……!」
「誰一人、余裕なんてありませんでした!!」
「それどころか……!」
「皆様、今まで見たことがないくらい険しい表情をなさっていた!!」
その場にいた全員が息を呑む。
そして。
組員は最後に、信じられないものを見たという顔で叫んだ。
「アールデコ様の魔法能力は、一体何なんだッ!?!?」
「大幹部様方の攻撃が……!」
「まるで当たっていないように見えたんだッ!!」
ガヤガヤガヤ……!!
院内は更に騒がしくなる。
「アールデコくん……」
ゼーユ看護師長も険しい、そして——どこか、寂しい表情をしている。
一体、何が起こって——
その時。
パ ン ! ! !
「「「!!!」」」
乾いた音が病院中へ響き渡る。
そこにいた全員が、一斉に音のした方を振り向いた。
ゼーユ看護師長だった。
自分自身の頬を、思い切り叩いたのだ。
まるで、自分へ喝を入れるように。
まるで、迷いを振り払うように。
静まり返る院内。
ゼーユ看護師長はゆっくり拳を握る。
「……何を迷っているんだ」
静かな声。
けれど、その声には確かな覚悟が宿っていた。
「私が今やるべきことは、一つだろう」
深く息を吸う。
そして。
「アールデコくんを——」
一瞬だけ目を閉じる。
昔、一緒に笑った日々。
魔法を教えていた頃。
教会で過ごした時間。
孤児院で皆と笑い合った思い出。
その全てが、ほんの一瞬だけ脳裏をよぎる。
だからこそ。
ゆっくりと目を開き。
強く言い放った。
「止めに行かなくては」
その瞬間。
院内の空気が変わった。
さっきまで迷っていた看護師長ではない。
そこにいたのは。
Venom Desire医療班を率いる最高責任者だった。
ゼーユ看護師長は白衣を翻し、一歩前へ出る。
「医療班緊急レスキューチーム」
その声だけで、全員の背筋が伸びる。
「早急に魔法都市中心部へ向かう準備を」
「「「はいッ!!」」」
「大切な組員たちを……」
一瞬だけ言葉を切る。
そして、静かに。
「これ以上、傷つけさせる訳にはいかない」
「「「はいッ!!!」」」
医療班の組員たちは一斉に動き出した。
「魔法薬を運べ!」
「治療道具を全部積み込め!」
「救護班は第一部隊と第二部隊に分かれるぞ!」
「転移魔法担当は配置につけ!」
「担架も忘れるな!」
病院全体が、一つの巨大な組織として動き始める。
誰一人として無駄な動きをしない。
それだけゼーユ看護師長への信頼が厚いのだ。
そして。
「残りの子たちは、この病院へ運ばれてきた組員たちの応急処置を続けて」
ゼーユ看護師長は冷静に指示を飛ばしていく。
「私たちが現地で緊急治療を始める」
「だから、ここへ搬送される患者は、今来ている人たちで最後になるはずだ」
「「「了解しました!!」」」
誰も迷わない。
誰も戸惑わない。
医療班全員が、それぞれの役割を理解して動いていた。
そして。
「カゲエくん」
「ミライ・ユくん」
「トロンプくん」
急に名前を呼ばれ、僕たちは少し遅れて返事をする。
「「「は……はい!!」」」
ゼーユ看護師長は僕たちを真っ直ぐ見つめた。
その瞳には、強い信頼が宿っている。
「君たちにも……」
少しだけ優しく微笑む。
「手伝ってほしい」
その一言だけで、胸が熱くなった。
「アールデコくんを止めるのを」
僕は力強く頷く。
ミライ・ユくんも拳を握る。
トロンプくんも、いつもの笑顔ではなく真剣な表情だった。
僕たちは声を揃える。
「「「……もちろんです!!」」」
「僕たちに任せてください!!」
「俺たちも戦います!!」
「絶対に止めますッ!!」
ゼーユ看護師長は嬉しそうに笑った。
「……うん」
その笑顔は、いつもの優しい看護師長の笑顔だった。
「その意気だ!」
白衣がふわりと揺れる。
そして僕たちは、一斉に病院の正面玄関へ向かって走り出した。
自動ドアが勢いよく開く。
その向こうには、緊急出動用の大型救護車両が何台も並び、医療班の組員たちが慌ただしく準備を進めていた。
遠くの空は、禍々しい赤紫色に染まり始めている。
魔法都市中心部。
そこでは今もなお、大幹部アールデコによる魔法暴走が続いていた。
そして。病院の前。
緊急出動用の広場には、すでに医療班の組員たちが整列していた。
誰もが真剣な表情を浮かべている。
先ほどまで院内に響いていた慌ただしい足音も、今は止んでいた。
代わりに聞こえるのは、風が白衣を揺らす音だけ。
ゼーユ看護師長は全員をゆっくり見渡した。
一人ひとりの顔を確認するように。
そして静かに口を開く。
「皆……」
「転移魔法で現場へ向かうよ」
その穏やかな声に、皆が背筋を伸ばえる。
「忘れ物はないかい?」
薬品。魔法薬。治療器具。魔法結晶。武器。
誰もが最後の確認を済ませる。
「「「はいッ!!」」」
力強い返事が一斉に響いた。
ゼーユ看護師長は小さく頷く。
「よし」
「では、転移魔法を開始する」
その一言だけで空気が張り詰めた。
「……転移魔法まで」
僕は思わず息を呑む。
ゼーユ看護師長は片手を静かに前へ突き出した。
すると。
ブワアアアアアッ……!!
