07:フレッドの過去
「私が十五歳の時に授かったスキルは【アバカス】というスキルなんです」
「あばかす?」
聞き慣れない言葉にジョアンナは皆の顔を見たが、誰も知る者はいないようだ。
「はい。私の【アバカス】もジョアンナ様と同じで、これまでに誰も授かったことのないスキルだったので、研究所の調査を受けることになりました」
あまりの驚きに、ジョアンナは目を瞬かせる。
そんなジョアンナを見て軽く微笑み、フレッドは続けた。
「【アバカス】というスキル名を聞いても、どんなスキルなのか見当もつかないでしょう。私のスキル調査もジョアンナ様と同じように、研究者と手探りで進められました」
静かな食堂にフレッドの声だけが響く。
「私のスキルは、五つの赤い丸い玉が刺さっている一本の棒が、頭の中に見えるというものでした」
「?」
「はは。そう聞いても、よくわからないでしょう」
フレッドは控えていた給仕に頼み、グラスとナイフを用意してもらった。
グラスは全部で五つ。
それを縦に一列に並べ、彼から見て一番遠い場所にあるグラスにだけ少しワインを注ぐ。
残りの四つは何も入っていない空のグラスだ。
そして、ワインの入ったグラスと空のグラスの間を少し離し、その間を隔てるようにナイフを横向きに置いた。
「グラスは丸い玉の代わりですが……空のグラスが『1』、ワインの入ったグラスが『5』を表しています」
「なるほど……空のグラスは四つ、ワインのグラスはひとつで、9か」
髭を撫でながら、興味深そうにケルヴィンが呟く。
「はい。私のスキルは、このグラスを動かすことで計算することができるものなのです」
そう言って、フレッドは実際にグラスを動かしていくつかの計算を見せてくれた。
「この空のグラスをナイフの方にひとつ移動すると1。もうひとつ移動すると2になります。そして、ワインの入ったグラスをナイフの方に移動すると5なので、2+5で7となります」
「…………!」
「お気づきになられましたか。9までの数の計算ができるスキルです。両手の指を使えば10までの数の計算ができてしまうので……いわゆるハズレと呼ばれる類いのスキルです」
そんな言葉を紡ぎながら、右手の人差し指、中指、左手の五本の指を順番に立て、さきほどのグラスを使ったものと同じ計算をしてみせるフレッド。
おどけたような彼の軽い口調とは裏腹に、食卓にはなんとも言えない重苦しい空気が広がった。
それを気にかける様子もなく、フレッドは話を続ける。
「私はとある男爵家の長男として生まれたのですが、当然、両親は私のスキルを知って絶望しました。とりわけ、父は失望しましてね……。気がつけば、家の後継者は弟に代わっていました。そして、私はいないものとして扱われるようになりました」
ワインをひと口飲み、どこか遠くを見たフレッドは懐かしそうに笑う。
「全く傷つかなかった、といえば嘘になりますね。しかし、そんなことが気にならないくらい、私の心は、このスキルを初めて手にした時に感じた喜びが占めていました。昨日まで見たことのないものが、自分の頭の中にだけ見える。それが自分だけの宝物のように思えてね……。きっと、私はこのスキルに魅せられてしまったのでしょうね」
少し目を細めながら、虚空を見つめる。
その先には彼の瞳にだけ映る、一本の棒と五つの赤い玉が見えるのだろう。
彼の瞳は愛おしいものにそっと触れるような、慈しみに似た色を帯びていた。
「父や家族が認めてくれなくても、私はこの【アバカス】というスキルが好きだった。なんの役にも立たないスキルでも、ね。私は毎日、暇さえあればこのスキルを使って簡単な計算を繰り返しました。玉を動かすだけで心が弾んで楽しくてね」
ふと、目の前のフレッドと、十五歳の少年のフレッドの姿が重なるような感覚を覚えた。
穏やかな笑みを浮かべる彼を見つめながら、ジョアンナの脳裏にかつての記憶がよみがえる。
すっかり忘れていたが、ジョアンナもスキルを授かったばかりの頃、同じように感じたことがある。
【ログインボーナス】という、聞いたことのない言葉。
自分にしか見えない、不思議な板。
初めて「ログイン」と書かれた枠を押した時の胸の高鳴り。
今では画面やボタンという言葉にすっかり馴染んでしまったが、当時は「板」とか「枠」などと呼んでいたそれらを見るだけで楽しくて……暇さえあれば画面を出して見つめていたものだ。
調査が進むにつれてスキルについて考えることすら苦痛になってしまったが、最初はそうではなかった。
──そうだ。最初は[ログイン]を押すたびにワクワクしていた。
忘れていた気持ちを思い出したジョアンナとフレッドの視線が交錯した。
「そして、十六歳の誕生日の日の朝。目覚めてすぐにスキルを使おうとした私は、心臓が止まるほど驚いたんです。昨日まで一本だった棒が……なんと三本になっていたのです」
「!」
驚きに満ちた空気が広がった。
「それから、棒は一年に二本ずつ増えていって、今では両手の指どころか足の指を使っても到底足りない数の計算が瞬時にできます。このスキルで手に入れた計算能力のおかげで、研究所の試験にも合格することができました」
フレッドは全員の顔をゆっくり見つめてから、小さく微笑んだ。
「私が研究所の試験に合格したことを知った父は、焦ったような顔をしていましたね。数年ぶりに、私の好物が食卓に並ぶようになったりしてね」
