08:「ただいま」と「おかえり」
ある日の午前中。
侍女のコリンナは、ジョアンナの自室でお茶を淹れていた。
ふっと柔らかく微笑んだ彼女の視線の先には、夢中になって本を読むジョアンナの姿がある。
ジョアンナが読んでいるのは、補修の痕が多く残る、見るからに古い本だ。
難しい顔をしてうなったり、ぱあっと表情を輝かせたり。
表情豊かに本を読むジョアンナが可愛らしくて、仕事をしながらついつい彼女に目を向けてしまう。
今も、何か面白い発見があったのか、瞳を輝かせて前のめりになった。
その様子に小さく微笑んだコリンナの耳に、コンコン、という軽い音が聞こえた。
ジョアンナに視線を向ければ、彼女は本を見つめたままだ。
すっかり本の世界に夢中になっている彼女の耳には、ノックの音が届いていないようだ。
コリンナがそっとドアを開ければ、遠征で夜に戻る予定だったはずのヴィンセントが立っていた。
ドアの隙間からジョアンナの姿が見えたヴィンセントは、彼女の名前を呼ぼうと声を上げかけたが、ジョアンナが本を読んでいることに気がついて口の中の言葉を飲み込んだ。
集中しているせいかドアを叩く音に気がついていない様子のジョアンナは、丁寧な手つきでページをめくり、瞳を輝かせている。
その表情があまりに可愛らしくて、ヴィンセントの顔には柔らかい笑みが浮かぶ。
ヴィンセントの来訪を知らせようと、コリンナがタイミングをうかがっている。
それを右手でそっと制して、ヴィンセントは静かに彼女の向かいに腰を下ろした。
ジョアンナが楽しそうに読んでいる本をそっと覗き込めば、調合室で見たことのある錬金術師が使う道具の絵が見えた。
──かなり古い本だな。どうやら、大昔の錬金術師が書いた本のようだ。
出されたお茶を飲みながら、本を読むジョアンナを見つめる。
耳に届くのは、本をめくる小さな音だけ。
数日前から魔の森へ遠征に出ていたヴィンセントは、久しぶりの静かで穏やかな時間に心地よさを感じていた。
窓からの光を受けて輝く、ジョアンナのピンク色の髪。
赤い瞳は彼女の心の色を映すように、楽しげに輝いている。
その美しさを見ているだけで、遠征で溜まった疲れも溶けていくようだった。
そんな静かな時間が流れる部屋に、「クー」という小さな音が響いた。
身体の真ん中からその音を発したジョアンナは、本を読む手を止めて、お腹を押さえながら顔を上げた。
そこで、向かいの席に座るヴィンセントに気がつき、混乱した様子で大きな瞬きを繰り返す。
そんなジョアンナを見て微笑みながら、ヴィンセントは柔らかい声で口を開く。
「ジョアンナ、ただいま」
その言葉にジョアンナはハッとしたような表情を浮かべ、すぐに花が咲くように笑った。
「おかえりなさい」
その笑顔と聞き慣れた声に、ヴィンセントは身体の奥底から温かいものが広がっていくような感覚を覚えた。
ただいま、と言って――おかえり、と返ってくる。
人生の中で何度も繰り返したやり取りではあるが、無性に幸せだなと感じた。
こういう日常が積み上がっていくことが、結婚というものなのだろうか。
少し前までは自由に動くこともできず、「ただいま」と口にする自分すら想像できなかった。
それが、今では当たり前のようにこの言葉を使っている。
この言葉を取り戻した喜びが胸に広がっていく。
ヴィンセントの顔には、幸せの色が浮かんでいた。
一方、ジョアンナは、頬に身体中の熱が集まるのを感じていた。
心臓はうるさいほど大きな音を立てている。
それもそのはず。魔の森への遠征から今日の夜に戻るはずのヴィンセントが目の前にいるのだ。
本に夢中で全く気がついていなかったが、いつ部屋に来たのだろうか。
それが気になりつつ、ヴィンセントが無事に戻ってきたことにホッとする。
これから厳しい冬を迎えるリネハンでは、冬の間は多くの雪が降り積もり移動が困難になる。
そのため、雪が降りだす前にやらなければならないことが山ほどあるのだ。
魔物の討伐もそのひとつ。
ヴィンセントやケルヴィンは、冬の間に魔物が魔の森から出てこないように、魔物の数を減らすための遠征へ出ることが増えた。
ジョアンナも近く、魔の森に近い町で行われる「スライム狩り」という催しへ参加することになっている。
スライム狩りはリネハン家の女主人が代々受け継いできた、大切な仕事だ。
セリーナからその準備を教わりながら、ジョアンナは初めてのスライム狩りを楽しみにしていた。
「【錬金術】の本?」
「はい。お義父さまから少し前にいただいた本なのですが、『ドミニク』という昔の偉大な錬金術師が書いた本です」
「聞いたことのある名前だ。この本にはどんなことが書いてあるの?」
「ドミニク様は様々なものを【錬金術】のスキルを使って編み出した天才と呼ばれた人なのですが、この本には彼が塗料を作った時のことが書かれています」
