皇女のわがまま
安易に激発した自分が恥ずかしかった。実力の不足ではなく、軽率さのために敗れた。
もっとも、あの場で何を言っても人事は覆らなかった——そう考えることで、どうにか自分を納得させるしかなかった。
「イェーゲルシュタットの高射師団だとさ」
「イェーゲルシュタットか」
波立つようなアウグスタの笑い方は単にエルヴィンを嗤ったものではなさそうだった。
「何がおかしい」
女は真顔に戻った。
「私の生まれ故郷だけど。言わなかったっけ」
エルヴィンは腕を組んで、窓に頭で凭れかかった。
「で、左遷先でどう立ち回っていくつもり」
考えたくもない指摘に対する苛立ちが、瞬時にエルヴィンの言語野を突き上げた。
「知るか」
お茶を濁す、というにはあまりに乱暴であったが、今日は胸中を満たす感情の大きさで正常な判断を下せる気がしなかった。
「そう」
アウグスタは瞬時に表情を硬化させた。その顔を見てエルヴィンの胸中の締め付けはますます強まったが、今は何も言ってほしくなかった。ただ受け止めてほしかった。
それを言い出せない自尊心が、沈黙の形で二人の間にわだかまった。
何も話さないままにエルヴィンは駅で車を降り、一三〇〇キロ南のブラウメンブルクへと向かう。Uバーンを使えば一時間程度で着く距離だった。
地表からの高さ八百メートルの低価格アパルトメントの中層階にエルヴィンは住まう。戦時階級は給与に紐づかず、職位に対する手当があるくらいでエルヴィンの給与水準は正規の階級である少佐のままであった。
何か月ぶりの帰宅か思い出すこともできなかった。ポストには家を空けている間に投函された書類に交じって茶色の封筒が入っていた。その蝋印を目にしてエルヴィンは、ひったくるように封筒を手に取った。
ミヒャエルが顔も合わせずに手紙を届けてきたことはこれまでに一度もない。それほどの切迫した何かだというのか。部屋まで戻る時間すら勿体なくて、エルヴィンはせわしくその場で封筒から手紙を取り出した。
“大公派は、クーデターを選択肢に入れているようです”
日頃の妹からの手紙では到底目にすることのない“クーデター”の文字が目に留まり、エルヴィンの意識はその文字列に吸い寄せられた。
“ヨーゼフは帝都の陸軍の大半は大公を支持していると言っていました。もし皇太子殿下が継承権放棄をしなければ、彼らは武力で権力奪取を挑むかもしれないと”
エレベーターの中で一人、エルヴィンは壁に寄り掛かった。
もしジギスムント大公がクーデターを起こし自ら帝位に就けば、エルヴィンはマグデブルク家どころか帝国全てを敵に回すことになるのか。
エルヴィンが軍人としての立身出世に求めたのは、マグデブルク家を打倒するという漠然たる未来に妄執したものだった。その現実性は? と己に問うた先の空虚を直視したくなかった。
だがある時を境に、宛なき荒野に道が敷かれた。父が大公の長男との縁談に賭けているのは、帝位簒奪によって得られる外戚という地位。その前提を崩せば、婚姻の理由自体が消失するではないか——
「少佐さんの妹って私の従弟と結婚しようとしてるんでしょ。義理の家族になるね」
一昨年、シェーンバウム離宮の水の間で開かれた祝宴の儀、初対面の場で皇女エリザヴェートはエルヴィンに語った。
「そうなれば喜ばしいですがもう私は実家と縁を切っていますから」
言い方が冷淡すぎたかな、とエルヴィンが後悔するより早く皇女は再び口を開く。
「皇后すら輩出することになるかもしれないお家なのに」
「エリザヴェート様」
硬い表情になって侍従武官の中尉が制止する。
「しかし皇女殿下が将来の女帝陛下になられます。マグデブルク家から皇后など……」
四歳年下の皇女の聡明な物言いに感心しながら、エルヴィンはそれでも社交辞令じみた反論をした。
「でも、それを目指すから婚姻を結んだのではなくて? マグデブルク家みたいな高貴なお家のご令嬢と、わざわざコンラートが縁を結ぶ意味はないと思うけど」
このとき、エルヴィンの中で二つの問題が結び付いた。全方位を茨に囲まれた隘路の行き止まりの先に道が開けた。皇太子への正統な継承を守ることが妹を救うことにつながる。大公に帝冠を渡さなければ、父がこの縁談に求めたものは失われる。外戚になれないなら、落ち目の大公家を相手にマグデブルク家が執着する理由はない。
その先に妹の自由があるはずだった。エルヴィンには、そこへ至る道筋が初めて見えた。
銀河帝国の政治史における分水嶺の一つとなる“水の間の変”、爆弾が炸裂し、混乱に乗じた刺客の銃口が皇女に向けられる僅か二十分前の会話であった……
「畜生!」
エルヴィンはエレベーターの壁を殴りつけた。
彼自身がより大きな権力を持ち、妹を救う手立てを得る最良の機会であった。海軍中将に昇進し、数万の将兵を従えて巨大な艦隊を動かす。そして数に勝る連邦軍の艦隊に軍事的勝利を収めた。
だというのに、顔も合わせたこともない奴らが裏で引いた糸に足をすくわれ、勝ったのに左遷されようとしている。イェーゲルシュタットの地上部隊など、いったいどうやって戦果を挙げられるというのか。ヴィルマがどんどん遠ざかっていく。
手が震える。視界から彩りが消えてゆく。廊下に響く自分の足音が鼓膜にこびりつき、焦燥と悔悟と憤怒がエルヴィンの心臓を早鐘のように打ち、締め上げた。
