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■1冊目 第2話  放浪青年と天の神①


「で、エルアンナはどうなのよ?」


 ようやく自分の恋心を認めた娘・シェガが、次に件の男から話しかけられた時は少しくらい素直に返事をしてみる、と渋々約束したところで、この日の相談は無事に終わるはずだった。しかし、帰るために巻き布を抱え直していたアシャニナは立ち上がることもなく、今度は私に興味深そうな視線を向けてくる。


「何がどうなのよ。今の話なら、後は本人達でなんとかするしかないでしょ?」

「違う違う。あたし達の恋愛は何でも聞きたがるくせに、エルアンナ自身には好きな男とかいないのかなって。これだけ毎日人の話聞いてるんだから、一人くらいいてもよさそうじゃない?」

 突然矛先を向けられた。なんでも聞きたがってるわけじゃない、たまたまそういう場面に居合わせることが多いだけだ。作業途中の糸を指へ巻きながら、分かりやすく眉を寄せて話す。


「⋯⋯いないわよ。いたら多分、あんた達の話を今よりもう少し余裕を持って聞けてるはずよ?」

 その返事が予想外だったのか、アシャニナだけでなく、先ほどまで顔を真っ赤にしていたシェガまで顔色をくるっと変え、顔を見合わせて笑った。


 そろそろ日が高く登る頃だ。神殿の工房では、相談が始まる前と同じように女達が働いていることだろう。羊毛を紡ぐ者がいれば、それを受け取って織機へ向かう者もおり、出来上がった布は別の女が縫い合わせる。女達が恋をしていようが失恋していようが、神殿へ納める織物や衣類の期限が延びるわけではない。本来なら神殿の織子のアシャニナと針子のシェガも、街の職人のエルアンナも、そろそろ手を動かさなければならない。


 ⋯⋯恋愛というものは、仕事を代わってくれることはなくても、仕事の手を止めさせることには随分と長けているらしい。作業途中で指に巻き付けた糸の先を宛もなく動かしながら、少しいたずらっぽい顔をしてみせる。


「なぁに、その顔。まさかとは思うけど、私が恋愛に興味ないとでも?」

「だって、人のことになると妙に落ち着いてるでしょう? てっきり、エルアンナ·····ルナはそういうのに興味ないのかと思ってた。恋なんて無理にするものじゃありません、とか言いそうだし」

 ⋯⋯途中から名前をあだ名で言い直してきたあたり、そろそろ真面目な話ではなく、他愛もない雑談といった色に変わったようだ。


「そんなこと言わないわよ? 私だって恋くらいしたいわ。好きな人に会っただけで一日機嫌が良くなったり、名前を呼ばれただけで夜まで思い出したり、他の女と話してたらちょっと嫌になったり⋯⋯毎日のようにそういう話を色々なパターンで聞かされてるんだから⋯⋯流石に、一回くらいは自分でも経験してみたいって思うでしょう?」

 顔の赤みが落ち着いて、少しニヤついているシェガを、わざとらしく上目遣いにして見つめ、家の外に二人を追い出しながら煽る。


「特に今日は、朝からずーーっと、『好きじゃない』って言い張ってる人を見せられたんだから」

「ちょ、ちょっと、ルナ!それはもういいよね!?」

 シェガは再び顔を赤くしたが、今度は先程のように必死に否定することはなかった。


 私は、他人の恋愛についてなら、多くのことを知っていた。

 好きな相手と目が合えば嬉しくなることも、話しかけられただけでその日の出来事を何度も思い返すことも、相手が別の誰かに親しくすれば自分でも驚くほど腹を立てることも知っている。自分の感情に気づかない者もいれば、気づいているくせに認めようとしない者もいる。それらを傍から眺めている分には、どうしてそんな簡単なことが分からないのだろうと思うことさえある。


 ただ、それを自分自身で経験したことはない。

 別に望んでいないわけではない。


 ⋯⋯単純に、相手がいなかった。


 アシャニナ達は神殿に仕える下女であり、仕事も寝床も人間関係も、その大半が神殿の中で完結している。恐らく、他の都市国家と戦争した後に連れてこられた奴隷の子だろう。一日の生活だけでなく、一生の人生が神殿を中心に保証されている。同じような経緯で神殿へ属する男達もまた、多く存在する。幼い頃から顔を知る者と、年頃になって番い、そのまま同じ場所で働きながら暮らしていくことも珍しくないものだ。


 一方、エルアンナの父親は他所から来た職人であり、神殿やキシュ王から仕事を任されるくらいには腕を認められている。裕福な家でもなければ、高い身分を持っているわけでもないが、娘が結婚するとなれば相手の家や仕事をまったく考えなくていいという立場でもない。母と結ばれたのも、行商と共にキシュに織物を売りに来た際、針子の母を見初めたからだ。