巨大な魔法陣が僕たち全員の足元へ展開される。
何重にも重なった青白い魔法陣。
無数の魔法文字が回転し始める。
神秘的な光が辺り一面を照らし、地面が小さく震えた。
何度見ても圧巻だ。
これほど巨大な転移魔法を、しかも一人で発動できる人なんて、この世界でもそうはいないだろう
ゼーユ看護師長は静かに数え始めた。
「五……」
空気が震える。
「四……」
魔法陣の光がさらに強くなる。
ゴクリ。思わず唾を飲み込んだ。
「三……」
横を見る。
ミライ・ユくんが小さく拳を握っていた。
額にはうっすらと汗が浮かんでいる。
あれだけ堂々としている彼でも、緊張しているのだ。
その隣では。
トロンプくんがいつもの笑顔を消し、真っ直ぐ前だけを見つめていた。
ふざける様子は一切ない。
戦場へ向かう覚悟を決めた顔だった。
「二……」
僕も拳を握る。
鼓動がどんどん速くなる。
怖い。
正直、とても怖い。
でも。ここで逃げるわけにはいかない。
病院には傷ついた仲間がいた。
街では今も組員たちが戦っている。
兄さんが守ろうとしたVenom Desire。
僕も、その一員として。
「一……ッ」
大きく息を吸う。
そして、心の中で強く誓った。
組員を。怪我人を。街を。
必ず救うんだ。
次の瞬間だった。
ビュンッッ!!!
凄まじい光が視界を埋め尽くす。
世界が白く染まり。
身体がふわりと浮く感覚。
耳元では風が轟音を立てて吹き抜けていく。
一瞬だけ重力が消えたような、不思議な感覚。
そして。
景色が一変した。
僕たちは魔法都市中心部へ転移した。
そこは——。
「なんだ……これはッ……!」
言葉を失った。
そこに広がっていたのは。
まるで別世界だった。
さっきまで病院で笑い合っていた街とは思えない。
まるで。
地獄の断片を、そのまま切り取ってきたかのような光景。
空は禍々しい赤紫色。
巨大な暗雲が渦を巻き、雷鳴が絶え間なく轟いている。
空気そのものが重たい。
息を吸うだけで胸が苦しくなる。
街中では建物が崩れ。
道路はひび割れ。
ガラスは砕け散り。
炎があちこちで燃え上がっていた。
「逃げろーーッ!!」
「こっちだ!!」
「子どもを先に!!」
人々の悲鳴。怒号。泣き声。助けを呼ぶ声。
街中が恐怖に包まれている。
そして。
視線の先。
遥か上空に。
赤黒い巨大な魔法陣が幾重にも重なりながら空を覆っていた。
その大きさは、一つの建物など比較にならない。
まるで空そのものが魔法陣へと変わってしまったようだった。
魔法陣がゆっくりと回転するたび。
無数の攻撃魔法が解き放たれる。
ドォォォォォン!!
毒魔法。
バチバチッ!!
雷魔法。
ゴオオオオオ!!
炎魔法。
ザァァァァァッ!!
水魔法。
ガガガガガッ!!
氷魔法。
そして。
ギュイイイイイイン!!
