第7話 許婚、そして設定の悪夢へ
次の日の早朝、俺は鍛錬場へ向かっていた。
本当は書庫に行くつもりだったのだが――阿京に止められた。
「本当に困った時はいくらでも教えるわ。
でも、そうでないなら……今、一番自分が必要だと思うことに目を向けて」
そう言われてしまえば、もう逆らえない。
無精に「はいはい」と承知した顔をしていたら、
「……私だって、会いたいのよ?」
阿京が小さく呟いた。
……はい、かわいい。
その流れで、武芸の鍛錬が終わった後に一緒に遊ぶ約束までしてくれた。
……早速、尻に敷かれている気がする。
でも、それが逆に心地よい幸福感を与えてくれた。
早朝の鍛錬では、前回は集中できなかった剣を振るった。
この世界では弓・槍・矛といった射程の長い武器が主流だ。
剣はサブウェポンに近いが、扱えて損はない。
それに――男はいくつになっても剣が好きだ。
とはいえ、使うのは片手剣。
盾で急所を守りながら斬りつけるのが基本になる。
俺はしばらく、今度こそ“本当の無心”で剣を振り続けた。
昨日のように頭が空っぽではなく、
ただ、目の前の動きだけに集中する。
呼吸が整い、足の運びが安定し、
狙った箇所に刃が吸い込まれるように届く。
――ブレずに斬れる。
精度が上がった気がする。
よし、これでスキルが上がったと思う。
鍛錬後の朝食では、親父が神妙な顔で皆に告げた。
龍紅が隣で静かに聞いている。
「流民を受け入れる数を増やす。
塢壁内にはまだ余裕があるが、いずれ足りなくなる。
外郭も新築し、そこに住まわせる。
……今の千人規模から、とりあえず二千人まで増やす」
二千人。
数字の重みが、食卓の空気を一気に引き締めた。
龍紅が補足するように口を開く。
「食料の備蓄にそれほど余裕があるわけではないが、
共倒れになるようなことにはしないと約束しよう。
生き残るためには、勢力を拡大する必要があると判断した」
先日の重鎮たちとの話し合いと宴会は、この件だったのか。
塢主と次期塢主が決めたこと――つまり、これは“決定事項の告知”だ。
しかし、流民か……
治安が気になるなぁ……
阿京は大丈夫かな……
俺の不安を察したのか、龍紅が静かに言った。
「気を抜いてよいとは言わないが、
流民が暮らすのは内壁の外側だ。監視も強化する。
阿刀の心配するようにはさせないよ」
ほんと……よく見てるよな、兄貴は。
そういえば、次期塢主って龍紅なんだよな……
神様に“世界を救う条件”を聞いてなかったけど、
龍紅を盛り立てて達成、でもいいのかな。
今度、話せる機会があったら聞いてみよう。
……駄目って言われても困るんだけどね。
そんな考え事をしていると、親父からもう一つ告知があった。
「勢力を拡大させるにあたり、第二夫人を娶る。
第一夫人・麋寧の妹、麋崔だ。
二千人規模になった頃には、もう一人だな。
流民の中で取りまとめる者が出てくるだろうから、
その長となった娘と婚姻を結ぶ予定だ」
あー……そうだよ。
流民の娘と結婚することで結束力を高めて、
“お前らも家族だぞ”を示して団結力を上げるやつ。
ていうか、俺が設定してたよ!
親父に媵と妾を持たせて、
腹違いの弟妹が増える予定だったんだよ!
……完全に忘れてたけど!
麋寧が静かに口を開いた。
「麋崔は私の妹です。
私が嫁ぐ際に一緒に連れてきた、年の離れた妹。
そろそろ子を産める年齢になりましたので、主人に勧めました。
あなた達は何度も会っているから、説明は不要ですね」
龍紅と阿玲がうなずく。
そして――
一番詳しい設定を作ったはずなのに忘れていた俺は、うなずけない。
……いや、実際こっちに来てから会ったことないんだよな。
ちなみに阿玲は、あの晩以降、
俺が親父や母上に「阿玲とご飯が食べたい!」と
子どもみたいに駄々をこね続けた結果、
最近は一緒に食事をする機会が増えた。
食事の後は、以前の“好感度減少事件”の時に交わした約束を果たすため、
阿玲と琴や楽器の練習をした。
その合間に、阿玲がぽつりと話しかけてきた。
「二兄って琴も上手だよね。普段あんまりやらないのに」
あー……言われてみればそうか?
