第十七章 終焉を歌うエレジー
だからこそ。
私は——アールデコくんを、差し出すことなんてできなかった。
彼は、私にとって。
ただのVenom Desireの大幹部ではない。
ずっと昔から知っている、大切な、大切な子どものような存在だった。
出会った頃の彼は、誰よりも負けず嫌いで。
誰よりも喧嘩っ早くて。
教会の庭では、いつもカクシエくんと張り合っていた。
「おいカクシエッ! 今日こそ俺の方が魔法覚えるの早いからな!!」
「またそんなこと言って……。負けないからね」
二人は顔を真っ赤にしながら競い合い。
勝った、負けたと大騒ぎして。
私はそんな二人を見て、
「はいはい、ケンカはそこまで」
なんて笑いながら止めに入っていた。
懐かしい。本当に、懐かしい。
あの頃は毎日が平和で。
皆が笑っていて。
未来なんて、きっと明るいものだと信じていた。
そんな子どもたちが。
犯罪に苦しむ人々を救いたいと願い。
教会を守りたいと願い。
世界を少しでも優しくしたいと願って。
立ち上げた組織。
——Venom Desire。
あれから、本当に大きくなった。
最初は七人。
教会の小さな部屋で未来を語り合っていた少年少女たちが。
一人。
また一人と仲間を増やし。
少しずつ信頼を集め。
街を守り。
人を救い。
悪と戦い続けた。
そして気付けば。
世界中に名を轟かせる巨大組織へと成長していた。
誰もが憧れる存在。
誰もが知る名前。
五万人を超える構成員。
誰も想像していなかったほどの成功だった。
私は、嬉しかった。
本当に。
心の底から嬉しかった。
「みんな……本当に立派になったね」
そう、何度思ったことだろう。
でも。
組織が大きくなればなるほど。
少しずつ、少しずつ。
歯車は狂い始めていった。
人数が増えすぎた。
増えすぎてしまった。
最初の頃は。
新しい仲間が入るたびに。
カクシエくん自身が、一人ひとり面接をしていた。
「この人なら大丈夫」
「この人なら任せられる」
そうやって、自分の目で確かめていた。
だけど。
人数が何百人。
何千人。
何万人と増えていくにつれ。
それは現実的ではなくなった。
採用は別の担当へ。
教育も別の担当へ。
管理も、また別の担当へ。
仕方のないことだった。
巨大組織になるということは。
そういうことなのだから。
だが。
その『仕方のないこと』が。
少しずつ、組織を蝕んでいった。
下っ端組員による暴行事件。縄張り争い。勝手な私刑。規律違反。市民から寄せられる苦情。私の元へ運ばれてくる負傷者たち。
毎日のように増えていく。
今日も。
明日も。
また明日も。
私は病室で傷を癒やしながら。
何度も思った。
「……違う」
「こんなの、違う」
これは。
私たちが目指したVenom Desireじゃない。
犯罪を止めるための組織だった。
人を救うための組織だった。
恐れられるためじゃない。
力を振りかざすためじゃない。
なのに。
いつの間にか。
巨大すぎる力は。
自分たち自身を制御できなくなっていた。
もう。
あの頃のVenom Desireじゃない。
あの小さな教会で笑い合っていた七人の夢は。
少しずつ、形を変えてしまった。
だから。
アールデコくんは決断したんだ。
全部。
終わらせよう、と。
この巨大組織そのものを。
壊してしまおう、と。
その考え方を。
私は決して肯定できない。
だけど。
理解だけは、できてしまった。
誰よりも昔を知っているから。
誰よりも彼らを知っているから。
だからこそ。
私は。
あの会議で。
彼が素直に。
「ごめんなさい」
そう一言だけ言ってくれたなら。
全部終わったあとに。
「よく苦しかったね」
そう言って。
抱き締めてあげたかった。
叱って。
泣いて。
そして。
もう一度、一緒に歩き直したかった。
そんな未来を。
心のどこかで願っていた。
だけど。
現実は。
物語みたいにはいかなかった。
教会の砂糖菓子みたいに甘くも。
優しくも。
都合よくも、なかった。
アールデコくん……。
私は。
私は……。
君を。
救ってあげられなかった。
医療班の長なのに。
命を救うことを仕事にしている私が。
一番救いたかった子を。
救えなかった。
胸の奥が締め付けられる。
あの日。
教会で笑っていた少年たちの姿が。
今でも鮮明に思い浮かぶ。
——カクシエくん。
私……。
私は、一体。
どうすれば……良かったのかな。
「あれ……?」
ふと後ろを振り返った僕は、小さく首をかしげた。
「ゼーユ看護師長……寝てるーー?」
そう呟く。すると。
「あ、ほんとだー!」
トロンプくんも、
「ゼーユ看護師長、寝てる~!」
と、少し嬉しそうに笑った。
後部座席では。
白衣を軽く羽織ったままのゼーユ看護師長が、窓にもたれかかるようにして静かな寝息を立てていた。
すぅ……。
すぅ……。
規則正しい呼吸。
普段はいつも余裕たっぷりで、どんな重傷患者が運ばれてきても慌てることなく治療を続けるゼーユ看護師長。
あんなに頼もしい人が。
今はまるで子どもみたいに安心しきった表情で眠っている。
長いまつ毛がゆっくり揺れ、車の振動に合わせて、茶色の髪がさらりと肩へ流れた。
いつもより、ずっと幼く見える。
「……かわいい」
思わずそんな言葉が口から漏れそうになってしまう。
そのくらい穏やかな寝顔だった。
すると。
「おお~!」
ハンドルを握るミライ・ユくんが、どこか誇らしげに胸を張った。
「俺の運転があまりにも心地よかったおかげだなっ!」
どやあっ!
