■1冊目 第3話 放浪青年と天の神②
◇ ◇ ◇
エルアンナの家は、神殿と市場のすぐ近くで、運河沿いを少し歩けばすぐ見える所に位置していた。今朝、二人の友人が入っていくところをたまたま目撃していたため、記憶に新しい場所だ。
家は日干しレンガを積み上げて作った壁で、屋上付きの二階建てだ。中に入れば、熱気は厚い壁で遮断されてひんやりと心地がいい。彼女は、見ず知らずの俺に対しても、丁寧に家の中を案内してくれた。
「まずここが玄関よ。正面は中庭へ続いているわ。風が気持ちいいでしょう?中庭を囲んで、居間、織物
室、家事室と続いているの」
彼女は普段は織物室で機織りや針子の仕事をしているという。なるほど、中庭に羊や山羊といった家畜がいるのは、仕事のためでもあるらしい。その他にも、中庭にはかまどや物干し場もあり、なんとも効率的な配置に感じられた。真ん中に庭、四方に部屋を配することで、風が部屋の中を通り抜けていく。
「二階には、玄関から階段を上がって、家族それぞれの部屋があるわ。さらに上がれば屋上ね」
この街まで来る道中は、中々に暑かった。その点、行商達は本当に辛い中移動をしている事がわかる。自分と一緒にこの街に来た商隊も、幌や傘で日差しを遮り、川沿いのナツメヤシの木陰で休憩しながら来た。
「ここまであまり飲み食いしてないんでしょう?デーツ酒かビールだったらどっちがいい?」
彼女は、居間に案内しながら、飲み物を勧めてくれた。水でいい、と答えると、『だめよ!栄養価の高いビールか、それが苦手ならデーツ酒を飲みなさい!』と押し切られる。そのまま、机に葦の茎のストローと、小さな壺に入ったビールが置かれる。
ビールは麦粉を発酵させた飲み物で、どろどろとして麦の粒子が浮いている。麦の殻を避けてストローで吸うと、確かにエネルギー満ち溢れる味がした。この地域では、子供から大人まで大好きな味で、パン代わりに労働後に支給されることもあるそうだ。
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(注︰この時代のビールはアルコールの度数が低いもので、全ての世代の人々が様々なレシピで飲んでいた。@執筆者R.A先生による補足)
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ビールに舌鼓を打つ間に、エルアンナはテキパキと食事を運ぶ。薄焼きの大麦パン、山羊の乳を使ったバターとチーズ、乾燥させた果実が並び、流石に遠慮なしには食べられないほど振る舞われる。
「こんなに沢山食べてもいいのか?」
「それこそ、私が『記憶をしなって放浪する青年を放置して、栄養失調で死なせた』なんて噂が経ったら困るもの」
彼女は庭の方へ顔を向け、自身も一口ビールを飲んだ。
パンとバター、チーズは非常に食べ合わせが良かった。塩気が、パンの旨みを引き出して、噛めば噛むほど味が染み出す。奪われた水分を補給するために、ビールも一口、また一口と飲み進め——最後は果実をつまみに、エルアンナと二人で他愛もない話をしながら酒を飲んだ。俺の無知に対し、彼女は仕方ないわね、と細かく教えてくれる。
「そういえば、キミの名前はまだ聞いてなかったわね」
「あいにくだが、名前も忘れてしまったんだ」
「あー⋯⋯まぁ、そんなところだと思ったよ。私の名前は忘れてないよね?」
「エルアンナだろう?」
「うんっ、ちゃんと覚えてるわね! 新しいことは覚えられるのか⋯⋯それなら、私の事、愛称で呼んでもいいわよ。友達は私の事——」
「レナ、だったか?」
「残念、少し惜しい! ⋯⋯って、なんで知ってるの!?」
「⋯⋯たまたま、友人との会話を道すがら聞いたんだ。⋯⋯なんなら、この家に二人の少女が相談に来た所も見かけたぞ」
「⋯⋯ほんと、正直不気味ね⋯⋯そんなことは覚えなくてもいいのに。私の愛称は、レナじゃなくてルナ!」
「ルナ⋯⋯少し発音が難しいな」
「私の名前はね、父の国の言葉で『神様』を意味するエルと、この国の言葉⋯⋯つまり、母の国の言葉で『天の~』を意味するアンナを合わせた名前なの。だから、エルの方は、南部の出身だと発音が難しい人もいるみたい」