塗料と聞いて、ヴィンセントは思い出した。
「もしかして、ガラスに色をつける塗料を作った人かな?」
「はい! ヴィンセント様もご存知なんですね! ガラスも彼が作ったものなんですよ」
ヴィンセントがドミニクを知っていたことに嬉しくなったジョアンナは、ぱあっと表情を輝かせた。
歴史に名を残した偉大な錬金術師は何人もいるが、その中でもジョアンナは特にドミニクを尊敬している。
嬉しくなったジョアンナは、この本にどんなことが書かれているのかを饒舌に語りだした。
そんな彼女の話を聞きながら、ヴィンセントは愛しげに目を細めた。
「面白そうな本だね。読み終わったら貸してもらえるかな?」
「はい!」
──少し喋りすぎてしまったわ……。
時間を忘れて本の話をしていたジョアンナは、なんだか恥ずかしくなり、頬に熱が集まるのを感じた。
そんなジョアンナを見てくすりと笑ったヴィンセントは、この部屋に来た目的を思い出した。
「ジョアンナ、お土産があるんだけど……」
その言葉にジョアンナの瞳が輝いた。
ヴィンセントは魔の森へ遠征に行くたびに、色々なものを採取して持ち帰ってくれる。
魔物の素材はもちろんのこと、珍しいものを見つけてはジョアンナに見せてくれるのだ。
花のような形をした葉。
表面がボコボコした石。
変わった香りのする樹皮など。
魔の森には様々なものがあり、ヴィンセントのお土産はどれも楽しいものばかりだ。
彼からもらったお土産を【鑑定】で調べてみると、面白いことがわかったりする。
例えば、表面がボコボコした石は、「白泡岩」という名前で、温かいお湯に入れると、その名の通り白い泡が出る性質があることがわかった。
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■白泡岩
お湯に入れると白い泡が出る岩
泡には血行促進や疲労回復の効果がある
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試しに浴槽に入れてみると、ブクブクと泡立ちながらとろみを帯びた白い湯になった。
その湯に浸かれば、身体の芯から温まる感じがする。
おまけに湯に浸かっている最中にもわかるほど、肌がしっとりとするのだ。
これまで見向きもされずにいた白泡岩だが、このことがわかってからは騎士団が積極的に持ち帰ってくるようになった。
最近では、女性を中心にじわじわと人気が広がっているそうだ。
──今日のお土産はどんなものかしら?
ヴィンセントが懐からマジックバッグを取り出せば、楽しみで仕方ないジョアンナの瞳が輝く。
どんな仕組みになっているのかはわからないが、マジックバッグは袋の口から入らないような大きな物も入ってしまう。
生きている動物だけは入れられないようだが、植物は入れることができる。そこも不思議だ。
マジックバッグに差し込まれたヴィンセントの手が取りだしたのは、紫色の花びらの小さな花だった。
根ごと採取してくれたらしく、根の部分は布で包まれている。
「初めて見た花だけど、可愛らしくてなんだかいい香りがするから、ジョアンナも好きかなと思って……」
手渡された花に鼻を近づけると、甘い香りがする。
「すごくいい香り……。ありがとうございます!」
早速、ジョアンナはこの花について調べてみることにした。
「【鑑定】」
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■雪スミレ
魔素の濃い場所でみられる多年草
濃い紫色の花びらは、凍らせると白い色に変わる
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──わっ! 温度で色が変わるの? 面白いわ。
思わぬ結果にジョアンナの瞳は輝いた。
「もしかして、調合で使えそう?」
「いえ。調合では使えないようなのですが、面白いことがわかりました。この花は雪スミレという名前みたいなのですが、今は紫色をしている花びらは、凍らせると白になるらしいです」
「えっ! 色が変わるの?」
ヴィンセントは驚いた表情で雪スミレを見つめる。
「だから、紫色の花なのに雪スミレという名前なんですね」
「面白いね。色が変わるところを一緒に見てみたいな。騎士団に【氷魔法】が使える人がいるから、頼んでみるよ」
後日。
ケルヴィンやセリーナも交えて、鑑賞会が開かれた。
ヴィンセントから依頼を受けた騎士が【氷魔法】を使えば、雪スミレの花びらが濃い紫色からじわじわと白に変わっていく。
それはとても幻想的で、思わず息を吞むほどだ。
その名の通り、雪のように真っ白な雪スミレの花は、可憐でとても美しかった。
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