第52話 襲来、そして黒風の吹走へ(後)
虞業は龍紅を罠に嵌め、追い詰めたはずの自分が、
その弟に追い回される恐怖に怯えていた。
「将を武器ごと真っ二つにするなど……化け物ではないか……!」
泥を啜り、身を隠しながら夜を過ごし逃亡する。
闇の中で微睡むたび、夢に見るのは――
龍紅が真紅の血の海の中で見せた、鬼神のごとき強さ。
そして龍輝の漆黒の騎兵が、七千の軍を蹂躙した光景。
その悪夢に、虞業は幾度となく悲鳴を上げて飛び起きた。
俺は虞業との距離を、常に一定に保ちながら執拗に追い続けた。
それは、虞業の心に「逃げ切れる」という希望を与え――
最後の瞬間に叩き潰し、完全に心を折るための策であった。
やがて、虞業の視界に己の本拠である城門が映った。
「やっと……やっと帰れる!
兵を立て直し、今度こそあの“文弱”に痛い目を見せてやる!
まずは英気を養わねば……!」
酒と肉で身体を癒し、
軍を再編し、今度こそ龍家の土地を我が物にするのだ。
安堵と反撃の妄執が脳裏をよぎった、その時。
俺の率いる騎馬隊が、城門前を封鎖し――
虞業を包囲した。
希望が絶望へと変わり、虞業の心が砕け散る。
「な……あ、あ、ああ……っ!」
虞業はがくりと項垂れ、その場に膝をついた。
俺は捕らえた虞業に降伏の書状を書かせ、
使者を出して城へ届けさせた。
一昼夜の後、城門が開かれ、
俺は一戦も交えず南部の本拠を制圧した。
城に入ると、内部には争いの跡が刻まれていた。
主君・虞業の投降を「主の命」として受け入れる投降派と、
「将は外に在りて、君命を受けざる所あり」と徹底抗戦を主張する派閥とで、
意見が割れたようだ。
だが俺の騎兵によって、虞業の精鋭はすでに殲滅されていた。
徹底抗戦派はほとんど残っておらず、保身を第一とする投降派によって
すでに粛清されていた。
俺は平伏する投降派の臣従を、どうでもいい気持ちで許した。
そして虞業を引きずり出させ、見下ろして睨みつける。
「……仁慧兄上の亡骸はどこへやった?」
虞業は歯を鳴らし、震えながら答えた。
「ひ、ひいぃ……! 田唐が……田唐が持ち帰らせたはずです。
龍家との“交渉”に使えるかもしれぬと……!
く、腐らぬよう……し、塩漬けにして保管しているはずです……!」
俺だけではなかった。
その場にいる龍家の家臣と兵たち全員の殺気が、虞業へと向けられた。
「……交渉……塩漬け、だと?」
この時代の倫理なのか、虞業が腐っているだけなのか――
俺の頭の中は激しい怒りで覆われ、視界が真っ赤に染まる。
握りしめた拳から血が滴った。
怒声を堪えることなど、もはやできなかった。
「すぐに兄上を瑛南へ届けさせよ!
妻と子が待つ故郷へ、必ず連れ戻すのだ!」
俺が兵に命じていると、虞業が泣き叫んだ。
額を床に幾度も打ちつけ、涙と鼻水にまみれて平伏する。
「ど、どうか……命だけはお助けください!
降りまする! 臣の末席に加えていただければ、
龍家のために犬馬の労を惜しみませぬ! 何卒……何卒!」
「……臣の末席……?」
俺は「ふざけるな」と叫びそうになる気持ちを必死に抑えた。
兄上を殺された“私怨”と、
虞業が犯した“罪”を、一つひとつ切り分ける。
毒と謀略――卑劣ではあるが、戦時の策略としては手段の一つだ。
兄上と俺も、火攻めや水攻めで城を落としたことがある。
だが……。
死者の尊厳を冒涜し、あまつさえ交渉の道具に成り下げた。
集落を攻め落とした後、兵の略奪を認め、民を蹂躙した。
国を顧みず、己の命を最優先にした。
俺は深く息を吸い、ゆっくりと“宣告”した。
「戦場での討ち死には、戦陣の習いである」
虞業の顔が一瞬、綻ぶ。
「だが――貴様のしたことは、
統治者としても、一介の将としても、あまりにも愚物だ」
「貴様のような卑劣漢、龍家には不要だ。
貴様の死をもって、南部が龍家の版図に加わったこと、
天下に知らしめる。
もはや一秒たりとも、その醜き面を見たくない……ひったてろ!」
虞業は悪鬼のような悲鳴を上げ、地面を掻き毟った。
「お慈悲を! 何卒、何卒お助けを――ッ!」
俺は、親父の後詰めの将兵が城内へ入場するのを見届け、
その後の統治と戦後処理を一任した。
南部の他諸勢力に対しては、虞業の死を伝え、降伏を迫る使者を送った。
「逆らうのであれば、龍家が武威をもって、族滅してくれよう」
虞業という大黒柱を失った南部は、いずれも恭順を受け入れた。
瑛南へ戻る途中、俺は淡々と兵に命じた。
「田達の処遇だが……もはや用はない。斬っておけ」
俺は瑛南に着くと、兄上の妻・揚迪と共に
兄上の亡骸と対面を果たした。
揚迪は膝から崩れ落ち、兄上の首を抱きしめた。
いつも泰然自若としている彼女が、我を忘れて声を張り上げる。
「あぁ……! あぁ……!
夫君、かようなお姿に……
さぞ、無念だったでしょう……!」
俺も、変わり果てたその姿を目の当たりにした瞬間、
これまで悲しむ暇もなく張り詰めていた理性が決壊した。
喉が枯れ、裂けるほどの叫びが響き渡り、
瞳から堪えていたすべてが涙となって溢れ出す。
「……あ、あ、あああああ……っ!」
幼き頃より、厳しくも優しく自分を導いてくれた、
唯一無二の、尊敬すべき兄。
兄上……卑劣な奸計に、どれほど悔しかったことか……!
妻と子を残し、どれほど心残りだったことか……!
この胸を焼き尽くす深い慟哭は、
いつまでも涙となって溢れ出し、止めることができなかった。




