第二百四十三話 交渉開始
7450年11月1日
結局、摂政殿下とヴァルモルト准男爵は特別列車を使用せずに自前の馬車でべグリッツに来た。
特別列車に乗ることで、ウィードまで乗ってきた馬車や馬の管理に人手が割かれ、只でさえ多くない警備の人数が一時的にも減ってしまうことを恐れたのだろう。
その御蔭で俺も昨日からゆっくりと体を休めることが出来、美味い飯も腹いっぱい食って体力もかなり回復した。
思考力についてももう心配はない。
昨日、騎士団本部から帰る前にアルソンの誕生を知っている全員に箝口令を敷くよう、わざと厳しく命じた。
当然の如く、アルソンの誕生について正式な発表は何一つとしてしていなかったが、狙い通り、俺の言葉を聞いた騎士は勝手に勘違いをしてくれたようだ。
すなわち、アルソンは何か障害を負って生まれたのが判明したか、生死をさまよっている、と。
遠回しに聞かれたそれに対し、肯定も否定もしなかったことも大きいと思われる。
貴族の子だろうが、乳幼児期に何らかの病気にでも罹ればコロっと死んでしまう事は珍しくはない世の中だ。
栄養失調で死ぬようなことが少ないだけマシなのである。
騎士は沈痛そうな表情を湛えて俺の命令を復唱すると隊舎へと向かっていった。
屋敷に戻ってからも家人や奴隷長屋に住む奴隷に箝口令を伝え、徹底するように命じた。
理由は、アルソンについて王国中央に知られたくなかった、と言うより、五体満足ではないと勘違いさせるか、非常に弱っていると思わせたかったからだ。
生まれちまったものはどんなに隠しても遅いか早いかという違いがあるだけで知られない、なんて事はない。
まして、ミヅチの妊娠についてはべグリッツの住人の大半は既に知っているし、それは今更どうやっても隠しようがない。
アルソンの誕生について正式に発表はしていないが、俺の奴隷や騎士団員などからある程度は漏れているに決まっているからそうそうな事では最早隠すことなど不可能なのだ。
要するに摂政殿下やヴァルモルト准男爵の遠慮を狙って、直接会わせたくなかったというだけ、と言うか、今回だけでもアルソンと接触して欲しくなかった、加えてあわよくばアルソンの誕生を知られずに乗り切れればいいというのが大きい。
何せ、アルソンの警備は未だに屋敷の門番をしている騎士団員を除いてはダークエルフの傭兵だけしかいないのだ。
戦力としては充分だとも言えるだろうが、もう少し警備体制が整うまでは誰も近づけたくはない。
それはそうと、殿下らがべグリッツに到着したのは夕方だったので、会談は明日の午後から行いたいとの申し入れには二つ返事でOKを出していた。
ついでに、念の為の意味も兼ねて摂政殿下やヴァルモルト准男爵には我が家への逗留を促してみたが、これは丁重に断られた。
会談相手の家に宿泊するなど、一軒の宿すらない余程の田舎でもない限りあり得ないからこれは当たり前だが、今の段階で断られたということは、彼らはまだアルソンの存在については耳にしていないと思われる。
その地を治める伯爵家の跡取りが生まれているなら、顔を見るという意味も含めて宿泊に応じる方が普通だからだ。
なにせ、初の子供である。
親としては自慢もしたいだろうし、その親と何らかの交渉に来たのであれば子供を褒めちぎって心証を良くしておこうと考えるのが大人というものだろうし、そもそも顔を見て祝辞を述べたりすることによる損などないのだから。
でも、レストランとかで食事をしたり、飲み屋にでも行ってしまえばアルソンが生まれている事についてはすぐに知られてしまうだろうな。
・・・・・・・・・
7450年11月2日
一夜明け、完全な本調子とまでは言い難いがほぼ完全に近いところまで回復することが出来た。
昨夜はミヅチと一緒にアルソンに行水をさせてやれたし、おっぱいを吸うアルソンを眺めながら飯を食うことも出来た。
風呂上がり、ソファで寛ぐ俺の腹の上で寝るところも見れた。
今朝は初めておしめを替えてやったし、思う存分抱きしめてやれた。
そうこうしているうちに時刻は一〇時を過ぎた。
流石にもうそろそろ行政府に行かなくてはならない時間だ。
後ろ髪を引かれる思いで屋敷をあとにすると、行政府庁舎に向かう二〇〇mの間に気持ちを切り替える。
まずはいつもの生活に戻すためにしなければならないことから考えよう。
明日からはランニングとトレーニングについて俺だけでも再開する。
ミヅチは産後の肥立ちもあるので来月からにすると言っていたが、まだ早すぎないかな?
