表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
17/74

第16話 山脈、そして兵の矜持へ

三十一日目。


人の世の地獄だった黄土地帯を抜けた。

帰りもまたここを通るのかと思うと、胸の奥が重く沈んだ。


だが──

次の道程も、そんなことを考えたまま進める場所ではなかった。


穆山へ向かうには、これからショウ嶺山脈を越え、

一度、都に入り、そこからさらに北上する必要がある。


聳嶺山脈。

巨大な岩が地面から突き上がったような、空を塞ぐ“岩の壁”だった。


かつて関所があったと思われる場所は、

焼け落ちた柱と黒い炭だけが残り、

山の斜面には、古い村の跡が点々と続いていた。


壮が口を開く。


「戦乱と重税で……この辺りは棄民となっています。

 さきほどの流民の中にも、ここから逃げてきた者がいたはずです」


「そうか……」


胸の奥がざらつく。

──こんな場所に、どうして住むしかなかったのか。

──どうして、ここまで追い詰められたのか。

この世界の理不尽さが、また一つ積み重なる。


壮が続ける。


「若君、ここから先は棧道さんどうや、

 細い岩の隙間を通ることになります。


棧道は差し込んだ木材が腐っていることがあります。

 隙間道は苔や水で滑りますので……

 一度に体重をかけず、足元を確かめながらお進みください」


現代人の俺からすると、それは“道”とは呼べなかった。


断崖絶壁に穴を開け、そこへ木材を差し込んだだけの足場。

壮の後を必死で追うが、壮がどうやって

「大丈夫な場所」を判断しているのか、俺には見当もつかない。

全部、同じにしか見えない。


ただ“渡る”というだけで、死と隣り合わせだ。


落ちないことだけに全神経を向けて歩いていると、

後ろで石がコツッと跳ねる音がした。

続いて、短い悲鳴。


「ああっ……!」


その声は、次の瞬間には風に吸い込まれたように消えた。


気になっても、後ろを振り返ることなどできない。

振り返った瞬間に足を滑らせる自信があった。


屯長の叫びが飛ぶ。


「二若君! お気になさらず進んでください!」


俺は、自分の流している汗が

疲労のせいなのか、暑さのせいなのか、

それとも冷や汗なのか、脂汗なのか──

もう何も判別できないまま、


ただ、恐怖に背中を押されるようにして、

その道を通り抜けた。


そして通り抜けた後、屯長から報告があった。


「兵の一名が滑落しました。

 兵が背負っていた装飾品などを失いました。申し訳ありません。」


……荷物? 荷物……?


何を言っているんだ。

人が死んだんだぞ──!


喉まで出かかった叫びを、

俺の中の“現代人じゃない阿刀”が必死に押しとどめた。


そうだ。荷物は大事だ。

食料がなければ餓死する。

都ではきっと貨幣も金品も必要になる。


理屈では分かっている。

だが、胸の奥が焼けるように痛かった。


堪えたまま、誰が落ちたのかを聞くと──

それは、旅の出発時に俺へこう言ってくれた兵だった。


「承知しました。

 龍家の次男ともあろうお方が女一人救えぬようでは、

 末代までの恥となりましょう。」


あの時、俺の背を押してくれた兵だ。


俺は……心のどこかで、

自分も、兵たちも、死ぬなんて思っていなかった。


これまでの辛い道程も、賊の襲撃も、

誰一人として脱落しなかったから。


このまま全員で帰れると、

どこかで信じていた。


でも──人は。


人は、あんなにもあっけなく……死ぬんだ。


俺は、一瞬──そう、ほんの一瞬だけ思ってしまった。


俺が阿京と出会わなければ。

出会っても、ただの学姉と若君の関係のままだったなら。

こんな辛い旅をする必要もなかったし、

兵の命を散らすこともなかったんじゃないか、と。


だが、それは……

死なせてしまった兵への罪悪感から、

目を背けたかっただけだ。


そんな考えこそ、滑落した兵への冒涜だ。


分かっているのに、胸が痛む。

痛むのに、どうしようもない。


すまない……すまない……

俺のせいで……すまない……


心の中で、何度も何度も謝った。


しかし、兵の死はそれだけでは済まなかった。


岩壁の上から、落石と強弩が襲い掛かる。


壮が「山賊です!」と叫び、

屯長が「若を守れ!」と同時に怒号を上げた。


落石が兵の一人を押し潰し、

飛んできた弩が鎧を貫き、兵はその場で崩れ落ちる。


「二若君、進んでください!

 我々が殿を務めます!」


十名の兵が大声を上げ、山賊の注意を引きつけながら

矢が飛んできた方角へ駆け出した。


龍家の精鋭たちは次々と山賊を討ち果たしていく。

だが、多勢に無勢。

いよいよ体力が尽き、足がもつれ始めた頃──


兵が一人、また一人と、

山賊を道連れに崖下へ飛び降りていった。


阿刀の路を切り拓くために。

阿刀が無事に辿り着くために。

そして、家紋や刻印の入った名誉ある武具を

賊に奪われぬようにするために。


その矜持だけを胸に抱いて。


そして兵は八十七名になった。


阿刀は、残った兵と共に都の門前へ辿り着いた。

それは──旅の三十八日目を終えた夜明けだった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