何かを洗い流すように、フレッドはワインを飲み干した。
「なんとか関係を改善しようとする父たちを見つめながら、心がスッと冷えていくのを感じました。きっと、家や家族への愛情は、とうに薄れていたのでしょうね。私は迷うことなく家を出ることにしたのです」
まるで特大のいたずらを成功させた少年のように、おかしそうに笑う。
その笑顔は少しだけ寂しそうに見えた。
「ジョアンナ様のスキルを知った時、かつての自分に少し似ているなと思いました……」
ワインをひと口飲みながら、ジョアンナに向けて軽く微笑んだフレッド。
「家族の雰囲気も含めて」という言葉を、彼が胸の中でそっと飲み込んだことをジョアンナは知る由もない。
「だから、【アバカス】のように毎日続けることで何か変化があればいいなと願っていましたが、まさか1000日もかかるとは……」
最初のスキル調査は500日目に終了した。
その最後の日、去り際にフレッドから言われた言葉を思い出す。
「調査はこれで終了ですが、できれば「ログイン」と書かれた枠を押すことを続けてください」
あの時は、続けることに意味なんてあるとは思えなかった。
ただ、なんとなく。
止めてしまう勇気がなかっただけだ。
フレッド自身の経験やあの時の彼の気持ちを知って、ジョアンナの心には感謝の思いが広がった。
それと同時に、もしも[ログイン]を押すことをどこかで止めてしまっていたら……。
そんなあり得た自分の未来を想像して怖くなり、ジョアンナは無意識に手をギュッと握りしめた。
その手を包むように、ヴィンセントの手が重なる。
手袋越しでも、彼の体温に触れ、ジョアンナは安心したように力を抜いた。
「本当によく頑張りましたね」
誰の耳にも届かないほどの小さな声で、フレッドは呟いた。
彼女を守るように寄り添うヴィンセントの隣で、安心した表情を見せるジョアンナ。
若い二人を見つめながら、柔らかく目を細める。
ジョアンナは知らないことだが、本来であれば彼女のスキル調査は一年目に終わりを迎えていたはずだった。
それをフレッドは研究所に交渉して、なんとか伸ばしたのだ。
しかし、それも500日が限界だった。
あの頃、いつも心細そうな色を浮かべていた瞳の少女は、自分の居場所を見つけて心から幸せそうに微笑んでいる。
こんな瞬間に出逢うたびに、この仕事を選べたことへの喜びを感じる。
ふと、視線を感じて目を向ければ、意味ありげな瞳でこちらを見つめているケルヴィンと視線が交わった。
──これは……、色々と調べられていそうだな。
貴族時代にケルヴィンと顔を合わせたことはないが、男爵家の当主となるべく教育を受けてきたのだ。
政治にも長けている、目の前のケルヴィンの恐ろしさもよく知っている。
ジョアンナの【ログインボーナス】は、その希少性や有用性から、研究所でも高い注目を集めている。
そのため、再び彼女のスキルの調査が行われることになった時には、担当を希望して手を挙げる者が多かった。
そんな風に希望者が多い場合は、役職や実家の家格などで決まることが多い。
フレッドも担当を希望したが、平民となった自分が選ばれることはないだろうと諦めていた。
ところが、予想に反して、自分が担当者に選ばれた。
──恐らく、ケルヴィン様が何らかの手を回したのではないだろうか。
そんな考えが一瞬頭に浮かびかけたが、ふっと息を吐いてそれを打ち消した。
──どちらでも、いい。今の自分には関係のないことだろう。
心の中でそう呟いたフレッドは、穏やかに微笑むジョアンナを見つめてから、ワインを飲み干した。
その頃。
ジョアンナの妹のキャロラインは、夫のフィリップと一緒に馬車に乗っていた。
彼女の瞳は怒りに満ちていて、見るからに機嫌が悪い。
フィリップはそんな彼女を軽く見つめ、疲れたように小さく息を吐いた。
頭に血が上っているキャロラインは、夫のそんな様子に気がつかない。
──何よ! お姉さまの話ばかりして……。
今日は久しぶりに夫婦で夜会に参加したのだが、そこでキャロラインは散々な目にあったばかりなのだ。
夜会で言われた言葉を思い出して、頭に熱が集まる。
「ジョアンナ様はお元気ですか?」
「ジョアンナ様の活躍は聞いていますわ」
「ジョアンナ様は夜会に参加されないのかしら?」
今日話しかけてきた誰もが、ジョアンナとの繋がりを期待してキャロラインに声をかけてきた。
──ジョアンナ様、ジョアンナ様って、何よ! 本当、お姉さまなんて、大嫌い!
思わず唇を噛み締めたキャロラインの目に、馬車の窓に映った自分の姿が映る。
──それに、このドレス……。私は、メンシ―のドレスがよかったのに……。
今、王都で一番人気のデザイナーのメンシ―。
茶会や夜会に行くと、彼女のドレスを着ている女性が多い。
キャロラインもメンシ―のドレスを着たかったのだが、領地の経営が厳しいという理由で仕立ててもらえなかった。
仕方なく持っていたドレスを着ていったが、そのことにもキャロラインは不満がある。
──結婚したばかりの頃は、何でも買ってくれたのに……。
最近、贈り物の少なくなった夫が視界に入り、自然と溜め息が漏れる。
キャロラインはうんざりした気分で外に目を向け、馬車に揺られるのだった。