決裁が必要な書類はどの程度あるだろうか?
残っている大部分はそれなりに判断が必要になるものばかりの筈で……。
来年四月から刷新することになる騎士団の編成……この際だから一般の従士と騎士の予備要員の従士とは名称を分けた方がいいだろう。
歩兵たる一般の従士はそのままに、士官たる騎士を目指す事になる者は……従騎士とかはどうだろうか?
駄目だろうなぁ。
それじゃ単なる騎士の従者みたいな感じだし、そもそんな言葉ないし。
もう面倒くさいし、いっそ日本語そのまま候補生とかで良いような気もする……。
敬礼をしてくる行政府の門番に答礼し、庁舎に入った。
執務室の椅子に腰を下ろしたそばから職員が続々と決裁書を持ってやってくる。
流石に俺の回復を待っていただけあって、一応は俺が目を通してちゃんと判断しなければならないものばかりだ。
大半がべグリッツに住む俺の従士……この領主の従士ってのもいい加減変えるべきだ。
素直に家臣でいいじゃねぇか。
……って良くはないか。何しろ、家臣たる従士こそステータスに“従士”って出ちゃってるからなぁ。
こうなると、軍の方の従士をこそ変えるべきだろう。
歩兵の方は歩へ……将来を見据え……いっか、普通に歩兵で。
騎士は……今後は騎士位に叙された者でなくとも騎兵になる事を見越して今までの騎兵ではなく騎兵にしようか。
えーっと、なになに?
“納税は全部現金でいいですか?”
いいに決まってるだろ。
“畑で育てる作物の七割を麦から綿花にしたいと考えています。ご許可ください”
はい許可。
“最近、隣のヘースが井戸を独占している気がします。何とかしてください”
これは調べてみないと何とも……とりあえず棚上げ。
“犁を増やしてくれると嬉しいです”
う~、バークッドみたいに牛馬を農作業に導入したばかりだから農具の取り合いになっているのは知っていた。
まぁ、今度騎士団用にスコップとか作るつもりだったしついでに作ってやるか。
とかなんとかやっているうちにあっというまに時刻は昼になり、ギベルティが弁当のサンドイッチを持って来た。
それを食いながら秘書のサミュートに応接室の用意は終わっているか確認する。
そして今、行政府の応接には俺と摂政殿下、ヴァルモルト准男爵の三人が座っていた。
サミュートにクソ高いレイダー産のお茶を人数分淹れさせ下がらせたところである。
座席については殿下が奥の上座で、准男爵が入口に近い下座、そして俺が彼ら二人の間に置かれたテーブルの脇に一人掛けのソファを持ってきて座っている。
殿下の顔色を窺いながら順を追って説明する准男爵の言葉に、俺は適宜質問を織り交ぜながら要求を聞いた。
簡単に言うと、再来年の雪解けと同時に王国北方に駐屯させている部隊をジュンケル侯国に攻め入らせようという作戦があるのだが、兵力が足りないから、お前のところから四個中隊分を来年末までに北方に異動させる。
その代償に安全保障費を現在の三割から二割五分にしてやろう。
という内容だ。
「なるほど。ご要求については理解いたしました。ですが……いえ、まず最初に一点確認させて頂きたい。今回のご要求は西ダートの地を治めるリーグル伯爵に対してのものでしょうか? それとも、王国南方総軍司令官に対してのものでしょうか?」
「その両方です」
俺の質問にヴァルモルト准男爵は即答で返した。
摂政殿下はというと、無表情な中にも准男爵への叱責のような視線を送っている。
あ~あ。ま、俺には関係ないし。むしろ好都合だし。
「では、その条件での承服は致しかねます」
俺の言葉に准男爵は若干不満げな顔つきをした。
まぁまぁ、落ち着いてくださいよ。
すぐに種明かしをするからさ。
「その理由を申し上げます。まず、現在西ダートには王国第二騎士団から三個中隊、第四騎士団から一個中隊の計四個中隊に駐屯して貰っていますが、これを全部異動させるとのご要求はあまりにも無体。ご要求を容れれば我が領を守る兵力は限りなくゼロに近くなってしまいます。にも拘わらず、安全保障費は値下げすれど支払い続けろというのは、話にもなりません……」
准男爵としては俺の領地に駐屯する兵力を引き抜こうというのだから、領主である俺、そして、南方総軍を預かる司令官としての俺の双方に対しての要求、と考えたのだろう。
間違ってはいないが、ものには順序がある。