 同じくらいの年齢で、それなりに釣り合う男が身近にはいなかった。いないものとは恋愛のしようがない。


「だからアシャやシェガの方が羨ましいのよ。同じ神殿に同年代の男子がいくらでもいるんだから、少なくとも『好きになる相手そのものがいない』なんてことにはならないでしょ?」

「でも小さい頃から知ってる男ばっかりだよ? 鼻垂らして走り回ってた頃まで知ってる相手⋯⋯なんなら昔は遠慮なく蹴ってシバいてこき使ったヤツなんかに、今さら急に男らしい顔されても笑っちゃうし。選べるって言われてもそれはそれで困るんだけど」

 アシャニナは、思っていたよりもガツガツとしたタイプの女の子だったようだ。今は随分と丸くなって⋯⋯。


「それでも候補がいるだけいいじゃない。私は選ぶ以前の問題よ。これだけ他人の恋愛ばっかり見てるのに⋯⋯はぁ。自分だけ何もないんだから、そりゃ少しくらい羨ましくなるわよ」


 そこでようやく、少し離れた場所から年上の女の視線が刺さっていることに気がついた。シェガがそちらを見ると、女は何も言わずに工房の方へ戻っていく。仕事をしろ、という意味なのだろう。


 言葉にされなくても伝わることは多い。

 それからしばらくは、三人ともそれぞれの持ち場で、大人しく手を動かした。


◇ ◇ ◇


 昼を過ぎ、仕事を終えたエルアンナとアシャニナは市場へ続く大路の脇で、椅子に座って通りを眺めていた。


 件の男にアピールしようと画策するシェガとは神殿前で別れた(見られたくないとシェガに追い払われた)ものの、アシャニナはどうやら工房での話題をまだ忘れていないらしく、道行く男を見つけては勝手に候補へ挙げていく。


「ねぇ、アシャ、そろそろ忘れてくれないかな?」

「今の神官のところの長男は年上すぎるし、革職人の息子は確か今年婚礼だったよね。だったら西部地区に住んでる織物商の次男とか、家同士の付き合いもあるんじゃない?」


「あの人はもう妻がいるわよ。去年、あんた自身が婚礼の宴で酒を飲みに行ったでしょう? 人の相手を探すなら、その人が既婚かどうかくらい覚えておいてよ⋯⋯」

「そうだったっけ。じゃあ本当にいないねぇ」


 アシャニナは妙に真剣な顔をして辺りを見渡す。


 昼の大路には、朝よりも多くの人が行き交っていた。神殿へ品を納め終えた商人が市場へ戻り、運河では船から降ろされた大麦の袋を男達が荷車へ積み替えている。大分高くなった太陽を避けて建物の壁際へ寄る者も多く、道の端では、仕事を終えたロバまで水桶へ顔を入れたまま動こうとしなかった。


 街には、男自体はいくらでもいる。


 ただし、男がたくさんいることと、エルアンナが恋をする相手がたくさんいることは同じではない。


「あ、じゃああれは?」


 アシャニナは、運河沿いを示した。


「また? 今度は誰よ⋯⋯あと、あれって呼ぶのは失礼よ」


「あそこに立ってる男。見たことないけど、エルアンナと年も近そうだし、少なくとも顔はかなりいいじゃん。知ってる男にろくなのがいないなら、知らない男にしたら?」


「まったく、新鮮な魚を選ぶみたいに言わないでよ」


 エルアンナは運河を見ている。


 キシュには周辺の街や村から毎日のように人が訪れるため、知らない顔が一つ二つあること自体は珍しくない。ただ、商人や職人の格好でない人がいるとしたら、確かに珍しい。


「流れの商人っぽくもないし、ルナの家の仕事との相性悪くはなさそうだよ。」

 それ以上に、アシャニナがわざわざ見つけた理由はすぐに分かった。


「……まあ、たしかに顔は悪くないわね」


「ははーん、言い方で誤魔化そうとしてるけど、今けっこう気に入ったでしょ?」

 アシャニナは、エルアンナの頭を両手で挟んで固定して、バレてるぞーとからかう。


「アシャが聞いたから答えただけ。……でも、うん。近くで見て同じなら結構好みかも」


「だったら話しかけてきなよ。さっき自分で恋したいって言ってたんだから、知らない男が怖いなんて今さら言わないよね?」


「恋したいのと、何の用もないのに知らない男へ話しかけるのは別でしょう? いきなり近づいて『顔が好みなので話しませんか』なんて、さすがに言えるわけないじゃない」


 アシャニナは声を上げて笑った。


「そんなに正直に言わなくてもいいでしょ。どこから来た人ですか、とか、そのくらいでいいんだって。それともエルアンナ、人には『本人に聞けば分かる』って言うくせに、自分のことになると急に何も出来なくなるの?」