と言わんばかりの満面の笑み。
「いやいや!」
トロンプくんがすかさずツッコミを入れた。
「普通に激務で疲れてるんじゃなーい?」
「あ」
確かに。
最近のゼーユ看護師長は、本当に忙しそうだった。
戦争患者の治療。負傷者の対応。医療班全体の管理。
さらには今回の大会議の準備まで。
休む暇なんて、ほとんどなかったはずだ。
「でもさあ」
僕はふと思い出す。
「ゼーユ看護師長って、『寝なくても大丈夫になる超上級魔法』を習得してるんだよね?」
「あ!」
トロンプくんも思い出したように目を丸くする。
「そうだった!」
「じゃあ疲れて寝ちゃったってことじゃなくない?」
三人で顔を見合わせる。
「……」
一秒。
二秒。
三秒。
そして。
「やっぱり!」
僕は笑いながら結論を出した。
「ミライ・ユくんの運転が心地よかったんじゃないかなあ!」
「だろーーっ!?」
ミライ・ユくんは思わずガッツポーズ。
「ほら見ろっ!」
「俺の運転技術も捨てたもんじゃねえだろ!」
「はいはい、自慢始まったー!」
トロンプくんが肩をすくめる。
「でも実際、ミライ・ユくんって運転めっちゃ上手だよね!」
僕も素直に頷いた。
「急ブレーキとか全然しないし!」
「カーブも全然揺れない!」
「駐車も毎回一発で決めるし!」
「へへっ」
珍しく素直に褒められて照れたのか。
ミライ・ユくんは少しだけ口元を緩めながら、
「ま、仕事だからな」
と、照れ隠しのように前を向いた。
だけど。
耳だけは、ほんのり赤くなっている。
「あっ!」
トロンプくんがニヤニヤしながら指を差す。
「ミライ・ユくん照れてる~!」
「う、うるせえっ!」
「照れてねえ!」
「耳真っ赤だよ~!」
「違うっ!暑いだけだ!」
「え~?車エアコン効いてるけど~?」
「あはははは!」
「ははは!」
三人の笑い声が車内いっぱいに響く。
その賑やかな声を聞いても。
ゼーユ看護師長は目を覚ますことなく、穏やかな寝息を立て続けていた。
きっと。
この三人と一緒なら大丈夫。
そんな安心感があるからこそ。
誰よりも警戒心が強く、誰よりも責任感のあるゼーユ看護師長も。
ほんの少しだけ肩の力を抜いて、眠ることができたのかもしれない。
窓の外では、夕焼け色に染まった街並みがゆっくりと流れていく。
その穏やかな景色と同じように。
車の中には、優しく温かな笑い声がいつまでも響いていた。
——その頃。
夕焼け色に染まる空を、一羽の黒い影が静かに飛んでいた。
バサッ。
バサッ。
漆黒の翼を大きく広げながら。
街の上空を滑空する、一匹のカラス。
その瞳は獲物を狙う猛禽のように鋭く。
一定の距離を保ちながら、ある一台の車だけを見失わないよう追い続けていた。
黒い車。
その中には。カゲエ。ミライ・ユ。トロンプルイユ。
そして——ゼーユさん。
四人を乗せた車が、夕暮れの道路をゆっくりと走っていく。
しかし。
それは偶然の追跡ではない。
そのカラスには、目としての役割があった。
見たもの。聞いたもの。感じたもの。そのすべてを。
遠く離れた場所にいるある人物へ送り続けていた。
◇
薄暗い一室。
窓から差し込む夕日だけが、静かに床を赤く照らしている。
その部屋の中央で。
一人の男が、椅子に深く腰掛けていた。
視線はまっすぐ前へ。
だが、その瞳が映しているのは、この部屋ではない。
カラスの視界。
まるで自分が空を飛んでいるかのように。
その景色を静かに見つめていた。
——アールデコ。
彼は腕を組みながら、何も言わず映像を眺め続ける。
すると。
車内から楽しそうな声が聞こえてきた。
《あははははっ!!》
《ミライ・ユくん耳真っ赤~!》
《照れてねえって!!》
《いやいや絶対照れてるってぇ!》
《ははははは!!》
子どもみたいな笑い声。
車内いっぱいに広がる、穏やかな空気。
その光景を見て。
アールデコは小さく鼻で笑う。
「……はは」
本当に。
あいつらは変わらない。
どんな修羅場を潜ってきても。
あんな会議があったばかりだというのに。
もう笑ってやがる。能天気なのか。
それとも。
強いのか。
その答えは、まだ分からない。
しかし。
その笑い声の中に。
一人だけ。
聞こえない声があった。
ゼーユさん。
いつもなら誰よりも楽しそうに笑っているはずの男の声が。
今日は、一度も聞こえない。
画面の中では。
白衣の男が後部座席にもたれかかり、静かな寝息を立てている。
すぅ……。
すぅ……。
本当に眠っているように見える。
その寝顔は穏やかで。
警戒心など微塵も感じられない。
だが。
アールデコは、その姿をじっと見つめたまま。
ゆっくりと口を開いた。
「……」
静かな部屋に。
低い声だけが響く。
「ゼーユさん……」
昔から知っている。
誰よりも冷静で。
誰よりも頭が切れて。
誰よりも人の心を見抜く男。
あの人が。
本当に何も知らずに眠っているとは。
どうしても思えなかった。
アールデコは椅子の背にもたれ、静かに目を細める。
そして。
誰に聞かせるでもなく。
ぽつりと呟いた。
「——気づいてるな?」




