第15話 荒野、そして餓狼の群れへ
俺は夜を迎えるたび、木板に刻んでいた線の数を確かめる。
二十四日目──。
壮の案内のおかげで、ほぼ予定通りに湿地帯を抜けられたことになる。
「若君、ここから先は黄土地帯となります。
風が吹くたびに黄砂が舞いますので、目をやられぬようご注意を」
「若君はやめろ。俺は龍家の次男だ」
「私にとっては、若君が主君でありますので」
壮は軽く頭を下げ、続けた。
「さぁ、参りましょう。私は北から逃げてきた時にこの道を通りました。
湿地ほどではありませんが……まだ道には明るい自信があります」
「あぁ、期待している」
そう言って周囲を見渡す。
黄土の断崖。干上がった川。
ひび割れた大地がどこまでも続き、生きた色が一つもない。
泥水にまみれた湿地の先にあるのが、今度は“渇きの世界”とは……
こんなの、ゲームの中だけだと思っていた。
世界のあまりの過酷さに、俺の体力はすでに限界に近かった。
正直、今でも耐えられているとは言えない。
だが──身体を満足に鍛えていなかった一年前なら、まず無理だっただろう。
龍紅の言った通りだった。
しばらく歩いた頃、異変に気付く。
乾いた世界とはいえ、野草が一つもない。
遠くに点在するわずかな樹木は、樹皮が根こそぎ剝ぎ取られている。
俺は気になって壮に尋ねた。
「この辺りには定住地を持たない流民の群れが、移動し続けております」
壮は淡々と答えた。
「口にできるものをすべて食べ尽くした後、また移動するのです。
野犬と鳥と流民は……互いに死肉を漁り合います」
俺は絶句した。
なんていう地獄だ……。
俺なんて、この世界に来て初めて出された食事を
“肉と粥か……なんとか食えそうだ”なんて言っていた。
だが──
ここにいる人たちが口にしているものは、
もはや“食料”と呼べる代物ですらないのだ。
打ちひしがれながらも、俺たちは進んだ。
突風が吹くたびに黄砂が舞い上がり、視界が奪われる。
砂埃が目に刺さり、涙が滲む。
「この先に、賊が伏せやすい場所があります。
少し迂回して進みましょう」
壮の進言に、屯長が眉をひそめた。
「……汝、本当だろうな?
その“迂回した先”に賊が伏せているということはあるまいな?」
壮が睨み返し、反論しようとした瞬間──
俺は手を上げて制した。
「寄せ。あの湿地の土手道が使えたのは、壮の案内の功績だ。
俺は壮の進言を頼りにしている」
その一言で、壮ははっと息を呑んだ。
次の瞬間、泥に膝をつき、額を地に擦りつけるように跪拝した。
「賊に身をやつしていた私に……勿体なきお言葉……!」
声を震わせ、涙を落とす壮。
俺が屯長の方を見ると、屯長は口元を緩めていた。
──あぁ、そういうことか。
壮の反応を確かめるついでに、
俺と壮の仲を深めるための“一芝居”だったのだろう。
まったく……役者だな、屯長。
壮の案内の通りに賊を避けて進んだ先──
そこにいたのは、もはや“餓狼”と呼ぶしかない流民の群れだった。
少しでも日と風を避けるためなのだろう。
岩陰には、痩せこけた老人や女子どもが力なく座り込んでいる。
目だけがぎらつき、乾いた喉の音が風に混じって聞こえた。
壮が低く言う。
「若君。今の時代、どこもこんな光景です。
俺は……俺たちは、粥の一杯でも食えれば御馳走ってもんです」
屯長が静かに言った。
「若君、目を合わせてはなりませぬ。
食事を与えるなど、もってのほかです。
この人数に分け与えれば、我らの食料が尽きます。
もし暴動が起きれば……斬るしかなくなります」
「……わかっている」
そう返しながら、俺は頭の中で仁章の一節を思い返していた。
『仁とは、徳を積みて富を貪らず。
貧しき者あらば、これを分かち与うるを上とす。』
俺は家に帰れば豪族の次男だ。
飢えることなく食事をし、
読みたいときに本を読み、
好きに槍を振るい、
汗をかけば湯で体を拭く。
この世界で言えば、十分すぎるほど“富める者”だ。
だが──
今の俺には、彼らに何一つ分かち与えることができない。
……何が仁か。
そう思っていると、ふと子どもの姿が目に入った。
同情だとわかっていた。
だが、通り過ぎる瞬間、忍ばせていた干し肉をそっと落とした。
気付いた子どもが、ぱっと顔を輝かせて拾い、
口に運ぼうとした──その瞬間。
横で見ていた父親が子どもを突き飛ばし、
干し肉を奪い取った。
子どもは地面に転がり、
父親は震える手で肉をむさぼるように口へ運んだ。
俺は言葉を失った。
そして──
そんな俺の行動を見て、付け入る隙ありと判断したのだろう。
流民の長と思わしき男が、遠くから声を張った。
「若君様……この女たちを、お好きになさる代わりに。
食糧を、ほんの僅かだけでも分けてはいただけませぬか」
その男の周りには、泥にまみれ、髪は脂で固まりきり、
焦点の合わない目でこちらを覗う女たちがいた。
──きっと“女性”なのだろう。
だが、人間が飢えと不潔の極限に追い詰められたとき、
そこに性差など感じられなくなるのだと、
俺はまざまざと見せつけられていた。
喉が鳴り、息が詰まる。
「これ以上近づくな!
近寄れば斬る!
我らが去るまで、そこから動くな!」
声が震えたのが自分でもわかった。
俺は、この乾ききった荒野と、死臭の漂う“人の世の地獄”を
一刻も早く抜け出すために──
ただ、ただ先を急いだ。