まずは軍の異動なのだから領主ではなく南方総軍司令官としての俺に“国王陛下からのご命令”として伝えるべきだった。
だとしても勿論、俺には拒否権があるが、総軍を預かっているのだから、その職責である王国南方の国境警備に支障を来す程でない命令には従う義務があるので出来る限りの便宜を図らねばならない。
なにせ、総軍司令官といえども国家にとって見れば地方軍の司令官職にある一介の軍人にしか過ぎないのだから。
南方の国境警備と北方への侵攻のどちらが国家にとって“より重要”であるのか判断は俺ではなく国王陛下にしか出来ない。
恐らく、目の前で苦虫を噛み潰している摂政殿下やヴァルモルト准男爵を含めてロンベルト王国の上層部は全員、将来的に俺が王国からの独立を目指している事を知っているのだろうし、その条件についても国王から聞いているだろう。
だからこそ、“西ダートの領主であるリーグル伯爵”に対してもまず“要望”という形で伝えなければ、と考えたのだと思われる。
これは俺が来年にもダート平原北部全体を治める侯爵へと陞爵する予定であることを知っているから、と言い換えることも出来る。
俺にとっては厳しい要求だが、どうしても兵力が必要になったためにこうした交渉を行わざるを得なくなったのであろうから、まぁ、正直なところでは聞いた瞬間から断ることは出来ないだろうと思っていた。
だが、唯々諾々と従うのも悔しいし、癪に障るのでせいぜい対価を大きくする努力をするしかないのだ。
その一環としての対応だ。
何しろ、南方総軍司令官はともかく“西ダートの地を治めるリーグル伯爵”としてはこの地に駐屯する軍についてしか言及できないからね。
ある意味で誘導尋問に近いがそれに引っかかったのは向こうである以上、最大限に利用させて頂く他はない。
オブザーバーとして同席している摂政殿下は最初の俺の言葉にそういう意味が含まれている事に即座に気がついたようだが、肝心の准男爵はオブザーバーに意見を諮る事なく即答してしまった。
俺にしてみれば、完全な拒否が出来ない以上、殿下に対して「困難な交渉相手だぞ。それなりに大きな代償を覚悟してくれ」と牽制球を投げ、准男爵に対しては「致命的にならないうちに小さな失敗を踏ませ、用心させる」という意味もある。
まぁ、准男爵は国王から無視された時にいろいろと世話になった事もあるし、知らない仲じゃないからね。
「いえ、王国が要求しているのは西ダートに駐屯する兵力に限りませ……」
どうやら准男爵は失敗を悟ったらしい。
尻すぼみになる声とともにびくびくとした感じで俺から殿下へと視線を泳がせた。
「少し意地悪な申しようでした。お詫びします」
ちょっとからかっただけだよ、という感じで肩を竦めつつ微笑んだ。
そしてすぐに、
「ご要望につきましては可能な限り添いたいと存じますが、合計四個中隊は流石に厳しいですから、すぐにどの中隊を出すと決めるのは難しいですね。その人数では穴埋めも一朝一夕には行かないですし」
と続けた。
「それは理解しているつもりです。しかしながら、事はジュンケル侯国を併呑するためです。ならばこそ、そこを曲げて、先の条件で手を打って頂きたいのです。こちらから兵を異動させられれば、それだけ北方部隊が楽になりますし、解決も早まりましょう」
准男爵の言葉に無表情で頷きながら、どうしたものかと考えていた。
何せ、先日ちょっとだけ聞いた内容からは予想だにしなかった大量の引き抜きなのだ。
せいぜい二個中隊くらいかと思っていたのに、その倍の要求とはね。
あ。
そう言えば、駐屯兵力のうちで主力は第二騎士団の所属だ。
今でこそ南方総軍という形で俺の隷下に組み込まれているが、元々は准男爵の部下なのである。
彼にしてみれば長年手塩にかけてきた部下たちだ。
面白くなかったのかもしれない。
いや、きっとそうだ。
でもさぁ、そればっかりはどうしようもないよねぇ。
それはそうと、交渉の叩き台として提案されたのは安全保障費の値下げだけだ。
税収の三割から二割五分とは大幅な値下げだが、それにしても流石に少ない。
こちらの要望についても申し伝える必要があるだろう。