⋯⋯そうなると、俺はもっと南部の出身なのかもしれない。エレ、エレ、エル⋯⋯エルという綴りは、発音が難しい。
「⋯⋯レナでもいいよ、呼び方。⋯⋯キミだけ特別ね。」
そういう彼女は、屈託ない笑顔で答えた。⋯⋯目元だけは少し、母が我が子に向けるような眼差しにも似た表情をしていたが、見た以上の意図は分からなかった。
◇ ◇ ◇
「ねぇ、キミ⋯⋯ちょっと、私が見えてる?」
私は、男の顔を覗き込む。目をしっかりと見て、仕草も見逃さない。なのに、この男の考えていることは全く読めない。恋愛相談に来る少女や夫婦なら、目の色や瞬きの仕方、手の置き場や呼吸の頻度といった情報から、大方の思考を読むことができた。私は昔から、そういった感情の機微を測るのが得意だった。
目が合っているのに、何を考えているか分からない。瞳の奥に映るのは⋯⋯無か? しかし、その貌を見ていると確かに美形で、逆に吸い込まれてしまいそうな気さえする。身体に少しの寒気と、顔に火照りを感じながらも、彼の存在を理解しようと、肩を叩いて声をかける。
「ちょ、ちょっと、私の事見てる癖に、返事はないわけ?」
あぁ、どうしてもっと素直に聞けないのだろう。私のバカバカ! 印象最悪だよ~! 思考がまとまらない事に腹を立てながら、彼の出方を伺う。
「すまない、盗み聞きをしていたことについては謝罪する」
「盗み聞き⋯⋯え、ちょっと、私達の話聞いてたの!?」
⋯⋯まずい。勝手に批評していたことがバレている。なんなら、名前まで覚えられてしまっている。
私はこれまでの人生で、できるだけ誠実で愛嬌のある人物になるために努力してきた。職人の家の娘であれば、知識だけでなく、人脈も大切だ。それに、愛する両親がエルアンナという名前を与えてくれたのだから、それに恥じない人間でありたいと思っている。何とかして挽回したいと必死で、額を汗の雫が流れる。
しかし、この青年は過去の記憶がなかった。身なりからして平民だが、この街の人間ではない。荷物もなく、金や生活用品、食べ物の類も何も持っていない様子だ。
「え、ちょっと待って、あまり上手く飲み込めてないんだけど⋯⋯つまり、記憶喪失でここまで来た、ってこと?」
「⋯⋯あぁ、そうなるな」
なんとまっさらな人だろう⋯⋯。神が泥を捏ねて創り出したという原初の人は、このような無垢で美しい人だったのではないか、と思考が飛躍する。それと同時に、今までの人生では出会うことのなかった特異な青年に、それまで以上に好奇心を覚えた。
後ろを振り返り、喜びのあまり少しジャンプしながらアシャニナへ手を振る。手振りで、『この人、良さそう!』と伝えると、アシャニナはニコニコしながら手を振って離れていった。
しかし、自分がこの好奇心に現を抜かす間にも、彼は記憶喪失で困っているのだ。まずは、彼の手助けをしなくては。すると、青年の腹の方から聞き覚えのある音が鳴った。本当に何も持っておらず、飲み食いもできていないらしい⋯⋯あぁ、彼は神の作った原初の人ではなく、本物の肉体のある人間だ。
「ふふっ。ねぇ、お腹すいてる? 良かったらうちに来て何か食べない? 色々聞かせてよ」
家も、仕事も、今日食べるものすらないというなら、少なくとも父親のところへ連れていけば荷運びの仕事くらいはあるだろう。
「……とりあえず、うちに来ない? 父さんが職人をやってるから、身体を使う仕事くらいなら何か任せてもらえると思う。それに、今日寝るところもないんでしょう?」
彼が了承すると、いつもよりも少し早足で家路についた。
◇ ◇ ◇
その日の晩、父親は当然、困っていた。
仕事から我が家に戻ると、愛する一人娘が家も名前も出身も分からない男を連れてきて、「この人に仕事ない?」と言い出したのだから、困らない方がおかしい。そして、娘を疑えばいいのか、あるいは男を疑えばいいのか、はたまた事実かどうかも検討がつかず、思考が乱れる。
「⋯⋯ひとまず嘘では無いという事情は分かったが⋯⋯分かったことよりも、分からないことの方が多いじゃないか。お前は昔から妙なものを拾ってくるが、ついに人まで拾ってきたのか?」