まぁ、設定で能力はチートみたいなもんだからな。
その辺が関係しているのだろう。
「まぁでも、俺は阿玲の琴の音色好きだぞ。俺より上手だし」
「ありがとう、二兄。
琴の練習だけでよければ楽なんだけどねぇ……」
あー……そっか。
家計、裁縫、礼法……
豪族の長女は“家の顔”としての教育が全部必要なんだよな。
「二千人規模かぁ……その頃には、
私は同郡の勢力の誰かに嫁入りかなぁ?」
阿玲は、琴を弾きながら少し寂しそうに笑った。
「いやー、規模を増やすのにそこまで時間はかけないと思うぞ。
阿玲……今が十一歳だから……もうちょっと先になるんじゃないか?」
「その頃には、もうちょっと落ち着いているといいね……」
そうだな……
とは言いつつ、俺は知っている。
**この世界は滅亡に向かっている。**
良くなるどころか、
戦乱になれば明日の糧すら保証されない時代だ。
阿玲が嫁いだ先で、
戦火に巻き込まれる姿を想像してしまい――
胸が痛くなった。
気づけば、俺は演奏の手を止めていた。
琴を弾いていた阿玲の頭に、そっと手を置く。
「……心配するな。
阿玲は、二兄が守ってやる。
お前が嫁いだ先で何かあったら、駆けつけてやる」
阿玲は驚いたように目を瞬かせたあと、嬉しそうに笑った。
経典の授業は、今日も仁章だった。
どうも親父は仁章に重きを置いているらしい。
武章が好きそうだと思っていたから意外だった。
今日の授業では、知識や教養が上がったという実感はなかったが、
経験は確かに積み重なっている。
焦らず続けるしかないだろう。
午後は馬術を重点的に鍛錬した。
先日の夕陽を見た時の気持ちと、
さっき阿玲に「駆け付ける」と言った自分の言葉が、
妙に胸の奥を熱くしていた。
結果、馬上での安定感が増し、
こちらはスキルが上がった感覚があった。
試しに馬上から槍を振るってみると、
前よりも体がぶれず、狙いも定まっていた。
そして鍛錬の後は、お待ちかねの阿京との時間だった。
遊んだ内容は、囲碁に似た盤上遊戯。
勝敗は六対四で俺の負け越し。
……悔しいけど、楽しかった。
その後、勢力拡大について阿京の考えを聞いてみた。
「二千人ですか……」
阿京は小さく呟き、少し考えてから続けた。
「木が高ければ風に折られやすいのと同じで、
守るために増やした勢力が、
逆に外敵を引き寄せる要因にもなりえます。
人が増えれば当然、統治も難しくなりますし……
阿刀の父上である明公なら、
考えた上でのご決断だと思いますが……」
阿京は、ほんの少しだけ不安そうな顔を見せた。
あぁ……
この不安を払拭できる力は、今の俺にはないんだよな……
そう思うと、胸の奥が少し悔しくなる。
そんな俺の表情を見たのか、
阿京はふっと微笑んだ。
「あなたは、まだまだこれからです。
若木は水と肥を糧にして、
やがて大樹になればいい。
そして――あなたにはその器があると、私は信じています。阿刀」
その言葉は、
胸の奥に静かに、でも確かに灯をともした。
夕食では、親父がまた報告があると言った。
親父は俺に顔を向けて、はっきりと言った。
「師君の娘と阿刀は、許婚になる」
えっ……?
驚きすぎて声が出なかった。
親父は続ける。
「師君と今日、話をしてな。無事に決まった」
つまり――
親同士が認めた。
正式な婚約者。
許嫁。
阿父……!
ありがとうございます!
思わず叫んでしまった。
親父は笑いながら、
「嬉しそうな顔をしおったわ」
とからかってきたが、そんなの一切気にならなかった。
心臓が激しく鼓動して、
嬉しさでどうにかなりそうだった。
龍紅が「おめでとう」と言ってくれた。
「ありがとうございます、推兄」
「先を越されてしまったな」と龍紅が言うので、
俺が少し不安そうな顔をすると、
親父がすぐに言った。
「冗談は寄せ。阿推も決まっているだろう。
そもそも、阿推が決まるから問題ないという判断だ」
なんだ……そうだったのか。
いや、まぁそうだよね。だって俺が設定したんだし。
龍紅の嫁……
と考えたところで、ふと――
**凄く大事なことを忘れている気がした。**
次の日、書庫に行って阿京に会いに行った。
どうしても許婚のことを話したかった。
……
しかし、そこには――
辛そうに倒れている阿京の姿があった。
全身の血液が、一瞬で冷たくなる。
「阿京……!!」
倒れた阿京を抱きかかえた瞬間、
腕輪がじり、と熱を帯びた。
その熱が、脳の奥に直接触れたように――
“設定”が一気に流れ込んでくる。
繊細で優しい。
芯があって賢く、利発な少女。
父を深く尊敬し、
阿刀が大好き。
阿刀の婚約者。
そして――
十四歳で、生を終える。
その一文が、胸の奥に鋭く突き刺さった。
「……え……?」
許婚になったばかりの相手が、
未来を語り合ったばかりの相手が、
今、俺の腕の中で苦しそうに息をしていた。