「⋯⋯痛いところつくのね。『本人へ直接聞く! 話せば伝わる! 勝手に想像して悪い方へ考えない!』はいはい、確かにそうですね?」


「ルナもたまには! 少しくらいドキドキしてきな!」

 アシャニナが、エルアンナを無理やり立たせて、背中を押す。あわや荷車にぶつかるところだった。エルアンナは、よろめきながら振り返る。


「……ちょっと待って。なんか、あの人変かも」

「さっきまで顔の話してたのに、急にどうしたの?ちょっと近づいたら違った」


「上手く言えないけど、何考えてるのか全然分かんなくて。⋯⋯近くで見ればもう少し分かるかもしれないから、ちょっと話してみる」

「ほら、結局行くんじゃん」

「だから顔だけが理由じゃないってこと!」


 エルアンナは、堂々とした面持ちで、大路を横切る。風で流れた横髪を耳にかけながら、服の乱れを整えつつ歩いていく。


 肝心の男はどこだろうか? ここからは姿が見えない。エルアンナは、まっすぐ歩いている。他に人は見当たらないが⋯⋯運河の向こうだろうか?


 ⋯⋯うん?


 そのままエルアンナが、ぐっと顔を近づけてくる。


「ねぇ、キミ⋯⋯ちょっと、私が見えてる?」


 何故かエルアンナは、そのまま俺にぐっと顔を近づけて覗き込んでくる。彼女の首飾りが揺れ、石がキラキラと輝いている。無視していると、少し顔を赤らめた彼女が、俺の肩を叩いてくる。


「ちょ、ちょっと、私の事見てる癖に、返事はないわけ?」

 あぁ、どうやら彼女は、俺に話しかけていたらしい。とすると、二人が話していた目的の男は、俺の事だったのか。


「すまない、盗み聞きをしていたことについては謝罪する」

「盗み聞き⋯⋯え、ちょっと、私達の話聞いてたの!?」

 彼女は顔を逸らしたが、何を恥じらったのか、一層頬を染めている事が認識できる。


「キシュに来たのは今日の朝で、まだあまり勝手が分かっていないから、人の行動を観察していたんだ。」

「ふ、ふーん。なるほどね、キミは商人や職人には見えないけど⋯⋯私は、織物職人の家の⋯⋯」

「エルアンナ、だな」

「!? あぁ⋯⋯話聞いてたんだっけ。」

「他にも、外を歩いていた女が、お前の噂をしていた。『恋愛で困ったらエルアンナに質問一択!』とか⋯⋯」


「あーもう恥ずかしい⋯⋯アシャシェガのせいだ⋯⋯と、ところで、キミはどこから何しにキシュへきたの?」

 俺は返答に困った。なぜなら——


「それが、俺にもよく分かっていない。通りすがりの行商に話しかけたら、キシュに行くところだというから、そのまま着いてきた。目的は特にないな」

「えぇと⋯⋯その前はどこにいたの?」

「気がついたらキシュの南方の街道にいた」


 事実を、ありのままに答える。俺は、以前の自分についての記憶が欠けているのだ。身なりは特別ではなく、身体はそれなりに鍛えられているが、傷はない。道具もないから、戦士でも商人でも職人でもない。もし高貴な身分の人間だったなら、こんな所に一人でいるはずはないだろうし、もっとたくさんの装飾品をつけているはずだ。今身につけているのは、左耳にイヤーカフ型の耳飾りが一つ。それも高級そうではないし、普通の若者だろうと自分では予測をたてている。


「キシュの街に見覚えはないから⋯⋯恐らくはもっと南方の街出身なんだろうな」

「え、ちょっと待って、あまり上手く飲み込めてないんだけど⋯⋯つまり、記憶喪失でここまで来た、ってこと?」

「⋯⋯あぁ、そうなるな」


 エルアンナは、後ろを向いて少し跳ね、アシャニナへ何か伝えたあとに、こちらを振り返ってばつの悪そうな顔をした。

「ごめんね、大変な時に色々話しかけちゃって」

「いや、俺も正直困っていたから、現地の人と交流できて助かった」

 それなりにまともに返答したつもりだが、腹の虫が鳴いてしまって、随分と間の抜けた印象になってしまったようだ。


「ふふっ。ねぇ、お腹すいてる? 良かったらうちに来て何か食べない? 色々聞かせてよ」


 正直、腹が減って仕方がなかった。俺は、エルアンナに連れられて、彼女の自宅へ向かうことになった。アシャニナは、その頃には既に姿を消していた。



やっとちょっと面白くなってきた気がします。

文章がだいぶ長くなるので、ここからは分割していきます。想定より長くなる見込みです。

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