第23話 問安、そして思い出の渇仰へ
俺は病室に入ると、二人だけにしてほしいと人払いをした。
誰もいなくなったのを確かめ、懐から神薬を取り出し、阿京の前にそっと差し出す。
阿京は目を見開き、震える声で言った。
「……それは……手に入ったの? 本物なの?」
「あぁ。きっと本物だ。信じてくれるか。
さぁ、阿京……これを飲むんだ。
そしてまた、一緒に馬に乗ろう」
俺は白湯と丸薬を阿京の手に渡した。
阿京はしばらくそれを見つめ、小さく首を振った。
「……ありがとう。阿刀が持ってきてくれたなら信じる。
でも……私はもういいの。
それは、阿刀に何かあった時のために置いておいて。
自分のために使って……?」
その言葉に、胸が締めつけられた。
俺は懐に忍ばせていた小刀を取り出し、阿京の前に置いた。
「阿京。
俺は……お前が飲まないなら、この薬を捨てる。
そして俺も、お前の後を追う」
阿京の瞳が大きく揺れた。
「……そんな……阿刀……」
「俺は、お前がそう言うと思っていた。
だから、小刀を持ってきた。
脅しじゃない。
お前がいない世界で生きるくらいなら、
俺は……お前と同じ場所へ行く」
震える声で、しかしはっきりと告げた。
「だから頼む。
阿京……俺のために飲んでくれ。
生きてくれ。
……俺は……お前に、生きていてほしいんだ」
阿京はしばらく目を閉じ、何かを噛みしめるように静かに呼吸を整えた。
そして目を開き、弱々しい声で、しかし確かな響きで武章の一節を口にした。
「……男子たるもの、命を軽んじてはならぬ……」
俺は思わず息を呑んだ。
こんな時でも、阿京は阿京だった。
俺の愚かな覚悟を、優しく、しかし真っ直ぐに戒めてくれる。
その阿京らしさが、胸に沁みて仕方なかった。
阿京は俺の顔をじっと見つめ、震える手で丸薬を取り上げた。
そして白湯を口に含み、ゆっくりと──嚥下した。
俺は早鐘のように脈打つ鼓動を抑えきれず、ただ祈るように見守った。
頼む……効いてくれ……頼む……。
しばらくすると阿京は目を閉じ、力なく横になった。
次の瞬間──
呼吸が、止まった。
「……え……? 嘘だろ……?」
頭が真っ白になった。
遅かったのか?
手遅れだったのか?
薬が効かなかった?
いや、まさか……誰かにすり替えられた……?
疑念と恐怖が渦を巻き、同じ思考が何度も何度も頭を駆け巡る。
俺は双魚佩を阿京の手に握らせ、その手を自分の手で包み込んだ。
「阿京……阿京……!
死なないでくれ……頼む……!」
必死に呼びかけた。
すると──阿京の身体がピクリと震えた。
次の瞬間、止まっていた呼吸が再開した。
血色が……ほんのわずかだが、戻っている。
「……阿京……!」
しかし、目を覚ますことはなかった。
一刻ほど見守ったが、呼吸が再び止まることはなかった。
その時、俺はふと思い出した。
──腕輪だ。
神様から与えられた、“設定が見える”腕輪。
俺は腕輪に念を込め、阿京の身体にそっと触れた。
すると──
見えない。
阿京が十四歳で死ぬという“設定”が……どこにも、見えない。
死の未来が……消えている。
俺は震える指先を押さえつけるようにして腕輪から手を離し、医官を呼んだ。
阿京は深い眠りに落ちていた。
俺は医官に向かって、
「まだ話したいことがある。
目を覚ましたら必ず俺を呼べ」
とだけ告げ、部屋を出た。
しばらくして、医官が息を切らせて駆け込んできた。
「若君……! 阿京様が……!」
その顔は興奮と困惑で紅潮していた。
「嘘のようです……ありえません。
咳血が止まり、潮熱も引き、盗汗も消えました。
脈も……安定しております。
これは……一体……」
医官の声は震えていた。
長年病を診てきた者の声ではなかった。
“理解を超えた何かを見た人間”の声だった。
俺は静かに頷き、努めて平静を装って言った。
「そうか。それは良かった。
穆山で仙人に祈祷を捧げてきた。
その御利益の賜物であろう」
医官は深く頷き、そのまま阿京の容体を再び確かめに戻っていった。
……医官から阿父の耳に入るだろう。
阿父は鋭い。
何か勘付くかもしれない。
だが、祈祷をしたのは事実だ。
そして薬はもう手元に残っていない。
白を切ればいい。
「祈祷が実った」と言えばいい。
俺は深く息を吐いた。
阿京は……生きられる。
その事実だけが、胸の奥で静かに、しかし確かに灯っていた。
俺は喜びを隠しきれず、阿京の元へ向かった。
阿京は目を開き、俺の顔を見ると──困惑したように眉を寄せた。
「……二若君……様?」
その呼び方に、胸がざわついた。
「……このような見苦しき体にて、
二若君に非礼を晒しますこと、何卒お許しください。
医官に聞けば、二若君が旅路にて
峻険なる霊山へ分け入り、
私のために神仙へ祈祷を捧げてくださったとか。
……そのご慈悲、恐悦至極に存じ、
感謝の極みに堪えませぬ」
阿京は一度、静かに目を伏せた。
「長く病の床に伏せっておりましたせいか……
記憶が朧気にございます。
意識の混濁ゆえ、
はっきりと物を申せぬ不調法もあろうかと存じますが……
どうか、寛大なる御心を以てお見守りいただければ幸いです」
俺は静かに悟った。
阿京から、俺との記憶が失われていることに。




