26:心の蓋
ジョアンナたちが挨拶を終えて振り返ると、会場中の視線が自分たちに注がれていた。
ジョアンナはなんとか笑みを浮かべて、優雅に一歩一歩足を進める。
すると、懐かしい顔が目に入った。
キャロラインとフィリップの二人だ。
マーランドを旅立った時は二度と顔も見たくないと思っていたが、二人の顔を見た自分の変化に驚いた。
不思議なことに何も感じないのだ。
懐かしいも、憎いも、悔しいも……何も感じない。
そんな自分の心に驚くとともに、すでに彼らや、あの一連の出来事が自分の中で過去になったということを実感した。
ジョアンナは穏やかに微笑むと、軽く目礼して二人の横を通り過ぎた。
そんな彼女に引きつった笑顔を返しながらも、拳を握りしめたキャロライン。
その隣には寂しそうに微笑むフィリップの姿があった。
「ジョアンナ様、お久しぶりです」
「あっ! イザベル様。お久しぶりです」
学園で親しくしていたイザベルと久しぶりに顔を合わせ、ジョアンナの顔に笑みが浮かんだ。
イザベルはジョアンナがヴィンセントと婚約したと知って、リネハンに手紙を送ってくれた。
何度も手紙のやり取りをしているせいか、久しぶりの気があまりしない。
イザベルをエスコートしているのは、もうすぐ彼女が婚約する予定の男性だ。
手紙に書いてあった通り、優しい雰囲気の素敵な人だ。
飲み物を取りに二人が離れた隙に、イザベルがこっそり耳元で囁いてきた。
「やっぱり、ヴィンセント様は素敵ね。私の初恋の相手がジョアンナ様の旦那様になるのね。なんだか悔しいわ」
そう言って拗ねた振りをして、いたずらな瞳で笑うイザベル。
「そんなことを言ったら、彼に叱られるわよ」
二人でこそこそと話しながら笑っていると、グラスを持った二人が戻ってきた。
そんな風に久しぶりに会った友と楽しい時間を過ごすジョアンナに、鋭い視線を向けるひとつの影があった。
──許せない。許せない。許せない。
キャロラインの心は荒れ狂っていた。
──お父さまも、お父さまよ。ヴィンセント様とお話したいと言っただけなのに、あんなに怒るなんて……。少しくらい、いいじゃない。
キャロラインは苛立ちを押し殺すように、爪を噛み締めた。
──お母さまも首を左右に振って溜め息を吐くだけで、なんで何も言ってくれないの?
ジョアンナたちに近づくことを禁止されたキャロラインは、イライラしていた。
そんな彼女の視線の先で、一人の令嬢が手を滑らせてドレスにワインをこぼした。
彼女は瞳に涙を溜めながら、真っ青な顔で退場していく。
それを見たキャロラインの顔に、悪い笑みが浮かぶ。
──お姉さまが悪いのよ。
飲んでいた白いワインと真っ赤なワインのグラスを交換したキャロラインは、まっすぐにジョアンナの元へ進む。
そして、よろけた振りをしながら、ジョアンナに向けてワインのグラスを傾けた。
「ジョアンナ!」
イザベルとの話に夢中になっていたジョアンナは、背後から聞こえたヴィンセントの鋭い声に驚いた。
思わず振り返れば、ワインを浴びてずぶ濡れになっているヴィンセントの姿が見えた。
そのすぐ近くには、空のグラスを持ったキャロラインがいる。
ジョアンナを一瞬睨みつけた彼女の瞳を見て、ジョアンナは何が起こったかを察した。
「ヴィンセント様! 大丈夫ですか?」
慌てて手を伸ばしたジョアンナだったが、その手をヴィンセントに止められる。
「大丈夫だ。ジョアンナまで汚れてしまう」
「これは着替えが必要だね。控え室に案内して」
いつの間にか近くにいたセドリックの指示でやってきた案内に連れられて、ヴィンセントとジョアンナは会場を後にした。
ジョアンナたちが去った会場は静まり返り、やけに声が響く。
「見ました? あれはどう見てもわざとですよね」
「本当。下品だこと。白のドレスを汚そうとするなんて」
「また人のものが欲しくなったんじゃ、ありませんの?」
