第16話 山脈、そして兵の矜持へ
三十一日目。
人の世の地獄だった黄土地帯を抜けた。
帰りもまたここを通るのかと思うと、胸の奥が重く沈んだ。
だが──
次の道程も、そんなことを考えたまま進める場所ではなかった。
穆山へ向かうには、これから聳嶺山脈を越え、
一度、都に入り、そこからさらに北上する必要がある。
聳嶺山脈。
巨大な岩が地面から突き上がったような、空を塞ぐ“岩の壁”だった。
かつて関所があったと思われる場所は、
焼け落ちた柱と黒い炭だけが残り、
山の斜面には、古い村の跡が点々と続いていた。
壮が口を開く。
「戦乱と重税で……この辺りは棄民となっています。
さきほどの流民の中にも、ここから逃げてきた者がいたはずです」
「そうか……」
胸の奥がざらつく。
──こんな場所に、どうして住むしかなかったのか。
──どうして、ここまで追い詰められたのか。
この世界の理不尽さが、また一つ積み重なる。
壮が続ける。
「若君、ここから先は棧道や、
細い岩の隙間を通ることになります。
棧道は差し込んだ木材が腐っていることがあります。
隙間道は苔や水で滑りますので……
一度に体重をかけず、足元を確かめながらお進みください」
現代人の俺からすると、それは“道”とは呼べなかった。
断崖絶壁に穴を開け、そこへ木材を差し込んだだけの足場。
壮の後を必死で追うが、壮がどうやって
「大丈夫な場所」を判断しているのか、俺には見当もつかない。
全部、同じにしか見えない。
ただ“渡る”というだけで、死と隣り合わせだ。
落ちないことだけに全神経を向けて歩いていると、
後ろで石がコツッと跳ねる音がした。
続いて、短い悲鳴。
「ああっ……!」
その声は、次の瞬間には風に吸い込まれたように消えた。
気になっても、後ろを振り返ることなどできない。
振り返った瞬間に足を滑らせる自信があった。
屯長の叫びが飛ぶ。
「二若君! お気になさらず進んでください!」
俺は、自分の流している汗が
疲労のせいなのか、暑さのせいなのか、
それとも冷や汗なのか、脂汗なのか──
もう何も判別できないまま、
ただ、恐怖に背中を押されるようにして、
その道を通り抜けた。
そして通り抜けた後、屯長から報告があった。
「兵の一名が滑落しました。
兵が背負っていた装飾品などを失いました。申し訳ありません。」
……荷物? 荷物……?
何を言っているんだ。
人が死んだんだぞ──!
喉まで出かかった叫びを、
俺の中の“現代人じゃない阿刀”が必死に押しとどめた。
そうだ。荷物は大事だ。
食料がなければ餓死する。
都ではきっと貨幣も金品も必要になる。
理屈では分かっている。
だが、胸の奥が焼けるように痛かった。
堪えたまま、誰が落ちたのかを聞くと──
それは、旅の出発時に俺へこう言ってくれた兵だった。
「承知しました。
龍家の次男ともあろうお方が女一人救えぬようでは、
末代までの恥となりましょう。」
あの時、俺の背を押してくれた兵だ。
俺は……心のどこかで、
自分も、兵たちも、死ぬなんて思っていなかった。
これまでの辛い道程も、賊の襲撃も、
誰一人として脱落しなかったから。
このまま全員で帰れると、
どこかで信じていた。
でも──人は。
人は、あんなにもあっけなく……死ぬんだ。
俺は、一瞬──そう、ほんの一瞬だけ思ってしまった。
俺が阿京と出会わなければ。
出会っても、ただの学姉と若君の関係のままだったなら。
こんな辛い旅をする必要もなかったし、
兵の命を散らすこともなかったんじゃないか、と。
だが、それは……
死なせてしまった兵への罪悪感から、
目を背けたかっただけだ。
そんな考えこそ、滑落した兵への冒涜だ。
分かっているのに、胸が痛む。
痛むのに、どうしようもない。
すまない……すまない……
俺のせいで……すまない……
心の中で、何度も何度も謝った。
しかし、兵の死はそれだけでは済まなかった。
岩壁の上から、落石と強弩が襲い掛かる。
壮が「山賊です!」と叫び、
屯長が「若を守れ!」と同時に怒号を上げた。
落石が兵の一人を押し潰し、
飛んできた弩が鎧を貫き、兵はその場で崩れ落ちる。
「二若君、進んでください!
我々が殿を務めます!」
十名の兵が大声を上げ、山賊の注意を引きつけながら
矢が飛んできた方角へ駆け出した。
龍家の精鋭たちは次々と山賊を討ち果たしていく。
だが、多勢に無勢。
いよいよ体力が尽き、足がもつれ始めた頃──
兵が一人、また一人と、
山賊を道連れに崖下へ飛び降りていった。
阿刀の路を切り拓くために。
阿刀が無事に辿り着くために。
そして、家紋や刻印の入った名誉ある武具を
賊に奪われぬようにするために。
その矜持だけを胸に抱いて。
そして兵は八十七名になった。
阿刀は、残った兵と共に都の門前へ辿り着いた。
それは──旅の三十八日目を終えた夜明けだった。