何本もの極太レーザーが地面を薙ぎ払う。
爆発。
衝撃波。
轟音。
次々と放たれる魔法の嵐に、Venom Desireの組員たちは必死に立ち向かっていた。
「防御魔法ッ!!」
「くそっ!!」
「回復班ッ!!負傷者を後方へ!!」
「まだ倒れるなァ!!」
しかし。
攻撃の規模が桁違いだった。
一撃防ぐだけで吹き飛ばされる。
倒れる組員。血を流す組員。担架へ運ばれていく仲間。医療班が必死に治療を続けても追いつかない。
前線では。
先ほどまで笑顔で自己紹介をしていた大幹部たちの姿が見えた。
巨大な魔法を相手に、それぞれが全力で応戦している。
モノクロームさん。
グラデーションさん。
コントラストニュアンスさん。
テンペラテクスチャーさん。
誰もが持てる力の全てをぶつけていた。
だが。
誰一人として押し返せていない。
それどころか。
少しずつ、少しずつ押し込まれている。
「そんな……」
僕は思わず息を呑んだ。
あれほど強い人たちが。
Venom Desire最強の大幹部たちが。
苦戦している。
どれほど恐ろしい相手なんだ。
そして。
巨大な魔法陣の中心。
まるで世界の中心に立つように。
一人の男が静かに立っていた。
無数の魔法陣を従え。
赤紫色の空を背負い。
その姿だけが、不気味なほど静かだった。
「——アール……デコくん」
ゼーユ看護師長が、苦しそうにその名前を呼ぶ。
その声には。
怒りでも。
憎しみでもない。
長年ともに歩んできた仲間を見つめる、どうしようもない悲しみだけが滲んでいた。
「ゼーユ看護師長!!」
僕は思わず叫んだ。
戦場に響く爆発音にも負けないほどの大声だった。
ゼーユ看護師長がゆっくりとこちらを振り向く。
ミライ・ユくんも。トロンプくんも。
近くで負傷者の治療をしていた医療班の人たちまでもが、一斉に僕の方を見た。
僕は震える声で尋ねる。
「アールデコさんの……!」
喉がひどく乾く。
それでも、聞かなければならなかった。
「魔法能力は……!」
「一体、何なんですかッ!!?」
戦場に静寂が訪れる。
遠くでは今も爆発が続いている。
悲鳴も聞こえる。
それなのに、この場だけ時間が止まったようだった。
ゼーユ看護師長は赤紫色の空を見上げる。
その視線の先には。
巨大な魔法陣の中心で、静かに立つアールデコさんの姿があった。
長い沈黙。
苦しそうに息を吐いたあと。
ゼーユ看護師長は静かに口を開く。
「……アールデコくんの魔法能力は」
「《アール・ワールド・デコ》」
初めて聞く能力名だった。
けれど、その響きだけで胸騒ぎがした。
ゼーユ看護師長は続ける。
「その能力は——」
一拍。
「世界の結末を」
また一拍。
「自分が美しいと思った展開へ」
そして。
「強制的に変換する」
…………。
誰も、言葉を発さなかった。
理解が追いつかない。
いや。
理解したくなかった。
世界の……結末?
変換?
そんな。そんなことができる魔法なんて。
存在していいはずがない。
「え……」
僕の口から、情けない声が漏れる。
ミライ・ユくんも目を見開いたまま固まっていた。
「世界を……」
「好きな結末に変える……?」
信じられない、と呟く。
トロンプくんも笑顔を失っていた。
手に持っていた帽子を、ぎゅっと握り締めている。
「そんなの……」
「どうやって勝つんだよ……」
近くにいた組員が震えた声を漏らした。
「努力しても……」
「作戦を立てても……」
「最後には全部書き換えられるってこと……?」
「そんなの……」
一人が呟く。
その言葉は、まるで全員の心を代弁していた。
誰かが勝つ未来を掴もうとしても。
誰かを救おうとしても。
命懸けで戦ったとしても。
世界そのものが。
「彼にとって美しい結末」へと塗り替えられてしまう。
そんなもの。
どう足掻けばいい。
どう抗えばいい。
どうやって勝てというんだ。
前線で戦っている大幹部たちも。
その能力を知っているからこそ、険しい表情を浮かべていた。
焦り。
恐怖。
困惑。
絶望。
誰もが、同じ感情を胸に抱いている。
一瞬、信じられなかった。
その答えを聞いた全員が。
絶望した。
誰もが。
勝利を諦めた。
ゼーユ看護師長は、悲しそうに目を伏せる。
そして。
震えるような小さな声で、最後にこう告げた。
「——この世で最強の魔法能力なんだ」




