第50話 襲来、そして黒風の吹走へ(前)
俺は、命を懸けて玄綏まで戻った兵から、
龍紅のあまりに凄絶な最期を聞かされた瞬間、
頭の中が真っ白に染まり、思考が停止した。
それでも、喉の奥から無理やり声を絞り出す。
「……誰か。この兵を、手厚く弔ってやってくれ」
「……父上と、瑛南の縁牛将軍に、兄の死を伝える使者を出せ」
その言葉に意思は宿っていなかった。
虚ろな表情のまま、瞳の奥は沈み、
ただ反射だけで口だけが動いていた。
龍紅が死んだ……? そんな無残な最期で?
何で……? 妻の揚迪はどうなる?
子供は? 阿及は? 阿路は?
第二夫人だって“設定”している。
その子供は……? もう産まれてこない?
死ぬと“設定”したら死ぬのに、
未来は……保証されない?
違う……何を考えて……考えが、まとまらない。
龍紅……兄上……。
この時になって、初めて気付いた。
俺は心の中で、いつも“龍紅”と呼んでいた。
それはどこか、龍輝蒼賡としてではなく、
現代人・蒼谷龍輝が“設定したキャラ”に対する呼び方だった。
でも――違った。
龍紅は……いや、仁慧兄上は、
俺の、たった一人の兄上だったのだ。
優しくて、俺のことを見てくれて、
親父から庇ってくれて、前に立って道を示してくれた。
かけがえのない兄だった。
そんな兄が……亡くなった……。
どれくらいの時間が経っていただろうか。
茫然自失となっていた俺の視界に、ゆっくりと色が戻りはじめる。
そうだ……亡骸だ。兄上のご遺体を、
この地に取り戻さなくては。
血が滲むほど親指を握りしめ、強引に思考をまとめようとした――
その時。
新たな使者が、転がり込むように駆け込んできた。
「申し上げます! 虞業が南部の兵をまとめ、
攻め込んで参りました!
その数、およそ六千から七千!
境に位置する集落の豪族どもは、多勢に無勢で砦を放棄し、
北へ逃れております!」
「虞業は、龍紅様を討ち取ったと喧伝しております!」
「申し上げます! 虞業の軍は、逃げ遅れた集落の民たちに対し、
略奪の限りを尽くし、勢いのまま次の集落を飲み込まんと
北上を続けております!」
俺は歯ぎしりをした。
これほど人が憎いと思ったのは、この世界に来て初めてだった。
「虞業……!」
「出陣だ! 歩兵では間に合わぬ。
騎兵のみで良い!
残る将兵は瑛南の縁牛と連携し、
北方に睨みを効かせ、守りを固めよ!」
「親父に伝令を出せ!
三千の騎馬にて虞業を迎え撃つ!
父上には、出せる限りの兵を率い、
後詰として我らの背を支えていただきたい!」
「全騎兵三千、直ちに出陣の支度をせよ!
龍家に仇なす賊を――殲滅する!」
騎兵の機動力を極限まで高めた、鉄よりも軽く矢を弾く
漆黒の漆塗り紙甲。
馬の面輪にも幾層もの和紙を漆で固めた、同じく漆黒の馬面。
馬上から両手を自由に操り、大地に立つが如き安定で
刃を振るうことを可能とした両あぶみ。
塩と大豆で筋骨を限界まで鍛え上げられた名馬。
――黒鋼驍騎と呼ばれる部隊の、これが初陣だった。
紙甲の軽快さと、塩大豆で培われた持久力を兼ね備えた騎兵団は、
黒き風のごとき速さで大地を駆け抜け、
北上の集落より逃れてきた豪族らと合流を果たした。
豪族たちの間から、感嘆の声が上がる。
「龍輝様が助けに来て下さったぞ!」
「何という速さだ……!」
豪族の頭領が前に進み出る。
「龍輝様! 申し訳ございませぬ、砦を守りきれず……!
境に位置する我らが、不甲斐ないばかりに……!」
「気にするな。本家が不甲斐なく、苦労をかけた。」
豪族の頭領が、恐る恐る問いかけた。
「龍輝様……虞業の奴らが、龍紅様を討ち取ったなどと
妄言を吐き散らしておるのですが……本当なのでしょうか?」
俺は一瞬だけ逡巡し、平静を装って淡々と告げた。
「馬鹿なことを。兄上は今、瑛南にて北方の守りに睨みを利かせている。
姑息な虚言だ。」
今は――士気を下げるわけにはいかない。
俺はその話を打ち切り、豪族の頭領に問いかけた。
「ところで、お主らの中に、未だ動ける者はいるか?」
俺は、虞業を殲滅するための策を練りはじめた。




