逢瀬
「ヴィルヘルミナ・フォン・マグデブルクのために、軍部全体と戦うつもりですか」
ケーニヒスシュタットの石畳を走る車の中。沈黙を破ってシャルロッテが口を開いた。
「何の話だ」
シャルロッテは一度エルヴィンに向けた視線を、再び窓の外を流れる景色に戻した。
「殿下の近くにあれば、あなたの率いる武力は大公派に対しての剣とも盾ともなります」
「何が言いたいんだ」
「分からなくて言っているの、それとも口実を得たいの」
窓枠に頬杖をついたまま、ヴァイオレットの瞳だけが青年に向いた。
「あなたが一人でどれだけ抵抗しても、今更ジギスムント大公の即位は避けられない。もしそれを高射師団一個如きで威嚇しようとするのなら、あなたが命を落とすことになる」
その言葉を思慕の余情と勘定するほどエルヴィンは夢想主義者ではない。
「大公が軍事力を背景に帝位を簒奪しようとしていると、そう言いたいんだな」
シャルロッテの言葉は、妹からの警告と重なった。エリザヴェートにも危害が及ぶ。それを承知で言っているのか。
「あなた一人が抗しようとすれば帝国軍全体が敵になります」
それほどまでに大公派の勢力が軍全体を掌握しているのか。エルヴィンの栄達を望まない勢力というのは、大公派に属する勢力だというのか。
だが相手がどれだけ巨大でも、大公が玉座に座ればエルヴィンがこれまで為してきた全てが無意味となる。門閥貴族の次男として何一つ不自由しない人生を擲ち、苦痛を甘受して今日まで戦ってきたのは、ひとえに妹を救うためだ。
「無法の帝位簒奪を止めて何が悪い。大逆罪だぞ」
「あなたが大事にしたいのは皇帝陛下でなくて妹でしょ」
にべもない言い返しはエルヴィンの急所を正確に突いていたが、声を荒げたい衝動を彼は理性の総力を挙げて抑え込んだ。
「皮算用の政略結婚だ。本人の意思など全く介在しない婚姻に何の正当性がある」
「この国では珍しいことではないと思うけれど」
「同じ立場になっても言えるのか」
シャルロッテが頬杖を外すことはなかった。
「私には兄も姉もいますし、家門の栄達の助けを期待されているわけではないので」
空気自体が凝固した滞留物のようになった空間の中で、エルヴィンは膝の上で拳を握り直した。
「未来の皇后になる。それを避ける理由があるとは思えませんけど」
「自由に選択できるお前と、その自由のない人間の違いだ」
シャルロッテの表情が硬くなった。
「少なくとも身の安寧は保証されますけど。結婚を阻止して、その後の彼女の一生にあなたが責任を負えるのかしら」
シャルロッテの目はエルヴィンの眉尻が持ち上がったのを見逃さなかった。
「救って、その後どうするのかも考えた方がいいと思いますけど」
「——妹もそれを望んでいる」
見通すような目つきをやめてシャルロッテは背もたれにもたれかかった。
「今は戦時。戦時には強力な指導者が求められる。皇太子殿下にもエリザヴェート様にも、荷が重いと思いませんか」
「失敗すれば大逆罪だ。それでも彼らを応援するのか」
「それはあなたにとって何か痛痒を覚えることなの」
一度できた溝が埋まることはない。その溝の広さ、あるいは深さをエルヴィンは見せつけられた気がした。
あの時手を取っていればこの溝は生まれなかったのか。言葉が喉に張り付いてエルヴィンは微かに開けた口を閉じ直した。自分のせいでできたそれを自分が望まずしてさらに広げ続けているかもしれないという自覚が、否が応でも彼の意識を支配している。
「本当にできると思っているの」
シャルロッテは問うた。
「あなたの身勝手な偏愛で、何人を殺すつもり。その果てに何が——」
「お前が知る必要もない。止めたいなら止めてみろ」
空気そのものが凍り付いたような鋭利な冷気がシャルロッテの白い肌を撫でた。
「そうですか」
勝ち目がない戦いなのだから、彼なら計算して退いてくれると思ったのに。方程式が崩れたことを、シャルロッテは悟った。
あなたに理性を期待しても無駄か。その頑迷さでは何も救えないというのに。
“ブラウメンの師団になるかもしれない”
一通のメッセージを飛ばし、エルヴィンはモバイルコムをソファに投げ捨てた。
開いた窓から摩天楼のネオンと共に冷えた空気が流れ込み、カーテンを揺らしている。バルコニーの床を叩く雨の湿った匂いが、大して広くもない部屋を満たしていた。
街全体のこもった残響が室内を滞留し、時間の流れが極端に遅くなったかのような錯覚の中で、回遊魚のように動き続けるエルヴィンは、僅かばかり立ち止まっていた。
ベッドから見上げる灯りのない室内の白い天井は青みがかって映り、風に揺れるカーテンに反射して波立つように光が動いている。
最後に海に行ったのはいつのことだっただろうか。あれはまだ八歳の時だった。ヴィルマが隣にいて、泳ぎなんて知らない妹の手を握って日焼けするまで遊び回った。そして振り返れば母の春の木漏れ日のような微笑みが……
