特別編:父と母の馴れ初め(6)
絶望に沈んだ私の耳に、静かで優しい声が響いた。程よく低くて、胸を震わす温かな声色。
コツコツと靴の音が響く。
部屋に入ってきたのは男性のようだ。継母と伯爵が釘付けになっているのが分かる。でもわたくしは、顔を上げられなかった。男性のことを気にしてる余裕もないほどに追い詰められていた。
ここから逃げる術はないの?逃げたとしても、行く場所なんて……。
ああ、もういっそ、
死んでしまおうかしら………………。
「アンナ・ラルッツェ様。」
目を閉じたその時、名前を呼ばれた。気づけば艶々と光を反射する革靴をはいた足が、私の横で止まっていた。
ゆっくり顔を上げるが、涙で滲んでよく見えない。私の横に立つ男性が、わたくしと同じ金髪を持っていて、みるからに上級貴族であろう礼服を身にまとっていることは分かった。
「アンナ・ラルッツェ様、私は、」
「べドフォード公子様!何故ここに!?」
後ろで継母がそう叫んだ。
それを聞いた瞬間ペンを取り落とす。カンっと音が鳴った。
目の中に溜まっていた涙がこぼれ落ちて、視界が開ける。
わたくしに真剣な顔を向けておられたのは、金髪紫眼の、息が止まってしまいそうな程に美しい方。
べドフォード公子様だった。
何故、公子様がわたくしなんかに……?
会話はおろか、お会いしたことすらない方がわたくしの名前を読んでいる。
「男爵夫人、使いの者に伝えておいたはずですが。アンナ・ラルッツェ殿にお会いしたいと。」
公子様が私の背後に目をやった。
夢でも見ているのかと思った。公子様が、わたくしに逢いに来ていた。つまり、グローリオ伯爵との話は、なくなるかもしれない…………。
横に立つこの方に対して、嫌悪感は抱かなかった。むしろ、目が釘付けになって離せない。
「べドフォード公子様が目にかけていたご令嬢でしたか。これは失礼。そ、そういうのは、先に言っておいて貰わないと困りますなぁ。男爵夫人。あの件は無かったことに。」
「えっお、お待ちください!グローリオ伯爵!?」
グローリオ伯爵がたまったもんじゃないというようにすごすごと部屋を出ていく。継母が立ち上がる音がした。
「べッ……べドフォード公子様!?何かをお間違えでは?その子はローズではありませんよ?地味で小汚い、ラルッツェ家の汚点……」
「勘違いするな。」
冷たい声が響いた。先程までわたくしに向けられていた熱の篭った瞳ではなく、冷えきった瞳だった。継母が息を飲んだのが分かる。
ばんっとドアが大きな音を立てて開けられた。入ってきたのはローズだった。
「どういうことですか!?公子さま?私がローズです!その子は!」
「アンナ・ラルッツェ様」
公子様がまだ椅子に座っているわたくしにひさまづく。ローズの事など眼中に無いようだった。
いつもなら慌てて立ち上がるところだけれど、体が動かなかった。公子様の透き通った紫の瞳に、もとの熱がともり始める。
手を優しくとられ、そのまま握られた。
目を見開いて、甘さを含んだその目を見つめる。
「私はアーサー・べドフォードと申します。一年前からあなたに恋をしていました。
どうか私と、結婚してくださいませんか。」
「………………ぇ……」
足の指先から頭の頂点まで、痺れが走った。なぜだか私の手を握るその指を、握り返したい衝動に駆られた。でも、力が入らない。
きっとわたくし今、ひどく滑稽な顔をしているわ。涙でぐちゃぐちゃなのに、こんなに食い入るように見つめてる。でも、動けない……。
時が止まったようだった。継母やローズのことなんてどうでもいい。ただこの人の、私の手をとるこの人の、私がいつでも振り払えるように僅かな力しか入れられてないこの指が、大切で大切で仕方がない。
胸が苦しくなる。喉の奥から涙が混み上がってきた。
この時私は、自分に沸き起こる感情を、ただ大切だ、としか言い表せなかった。
公子様の手を離せない。求婚してくださったことが嬉しくて仕方がない。この人を、……私は、この人を…………
「みっ認めないわ!」
「ローズ!」
継母の制止も振り切り、髪を崩しながらローズが叫んだ。
継母の正しくない教育のせいで、ローズは分からないのだ。自分が選ばれないという意味が。
「どうして!?お母様言ったじゃない!公子様はあなたに一目惚れなさったのよって!なのに公子様がどうしてアンナなんかに求婚しているの!?なんでよ!?」
血が凍る思いだった。べドフォード公子様の前でなんてことを……。
「公子様、申し訳ありません。妹が無礼な」
手を離して頭を下げたわたくしを見た公子様は慌てたようにわたくしが引っ込めた手を握り直した。
「あなたが謝ることではありません。」
そう言ってから立ち上がり、喚くローズと向き合われた。
「何を勘違いしているのかは知らないが、私が思いを寄せるのは、正真正銘アンナ・ラルッツェ令嬢だ。そもそもローズ嬢の顔も知らなかったが。」
「な、…………。な、何かの間違いですわよね?私よりアンナの方がいいだなんて、そんなこと、あ、あ、あるわけ……。」
「これ以上話すことは無い。不愉快だ。」
それからもう、公子様がローズの顔を見ることはなかった。公子様はかがんでわたくしの顔を覗きこみ、眉尻を下げて心配そうな顔をしながら言った。
「アンナ嬢さえ良ければ、今日はもう、べドフォード家へ連れて帰ろうと思っていたのですが……。」
べドフォード公爵家へ…………?
本気でわたくしを想われて、そして、気遣ってくださっているようで、わたくしが自分の提案に嫌だと感じていないか探っているようだった。
無意識の内に手が伸びた。無礼だと分かっているのに、こんなことをしてはいけないと分かっているのに、こうしていいんだと、自分のなかで何かが告げていた。
指先が公子様の頬に触れる。公子様は驚いて一瞬ビクッと体を強ばらせたが、わたくしの目が再度うるみ始めたのを見て、目を見開いた。
震える唇を必死に動かす。
もう嫌だった。もう疲れ切っていた。こんな家にいたくない。継母やローズの顔なんか見たくない。お父様なんて知らない。最低。
たすけて。誰か。もう、愛されたい…………。
「た、たすけて、くださいませんか…………」
「…………………………っ!」
公子様の表情が歪んだと思った瞬間、体に腕が回った。そのまま力強く、優しく、抱きしめられる。
「……っ……ふっ…………」
漏れそうになる声を堪えて、公子様の背に腕を回す。
もう、自分で自分を抱きしめなくてもいいんだわ。この人が、抱きしめてくれるから……
「大丈夫です。私が、守りますから。」
その声と共に抱き抱えられ、公子様はそのまま歩き始めた。顔をあげれば継母とローズの顔が見えてしまいそうで、公子様の肩に顔を埋め、縋った。




