黒板と絵本
聖王伝 第26話 美味しいお昼ご飯をいただいた後も、僕の座学の時間は続いていた。午前中に引き続き、ガッハさんによる読み書きの指導だ。「よし、カレハ。午後からは少し趣向を変えよう。メディ、あれを出してやれ」ガッハさんに促され、メディさんが「じゃーん!」と効果音を口にしながら、一冊の薄い本を取り出した。「せっかくワカバちゃんもいるんだしね。街の商店で見つけて買ってきたんだ。すごく簡単な絵本なんだけど、二人で読んでみて!」本は、この世界では信じられないほど高価な品だ。それこそ金貨が何枚も飛んでいくような貴重なものを、メディさんは惜しげもなくワカバのために用意してくれたのだ。案の定、絵本を受け取ったワカバは目をキラキラと輝かせ、またたく間にその世界へと夢中になっていった。(メディさん、本当にありがとうございます……!)心の中で深く頭を下げながら、僕は自分の勉強へと意識を戻す。それにしても、ガッハさんの教え方は本当に分かりやすい。無手格闘術があれほど強くて、規格外の神聖魔法まで使えて、その上これほど頭が良いなんて。さすがは各国を渡り歩く、一流探索者チーム『黒鷹の翼』のリーダーだ。知れば知るほど、ガッハさんへの尊敬の念が胸の中で膨らんでいく。午後の講義は、主に探索者の仕事で実際に使う専門単語や、ギルドの依頼書によく使われる言葉を中心に進められた。魔物の名前や素材の名称、地形を表す言葉など、初めて見る複雑な文字も多くて確かに難しい。だけど、感覚を研ぎ澄ます気配遮断の訓練とは違って、座学は「覚えれば覚えるだけ前に進む」のが実感できる。自分の知識が着実に増えていく感覚が心地よくて、自然とやる気が湧いてきた。結局、今日のお勉強の時間が終わるまで、テイラーさんが訓練所に姿を現すことはなかった。領主様からの依頼で、ベースキャンプの防壁を作りに行っているのだろう。あの圧倒的な大規模魔法を思い出しながら、僕はふっと一息ついた。「よし、今日の座学はここまでにするか」ガッハさんが黒板に文字を書く手を止め、満足そうに頷いた。そして、僕の前に立てかけられていた小振りの黒板二つと、白いチョークの束を差し出してきた。「これで家でも復習ができるな、カレハ君」「えっ、これもいただけるんですか?」「ああ。それに、メディが買ってきたその絵本も持って帰るといい。ワカバちゃんも随分と気に入っているようだしな」ガッハさんの言葉に、僕は嬉しさと同時に、少しだけの後ろめたさを覚えていた。黒板にチョーク、そして本。どれも一般の家庭が簡単に手に入れられるものではない。(ああ、これを持っていったら、母さんが『またそんなに高価なものを……!』って申し訳なさそうにオロオロするのが目に浮かぶな……)それでも、お二人の温かい厚意を無駄にするわけにはいかない。僕とワカバは背筋を伸ばし、声を揃えて精一杯のお礼を述べた。帰り道は、メディさんが家まで送ってくれることになった。夕暮れ時の道を三人で歩き、我が家の扉を開ける。「母さん、ただいま戻りました! あのね、ガッハさんとメディさんから、勉強用の黒板と絵本を買っていただいちゃって……」僕が恐る恐るお土産を差し出すと、母さんは一瞬で目を丸くした。そして、僕の予想を寸分違わずなぞるように、手をあわあわと動かしながらオロオロし始めた。「まあ! そんな、カレハがお世話になっているだけでなく、これほど高価なものをいただくなんて……! どうしましょう、申し訳なくて……」すかさずメディさんが、屈託のない笑顔で母さんの肩をぽんぽんと叩く。「お母さん、気にしないで! カレハ君もワカバちゃんも、今日一日すっごく頑張ったんだから。これはそのご褒美だよ!」メディさんの明るいペースに巻き込まれる形で、母さんの緊張も少しずつ解けていった。そのまま「せっかくだから食べていって」という母さんの誘いで、メディさんも一緒に我が家の食卓を囲むことになった。少し前までは、こんなに賑やかな食事を想像出来なかった、今は頼りになる先輩たちに囲まれ、温かいご飯をみんなで笑いながら食べている。お腹いっぱいになって眠る前、僕はふと思った。――まるで、夢のような一日だったな。心地よい疲労感に包まれながら、僕は明日への希望を胸に、ゆっくりと目を閉じた。