あぁ、と嘆息が思わず漏れ出した。
彼の手には艦隊も、前線へ戻る保証もない。失ったもの、失ってでも取り返すと決めたものを追い求めるために彼の人生はあったというのに……
「おめでとう」
ソファの上で聞き慣れた声と通知音が鳴った。エルヴィンは飛ぶようにベッドから起き上がると投げ捨てたモバイルコムを拾った。浮かび上がった立体映像の中には、彼の副官からのメッセージが映し出されている。
アウグスタの言葉が心からの賞賛とは思えない。皮肉かもしれなかった。
「お前はどうするんだ」
マイクに語り掛け、送信する。
返信を待って画面を眺めていたら、突然着信音が部屋中に鳴り響いた。
「こんな夜中に」
「話しかけてきたのはそっちでしょ」
エルヴィンの振りをアウグスタは無視した。
「それで、お前はどうしたいんだ」
「どうしてほしいの」
鸚鵡返しのような返事に、エルヴィンは唇を噛みながら窓辺に立った。深夜であっても不夜城の摩天楼の彩りが休眠することはなく、霧雨のヴェールの向こうでネオンやエンジンのバーナー炎が蠢いている。
「人事に俺は従うしかないが、お前がどうするかは自由だ」
「私にはまだあの師団の先任副官でい続けろってこと」
返ってきた声は外の雨よりも冷たかった。
「違う。好きに選べばいいって言っているんだ」
「そういう自尊心、好きじゃない」
にべもない返事に、エルヴィンはガラス窓の縁に額を当てた。外の雨の温度がそのまま伝わってくる。
「一緒に来てくれないと困る」
遠くのサイレンの音が木霊した。
「最初からそう言えばいい」
心なしか柔らかくなった声で、アウグスタは返事してきたが、次の言葉では引き締まっていた。
「一度出た人事の変更って、何かの思惑が働いたの」
彼女らしい感情の乗らない実務的な言い種は、時々エルヴィンを安心させる。
「分からない。殿下は俺に近くにいて会いに来てほしいと言っていた」
「そう。それで余計な反発が出ないといいけど」
アウグスタはよくそれを気にする。いつも通りどうでもいいと突っぱねたいところだが、直前に足をすくわれただけに、強気に言い返すこともできそうになかった。
「今から来れる?」
それは国家保安省の通信回線への盗聴を睨んだ言葉だった。全ての民間回線は国家保安省の監視下に置かれ、反体制的な文言が通信中に確認されれば検挙の対象となる。
「いいよ」
その一言で通話は切れた。
小さな部屋に合わせて置いたベッドは元々二人で寝ることを想定していない。だが買い替えるのも勿体ないからエルヴィンはそのまま使っていた。
シャンプーに甘い香水が混ざっている。それが今夜のアウグスタの纏う空気だった。
「結局何が話したかったの」
エルヴィンの二の腕に赤い頭を乗せて、アウグスタは問うた。
「シャルロッテを覚えてるだろ」
鼻で笑うような声と共に女大尉は枕に肘をついて身を起こした。
「情でも戻った?」
「捨てたのは向こうだ」
「ふーん」
アウグスタの豊かな赤髪がエルヴィンの視界を覆った。
「それで、元カノの名前を私の前で出して嫉妬でもさせたいの」
「違う、あいつと話した内容」
苛立ちのこもった声を前にからかうのをやめて、アウグスタはエルヴィンの胸に頭を乗せた。
「あいつは大公が武力蜂起すると言っていた」
「武力蜂起」
滑らかな胸板を摩りながら、アウグスタはその一言を繰り返した。
「大公が権力を欲するならその手段は合法的なやり口だと思っていた」
床の中での語らいには到底思えないほどに硬い話題を硬い口調でエルヴィンは語る。その滑稽さを今更アウグスタは指摘する気にもならなかった。
「武力で叛乱って、阻止ができるの? 勝算があるからその手に打って出るのなら、大公派の武力は相当なものがあると思うけど」
「あいつは自信があった。百パーセントの確信があるはず」
「でもあんたにとっては、大公が派手に叛乱を起こしてくれた方が都合が良いんじゃないの」
核心を突く台詞を淡白にアウグスタは口にした。
「確かに……」
窓から差し込む夜の光が反射する天井を見上げる。
「あぁ、奴に叛乱を起こさせ、それを打倒すればいいんだ」
これまで冷淡なほどに平坦だったエルヴィンの言葉に、初めて熱が入った。
「そうだ、そうすればあいつを……」
言い終える前に、アウグスタの指が唇へ触れた。
「ねえ、私のことも見てよ」
触れた素肌から伝わる熱と、合わさった胸の鼓動と、月下香と男物のシャンプーとちょっとの汗が混じった匂いが全てを満たす。
「私のこと、好きって言ってくれてもいいんだよ」
群青色の瞳と真紅の瞳、ふたりの視線が交錯する。アウグスタが答えを待っていることに気づき、エルヴィンは目をそらした。
「こんなことするの、お前だけだ」
満足とも不満足ともつかない顔で、アウグスタは両手をついて身体を起こした。長い赤毛が肩から落ちて、エルヴィンの視界を塞ぐ。
「そう、よかった」