「お父様、人を捨て犬みたいに言ってはいけないのよ! そんなこと、私にだって分かるわ。いえ、何も分からないのだけど、あのまま運河の横に置いてくるわけにもいかなかったんだから仕方ないでしょう?」
それは確かに、同意せざるを得ない。この行動については、誇りに思う。
「だが、神殿に身元を預けたり、聞き込みを依頼すればいいんじゃないか?」
「そんなのダメよ! 神殿を信用しないわけじゃないけど、神殿の仕事しか選ぶ権利が無くなってしまうかもしれないでしょう?」
神殿は、孤児の受け入れも行っている。それは、一生神殿に仕える仕事をすると同義だ。そして、神殿に使える者から生まれた子もまた、神殿に仕えるのだ。もし彼が神殿に関係の無い仕事をしている人間なら、その流れには組み込みたくはなかった。
ついでに、彼が神殿に行ったら⋯⋯そこで女の子達の注目の的になることも容易に想像出来、それだけは避けたいとエルアンナは無意識に考えていた。
「それに身体は丈夫そうだし、父さんの仕事なら荷物を運ぶだけでも手伝えるじゃない」
父親は、納得していない顔をしたまま、今度は男へ向き直った。
木材を運べるか、道具を使ったことはあるか、職人仕事を見た経験はあるか、などと順番に尋ねる。この男は知らないことについては素直に知らないと答えたが、重い物を運ぶことは出来るし、道具も見れば扱い方くらいは覚えられると思う、と妙に自信のあることを言った。こういう、自信のある前向きな態度は⋯⋯娘に似ている。
それなら明日試してみろ、と父親が折れた頃には、エルアンナの顔は晴れやかで、何者にも変え難い愛らしい笑顔だった。
父と青年の二人分の夕食を出すと、青年は最初こそ器の中身やこちらの食べ方を確認するように眺めていたものの、一度見ればその後は何の問題もなく食べ始めた。知らないことは異様に多いくせに、一度教えられたことを覚える速度は妙に早い。
「⋯⋯変な人」
そう思いながら、エルアンナは何度か青年を見た。
「いや、口に出ているぞ」
青年もこちらを見る。目が合う。少し嬉しい⋯⋯そう感じてから、自分で自分に呆れた。彼の指摘は上の空で、私の頭では意味を理解できない。
つい昼間、好きな人と目が合っただけで嬉しくなるような恋を一度くらいしてみたい、と話したばかりではある。しかし、出会って半日も経っていない男を好きになったというのは、いくら何でも気が早い。
顔が好みだから。たまたま変わった人だから。
きっと、それだけだ。
少なくとも今のところは、自分の心のもやもやに、そういう言葉を模範解答として決める方が都合がよかった。
◇ ◇ ◇
キシュ街の中へ、城壁から覗く朝日が再び差し込む。
青年は、宿泊先の家の物置で目を覚ます。この家の主人は日の出より少し早く起きて仕事道具を確認し、水を一杯飲んでから朝食を取る。エルアンナはそれより遅く、起きれば最初に中庭に出て、髪を洗い、身だしなみを整えてから家畜に餌をやる。
昨日市場で見た商人達は、今よりも早い時間から仕事を始めていた。俺は、その様子を窓から見下ろしながら、衣服を整えて居間へ降りる。今日は、家の主人⋯⋯エルアンナの父親が昔来ていたと言う服を借りて着ている。
人間には随分と多くの習慣がある。
食事をする時間があり、眠る場所があり、働く時間がある。その多くは誰かに命令されているわけでもないのに、昨日と同じように今日も繰り返される。俺にも、毎日していることがあったのだろうか? 居間からエルアンナの労働風景を見ていると、彼女もこちらを見つけたようだ。彼女は少し目を見開いてから、話しかけてきた。
「もう起きてたの? ⋯⋯ねぇ、昨日はちゃんと眠った? 今日は朝から工房へ連れていかれるんだから。昨日みたいに、分からないものをずっと眺めて夜更かしなんてしてたなら、後で困るのは自分だからね?」
昨晩は何となく眠くなくて、長い間、中庭に面した窓から夜空を見ていた。しかし、それをそのまま答えれば質問がふたつみっつと増える気がして、問題ないと答える。彼女には、どうやら夜更かしがバレていたらしい。二階の部屋も中庭を囲うように作られているから、彼女の寝室から見られたのかもしれない。
「問題ない。昨日教えられた仕事も覚えているし、君の父親についていけばいいことも分かっている」