「いえいえ、頭をお上げください。こちらとしてもご提示頂いた条件では難しいと申し上げているだけですから……そうですね、もう迂遠な言い方は止しましょうか。陛下とは今後最長二〇年に亘り今のままの兵力をダート平原に駐屯し、その後、その前かも知れませんが、私が独立国を打ち立てた後もその半数は残して下さるとお約束いただきました。代官を始めとする官吏は三〇年ですが、こちらは兵とは異なり、最長でも三〇年で全員お返しせねばなりませんが、同様にお約束いただいております」
この話は二人共当然知っていたようで揃って首肯してくれた。
「また、こちらもご存知の通り安全保障費は税収の三割という事になっております」
お茶を一口含み、間をおいた。
「そしてダート平原には現在名目上、第二騎士団より合計九個中隊、第四騎士団より五個中隊の、合計一四個中隊が駐屯していますが、コミン村に駐屯していた二四三中隊は後方で再編中のため実質は一三個中隊が駐屯しています。その他、現在はザーム公爵騎士団から二〇〇名あまりの兵力をお借りしてございます」
二人共頷いて俺の話に耳を傾けてくれている。
「ここから四個中隊となると、ザーム公爵騎士団の兵力を一個中隊相当と見積もっても一四個のうち四個、三分の一近い兵力の抽出となります。割合にして二割八分以上、三割に迫る勢いです。それに対し、王国からご提示頂いた条件が安全保障費の三割から二割五分への値下げです。今までお支払いしていた三割を一〇〇としたら僅か一割七分の低減にしか過ぎません」
分かりやすく数字を交えて言っただけあって、王国側が結構な無理難題をふっかけていることに自覚……そんなことはハナから分かって言っていたようね。
でもさぁ……。
「これは些かご無体な条件であると申し上げざるを得ないでしょう。ああ、勿論、安全保障費の値下げを抽出兵力相当の二割八分よりも多く、というのは最低条件ですし、これだけでは失う兵力の補填にはとても足りないのは明白です。従って、安全保障費については傭兵や促成での兵士の訓練費用なども鑑みて最低でも今の金額から四割は引いて頂きたいものです……」
こちらとしては当然の要求だ。
ついでに言えば、ここが本当の最低線で、これから付け加える条件のうち、どの程度を飲んでくれるかによって抽出可能な兵力の数も変わってくる。
「付け加えて申しますと、新規に揃える兵が相応の練度を得るまでには当然ながらかなりの期間を要します。それを考慮いたしますと単純に安全保障費の値下げだけで応じられる性質のものではない事はご理解いただけると存じます。従いまして、私と致しましては、何か別の物でもご提示頂かない事にはすんなりとは承諾致しかねます」
この日の交渉は平行線を辿った。
が、なんとなく要求された兵力である四個中隊よりも減らして良さそうな感じも受けた。
これは、今日の成果と言えるのだろうか?
それはそれとして、この様子だと安全保障費以外の条件について、まず最初にこちらに喋らせたがっていると思われる。
それについては急な話なので明日までに考えるという事で今日のところは交渉を打ち切った。
さて、どうしようかね?
条件なんざ幾らでも考えられるが、流石に現実的な落とし所は必要だろう。
俺としてもあまりに過大な要求をするつもりもない。
何せ、デーバス王国はダート平原における兵力の立て直しに躍起になっている所だと聞くし、最低でも二年位は向こうから仕掛けてくるとは考え難いからね。
デーバス側に限るが侵略して得た領地の切り取り放題とか、サミッシュ地方に封ぜられているヨーライズ子爵を何とかしたいとか、麻薬の撲滅だとか、王都に本店のあるグリード商会について、独立後もそれを安堵して貰うだとか、他にも得たい物は唸るほどある。
交渉する時間も、部隊が移動する時間を考慮してもあと半年以上もあるからゆっくり詰めればいい。
とはいえ、摂政殿下はともかくヴァルモルト准男爵は忙しい筈だから、どんなに余裕を見ても年内には陛下へ報告しなければならないだろう。
引き伸ばして焦らせるのも一つの手段だろうが、そのあたりはオブザーバーとして摂政殿下がおわす以上、あまり有効な手段にはならないかも知れないな。
ま、俺としてもこんな話はさっさとカタをつけたい。
まだどの中隊を差し出すのか考えてもいないが、兵力が減るのは確かなのだし、その分についての補填を考えて実行する時間も必要だ。
明日明後日には相応に進行させて、一応の落とし所の目処くらいは付けねばならないと思う。




