第40話 御瀾、そして兵馬の矛先へ(前)
瑛南の内政が軌道に乗り、平穏な日々を送っていた。
すると紫音が、どうやら子供を授かった。
漸く、待望の一人目に。
紫音の表情には、安堵の色が浮かんでいた。
俺は溢れる想いを抑え、紫音の手を取り伝える。
「……ありがとう。まずは何よりも、自分の体を大切にしてくれ」
懐妊をすぐに親父と龍紅にも伝えると、
二人ともこの報せを心から喜んでくれた。
特に龍紅は、喜びを隠さず俺の肩を叩きながら言った。
「蒼賡もこれで父親だな。
私の子とお前の子が、これからの龍家を盛り立てていくのだ」
「いくらなんでも気が早すぎますよ」
そう言って笑いながら、龍紅の注ぐ酒を飲み干した。
……どうか、何事もなく無事に生まれてきてくれ。
そう祈らずにはいられなかった。
だが、幸せを噛み締めていた瑛南に──
親父から、耳を疑うような書状が届いた。
「準備を整え、瑛南から出陣し、
御瀾を攻め落として龍家の支配下に置くべし」
という、あまりにも非情な命令だった。
俺は衝撃を受け、真意を問いただすため、すぐさま馬を走らせた。
必死に手綱を握りしめ、親父のいる本家の集落へと
一心不乱に駆け戻った。
到着すると、その場に跪拝し、
声が震えるのを抑えられないまま叫んだ。
「父上! 何ゆえ御瀾を攻めよなどと!
御瀾には龍玉…静零を嫁がせ、同盟を執り行ったではありませぬか!
今攻めれば、人質も同然の龍玉の身はどうなりましょう。
それはあまりに非道……何とぞご再考を願い奉りまする!」
親父は眉一つ動かさず、静かに──当然のように答えた。
「賊を掃討し、豪族の血を入れ替え、
瑛南を我が龍家の掌中に収めるための間、
余計な手出しをされぬ為の策に過ぎぬ。
既に事は成った。足場を固めたれば、
次なる地を望むが道理である。」
俺は、親父の静かな迫力に怯まないように、声を絞り出した。
「同盟が続くなら、それでいいではありませんか!
侵略などせず、協力関係が続けば問題はないでしょう。
なぜ、敵を作る真似をなさるのですか!」
「痴れ者が!
同盟と、一族が直に治めるのとでは雲泥の差よ。
いつ背後を衝くやも知れぬ輩を信じ、
憂いを残す危うさを、未だ解せぬのか。
御瀾を掌中に収めるということは、
亘江の水運、沃土の恵み、
さらに船団を操る徒の徴税権まで──
全てが我が龍家の物となるのだ。
それほどの国利と、一女子の命では、
比ぶるまでもない!」
「なれど、父上……!」
「くどいッ!」
親父が大きく溜息を吐いた。
「……よかろう。そこまで申すなら、
仁慧と蒼賡に、降伏勧告を任せる。
頭を垂れて領地を譲らば、手厚く遇し、
礼を尽くすと伝えよ。
恭順すれば兵を損なうことなく、
龍玉の身も安泰であろうよ。
異論はあるまい。」
俺は精一杯に身を震わせて絞り出した。
「承知いたしました……」
「お前も親となるのだ。いい加減、その甘さを捨てよ。
……成人した我が子は仁慧と汝。
娘は静零のみ。
もっと多くの娘をなしておくべきであったな。
駒が少ないのは失策であった。
もしも静零が無事に戻れば、
次なる嫁ぎ先を算段するとしよう。」
俺は親父の言葉に、必死に込み上げる怒りを飲み込み、頭を下げた。
口にすれば──二度と取り返しがつかなくなる自信があった。
だから、逃げるようにその場を退き去った。
胸の中では、激しい怒りと深い失意、
やり場のない諦めが入り混じっていた。
どこかで期待していたのだ。
親父なら、静零の身を案じ、考えを変えてくれるはずだと。
だが、返ってきたのは、あまりに非情な言葉だった。
家にいた頃は、静零を可愛がっていたのに。
なぜ、平然と道具のように扱えるのか。
俺の心は、冷たい空虚さに包まれていた。
瑛南に戻り、龍紅に事の顛末を報告すると、
「そうか、苦労をかけたな」
その言葉に、胸の奥が少しだけ緩んだ。
だが、どうしても抑えきれず、思わず口をついて出た。
「仁慧兄上は……平気なのですか?
静零が……心配ではないのですか」
龍紅はしばし黙し、それから地図を広げた。
「蒼賡、お前は穆山へ向かった旅で知っていよう。
都まで最短で行く場合も、
北へ船を出す場合も──
どうしても御瀾を通過する必要が出てくる。
そして龍家は、御瀾があるかぎり
常に“頭を抑えつけられる”形になる。
それほどの重要拠点なのだ。」
違う……そういう事を聞きたいわけじゃないんだ。
俺は、駄々っ子のように込み上げる感情を抑えきれなかった。
龍紅は一瞬だけ目を瞑り、それから静かに語り掛けた。
「父上──現当主の言う事は絶対だ。
それが聞けぬというなら……わかるだろう?」
その言葉は、叱責ではなく“現実の提示”だった。
「それに、静零が憂き目にあうと決まったわけではない。
我々の手で恭順させればよいのだ。
だから、今は出来る事に力を尽くせ。」
「……はい、承知致しました。
短慮に及び……返す言葉もありませぬ。」
そして龍紅は進軍の命令を下した。
静零のいる御瀾へ──兵馬の矛先を向けて。