「⋯⋯それならいいけど。私は途中まで同じ方向だから、一緒に行くわ。今度は勝手に立ち止まって、道の真ん中でロバとか人間とか観察し始めないでよ?」
昨日の俺の一連の行動から、予測される行動が見抜かれているらしい。
もっとも、エルアンナもこちらを随分長く観察していたので、お互い様というものだろう。
それを言うと、怒られるかもしれないということは覚えたので、指摘せず黙っておいた。
昨日から、他人との会話では、知っていることをすべて口に出す必要はない、ということも分かり始めている。
◇ ◇ ◇
職人の仕事は、思っていたより理解しやすかった。
一つの木材から必要な形を切り出し、削り、組み合わせる。すると木の枠が出来、それに紡いだ糸を引っ掛けて、張る。ピンと伸びた縦糸を伸ばし続けるため、重りを先端に付けると、あとは織り機にセットして横糸を通して織り込めば、布が完成する。糸紡ぎと機織り、そして端のほつれ止めのための縫い物と、装飾はえるアンナの仕事だ。そして、父親はその後の工程をいくつか抱えている。織り上げた布を街の外の川まで運び、川の水につけて踏んで柔らかくする。この工程をしなければ、布は身体に巻き付けられないほど硬い。柔らかくした布を乾かし、服としての機能を持たせるための紐等を縫いつければ完成だ。彼女の父親は、この布の着こなしのセンスが街一番であり、紐の位置一つで印象が大きく変わる。そのため、青年に任せられたのは木枠作りと道具のメンテナンス、布を洗う工程と、それらに付随した荷物運びだけだった。
明確な作業内容であれば、俺は得意らしい。目的へ辿り着くために必要な行動を、そのまま順番に行えばいい。
人間同士の会話での言葉を考えるより、ずっと分かりやすくて簡単だった。
その日の日が高く登った頃、エルアンナが、街の外の川沿いの工房⋯⋯父親の仕事場へやってきた。
「お父様、この人ちょっと借りてもいい? また相談に来た子がいるんだけど、今日は相手方の男にも話を聞きに行くから、一人くらい一緒にいてくれた方が助かるの」
エルアンナの父親は作業の手を止め、こちらが朝から仕上げた布の量を確認してから、少し呆れた顔⋯⋯と思われる表情をする。なぜこの場面でこのような表情をするのだろうか?
「⋯⋯あぁ、連れていけ。こいつは朝から他人の倍以上働いてる。まったく、初日からそんな調子じゃ、仕事を用意する方が困る」
仕事を多く行うことがなぜ悪いのかは、俺には理解出来なかったが、エルアンナは嬉しそうだった。
彼女が嬉しそうにしている分には、俺も嫌な気持ちにはならない。そのまま彼女について行った。
「キミは、過去の記憶を忘れてしまっただけでなく、随分と感情にも疎いのね」
目的地までの道のりを歩きながら、彼女が俺の在り方について尋ねてくる。
「⋯⋯自分が物を考えるための根拠がないと、あまり実感がないせいかもしれない」
「なるほどねぇ⋯⋯まずは名前よね、呼び名が無いとこっちも困るもの。キミの名前⋯⋯勝手につけてもいい?」
「あぁ、問題ない。本当の名前が分かるまでは、その名前を名乗ることにしよう」
「目覚めた時に最初に見たものは?」
「そうだな⋯⋯あそこは街道沿いの、灌漑農地のすぐ横で⋯⋯目を開けたら、夜空が広がっていた。地面に仰向けに倒れていたからな」
その後、周囲を彷徨っていたところを行商たちに拾われ、キシュの街まで来た。俺の新しい人生が始まってから、なんとも短い時間しか経っていない。
「夜空⋯⋯星⋯⋯ル・ムル・アンキでどう?」
「⋯⋯星と宇宙の男、か」
「ねぇアンキ⋯⋯どうかな?」
そう呼ばれると、自分で思っていたよりも何か腑に落ちるものがあった。きっとこの名前ではない。しかし、そう呼ばれることが自然に感じられた。名前のせいだろうか、それともこちらの様子を伺う彼女の顔をみて感じたのだろうか。
「ありがとう、暫くはそう名乗ることにするよ」
「⋯⋯ふふ、決まりね。」
「そうそう、キミ⋯⋯アンキを連れて来たのは、相手に話を聞くためだけじゃなくて、色々な人の感情を知って欲しいからなの」
「⋯⋯あぁ、朝にも感情の機微に疎い件について、レナに指摘されたばかりだからな」
この愛称で呼ぶのは今回が初めてだ。レナは少し目を細めると、数歩分だけ黙って歩いた。