「まあ、あの方のお母さまも、人のものが大好きですから」
「血は争えないとは、このことかしら?」
そこかしこから、自分をあざ笑う声が聞こえる。
その中には見知った声も混じっている。
顔に熱が集まるのを感じながら、キャロラインは唇を噛み締めた。
「……キャロライン」
真っ青な顔で自分の名を呼ぶ夫と、その後ろで顔を紅潮させている父が見えた。
「マーランド伯爵。彼女には、この夜会の参加はまだ早かったのではないか?」
セドリックのそんな言葉に、そこかしこから笑い声があがる。
「申し訳ございません」
セドリックはフィリップに視線を向けた。
「彼も顔色が悪いようだ。体調が優れないんじゃないかい。無理をせずに身体を休めるといい」
「……お、お心遣いありがとうございます」
セドリックが軽く手を上げると、自分たちを取り囲むように騎士たちが周囲に配置された。
そのまま、まるで囚人のように会場の外まで案内される。
隙間から見える人々の顔には、蔑みと嫌悪の色が浮かんでいる。
馬車に乗り込んで王宮を出るなり、父が呻くように呟いた。
「よりによって、冬の夜会でなんてことを……」
いつもは優しい母も、真っ青な顔で俯いたまま言葉を発しない。
こんなはずじゃなかった。何か言わなければ。
そう思うのに、喉が張り付いて言葉が出てこない。
キャロラインは足元から忍び寄ってくるような不安を感じながら、呆然とした表情で馬車に揺られた。
「ヴィンセント様。キャロラインが申し訳ございません」
控え室に移動したジョアンナは、着替えを終えたヴィンセントに深く頭を下げた。
「いや。夜会の緊張で疲れてよろけてしまったのだろう。気にすることはない。ジョアンナが無事でよかったよ」
その言葉にジョアンナの瞳に涙が浮かぶ。
キャロラインがなんであんな行動に出たのかはわからないが、冬の夜会は貴族にとって大きな意味のある夜会だ。
そこでこんな騒ぎを起こすほど我慢できない感情が、キャロラインの中にあったのだろう。
自分を睨みつけたキャロラインの瞳を思い出して……ふいに、言葉が漏れた。
「私がいけないんです」
外に出てしまった言葉につられて、次々と言葉がこぼれる。
「初めて会った時に、キャロラインを傷つけてしまったから……嫌われてしまった」
その言葉と一緒にジョアンナの瞳から涙が落ちた。
そう。これまで考えないようにしてきたが、小さな頃からずっと嫌われていたのだ。
ジョアンナが行けない日に母娘で街へ出かけていくのも。
きっとフィリップのことも。
見ない振りをしていただけで、薄々わかっていた。
亡くなった母やリネハン家の人たちから向けられる瞳と、継母やキャロラインの瞳は全く違うものだった。
ジョアンナはそれを認めるのが嫌で、ずっと心に蓋をしていたのだ。
ジョアンナの漏れ出した心の声に寄り添うように、ヴィンセントが手を優しく包んだ。
「私、子供の頃に虫が大好きで……」
「うん。知っている」
「……?」
思わず見上げれば、ヴィンセントが温かい瞳で自分を見つめている。
「よく楽しそうに虫を見ているし、触れたそうに手を伸ばしているから……」
「……気持ち、悪くないですか?」
「全然。俺も昔、捕まえたことがあるよ」
そこからジョアンナは、屋敷に来たばかりのキャロラインをお気に入りの場所に案内したこと。
大好きな虫を見せて怒られてしまったことなどを、ポツリポツリと話した。
「子供だったんです。自分の行動で誰かを傷つけるということが、想像できなかった。そのせいで、キャロラインに嫌な思いをさせてしまいました……」
少しだけ、ジョアンナの手を握るヴィンセントの手に力が入った。
「もしも、あの日。あんなことをしなかったら、もしかしたら、普通の姉妹のように仲良くできたんじゃないかって……」
瞳から涙が流れるだけで、その後の言葉は続かなかった。
そんなジョアンナをそっと包むように、ヴィンセントが抱きしめた。