どうすればいい。何を間違えた。誰が敵なんだ。このままじゃ……
「酷い顔してる」
九七階の自分の部屋の前で、一人の女が立っていた。
よく梳かれた髪は黒曜石で染めたように漆黒で、高貴さをうかがわせるヴァイオレットの瞳と言い、コートの下から顔を覗かせる白色の軍服と言い、この階層で待っているべき人物には感じられない。
「ロッテ」
エルヴィンは女の名前を呼んだ。歩み寄る歩調は数瞬前が嘘のように素早い。
「どうしてここに」
侍従武官は軍靴の踵を鳴らしてエルヴィンに向き直った。
「用があるのは私ではありません。エリザヴェート様です」
冷めて渋みだけが残った茶を含んだような感触を、エルヴィンの神経は覚えた。横を通り過ぎて部屋のドアへと向かう足取りが思わず硬くなる。
「殿下が」
足を止めてエルヴィンは問い返した。
「離宮でお話が」
「いつ」
「今から」
エルヴィンは嘆息した。帰ってきたばかりなのに。
「またケーニヒスシュタットまで戻れと」
「私だってここまで来たのです。それくらいは我慢して」
エルヴィンは首を一周回した。次の言葉までの時間を稼ぐように。
「——分かった」
一度開けかけた扉を閉め、歩き出したシャルロッテの後に続いてエレベーターへと向かった。
「エル、こんな遅くにごめんなさいね」
ルイーゼ宮殿に隣接し、皇太子一家が住まうシェーンバウム離宮。その一角“水の間”は普段帝室によって舞踏会や宴席が催される大広間であり、室内でありながら噴水が置かれていることが特徴的であった。その水音が話し声を遮ってくれることが、エリザヴェートがエルヴィンとシャルロッテの二人をここに招いた理由だろう。
エリザヴェートが足早に歩み寄って来る。エルヴィンの目に映るそのあまりに透明な純情は、帝室を嫌う彼にとっても彼女を嫌うのを躊躇させるものだった。
「ロッテから聞いたの。あなたが更迭されたって。前線で活躍していたというのにどうして」
「嫌われたのでしょう」
不貞腐れた口調でエルヴィンは返した。年下相手に大人げない、と自分を律する気にはなれなかった。
「不当な人事ね。すぐに撤回させるべき」
エルヴィンの口が無音のままに開いた。それをさせれば、皇女の権威を盾に人事を覆した若手将校として、今度こそ軍部を敵に回す。
「ですが——」
エルヴィンの予想通りシャルロッテが反論しかけたのを、皇女は一瞥で封じた。
「エル、あなたはイェーゲルシュタットの砂漠で朽ちさせるべきものではない。私からお父様と爺様に申し上げるわ」
「お待ちください、エリザヴェート様」
シャルロッテが諦めずにたしなめる。
「それではエリザヴェート様ご自身と軍部の対立を招きかねません。海軍省が受け入れるかは——」
「軍は主君に従うものではなくて? 勅命に反発するならそれは反逆でしょ」
エルヴィンとて、エリザヴェートが唱えるような原理原則で世界が回っていないことくらいは知っている。皇女の言葉は彼にとって救いとはならなかった。
「私を前線に送って、殿下以外に喜ぶ人間がいないでしょう」
たとえ今最前線に出たところで、補給を妨害されたり敵に情報を流されたりするかもしれない。何しろオルレアーンスでは直属の部下に裏切られたのだから。敵がどれだけ巨大なのかは分からないが、海軍卿が敵側なのだから相当に大きいのだろう。
エルヴィンの自嘲じみた言い種に皇女は鷹揚に首を横に振った。
「だとしてもイェーゲルシュタットなんて遠すぎる。たとえ同じ任務でも、ブラウメンでのポストはないの?」
辺境の星系イェーゲルシュタットを守る第五海軍高射師団と帝都星ブラウメンを含むヴァーレン星系全体の防空部隊を統括する第一海軍高射師団の重要性は比較にもならない。統帥本部直轄の帝都防空の要を冷遇できようはずもなかった。
「それは……」
だがエルヴィンは口ごもった。彼は艦隊の運用法しか知らない。対空砲や衛星砲台、基地飛行隊の運用を熟知しているはずもなかった。何より地表に縛られることが嫌で、イェーゲルシュタットよりマシとは言え宇宙で戦うことができない仕事を喜び勇んで請ける気が起きなかった。
「エルにブラウメンにいてほしいの」
言葉に詰まる銀髪の青年に、皇女は歩み寄って見上げた。
「エリザヴェート様」
シャルロッテの声は硬かった。
「それではクロネッカー中将があまりに帝室からの恩寵に浴しすぎたと批判を受けかねません。ただでさえあの時の二階級昇進があります」
エリザヴェートは一度だけ、ゆっくりと瞬きをしたが、意志が強く宿った青い光は諫言を意に介していない。
「知ってて言ってるの。だってそうしないと、エルは行っちゃうんだもの」
噴水の水音が、やけに大きく聞こえる。
「私、わがままだよね」
返事を待たずに、皇女は笑った。
「イェーゲルシュタットなんかに行っちゃったら、もう何年もエルと会うことなんかできない。私それは嫌なの」
潤った青い瞳が青年を見上げる。
「……殿下の御心のままに」
エリザヴェートの表情が瞬時に晴れた。
「よかった! せっかく近くなるのなら沢山会いに来てほしいわ」
エリザヴェートは跳躍と共に花のような笑顔を振りまいた。その姿が慰めになるのか、自分でも分からずエルヴィンは表情を崩すことができなかった。