「だからね、私がいつもやってる『恋愛相談所』、その助手に任命するわ!」
「⋯⋯俺になにか出来ることがあると思うのか?」
「⋯⋯ないわ、今のところ」
わざとらしく肩をすくめるレナ、その演技らしい動きが可笑しくて、笑うと少し睨まれた。
「だから、恋愛について勉強してもらうの! アンキにね」
「そうだな、今の俺は恋愛感情についてはさっぱり理解できない。少なくとも、そう思う」
「随分と悲しいこと言ってくれるじゃない?」
レナは今回の相談の概要をまとめ、情報を共有してきた。
今日相談してきた女には、近いうちに婚礼を行う予定の男がいるという。
家同士の話も済んでいる。
男も女を好いている。
女も男を好いている。
しかし、男が突然婚礼を延期した。
相談してきた女は、男の心変わりを疑っているが、レナはそれを否定したという。
「少なくとも、あなたを嫌いになったようには見えないよ。昨日話してた時も、あなたの名前が出るだけで表情が変わってたし、今だって本当はすぐ会いに行きたいと思ってるはず。ただ、何か別の理由で婚礼を待ちたがってるんだと思う。だから、まず本人にちゃんと理由を聞こう?好きかどうかと、結婚出来るかどうかは同じ問題じゃないから」
⋯⋯なるほど。
恋をしている二人がいる。
互いに好いている。
それでも一緒になろうとしない。
昨日までに聞いた話では、恋をした人間は相手へ近づきたがるものだったはずだが、どうやらあえて近づかないこともあるらしい。非常に複雑だ。しかも、レナはそう主張するものの、女は諦めと疑いの意識に変わっている。
今の率直な疑問を、レナにぶつける。
「君は恋というものがよく分かると言っていたが、好いている相手と離れようとするのも恋なのか? 近づきたいという説明と矛盾しているように思える」
レナは、少し遠くを見ながら、歩く速度を緩めて回答した。
「私だって全部分かるわけじゃないよ。でも、好きだから近づきたい時もあれば、好きだから我慢する時もあるんじゃない? 家のこととか、仕事のこととか、自分達だけじゃどうにもならないことだってあるし。⋯⋯それを全部ひっくるめても好きでいられるから、皆あんなに悩むんだと思う」
まだ理解出来ない。しかし、分からないからといって、存在しないわけではないらしい。今回の件は、いい参考事例になるかもしれない。
「あなたは? 誰かを好きになったこと、一度もないの?」
人間が恋と呼んでいるものに、自分の中の何かが該当するかを考える。見つからなかった。目を開け、夜空を見上げてからの短い人生では、思い当たる感情はない。
「ないと思う。少なくとも、君達が昨日から説明しているものと同じ状態になった記憶はない」
「そっか。⋯⋯じゃあ、そこは私と同じなんだね」
エルアンナは、少し口角を上げて、俺に笑顔を見せた。
同じであることが、なぜ嬉しいのかは分からない。ただ、仕事場から連れ出された時と同じように、その顔をもう少し見ていたいと思った。
昨日、運河を行く船を見た。市場へ運ばれる大麦を見た。水を運ぶ女と、その進路を塞ぐロバを見た。神殿へ向かう途中で、一人の男について話しながら顔を赤くする女達も見た。人間について知るために、多くのものを見てきた。
だから、俺がエルアンナを⋯⋯レナを見る回数が増えたことにも、何か理由があるはずだった。
彼女はよく喋るし、よく笑うし、表情も頻繁に変わる⋯⋯他の人間より、観察出来る情報が多いのだ。だから、何度も観察しているのかもしれない。今は、風に揺れた髪を耳へかけながら、相談相手の男について何かを考えているらしい。
そして俺は、その横顔を見ていた。恋というものは、まだ分からないが、本当の名前のない自分には、名前のない感情が一つ増えたところで、大した違いはないようにも思えた。ただ、レナが考えている事を知り、また突拍子も無い言葉で笑わせてくれるなら、⋯⋯それ以外にも、同じ感情を持って心が動く体験ができるなら、感情を学ぶことに意欲が湧いた。
次回も2日以内くらいで投稿予定です(予定)。
ちょっとだけミステリー要素入ります。
9/12追記
ちょっと時間かかってます、人間の描写って難しい⋯⋯!




