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消える部屋  作者: 長谷部祥子
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7.無かった事に

数日後の夕方。西日がアパートのひび割れた外壁を赤黒く染め上げていた。


祥子は部屋のカーテンを細く開け、窓ガラスに額を押し当てるようにして下の敷地を見下ろしていた。湿った夏のアスファルトの上に、二つの影が長く伸びている。


そこに立っていたのは、先日役所の窓口で応対したあの男性職員だった。手に持った分厚いバインダーに視線を落とし、固い表情のまま建物の外観や、二階へ続く鉄製の階段を見上げている。その傍らには、薄手の割烹着を着た立花富子が立っていた。富子の顔には、いつもの穏やかな笑みが浮かんでいる。


「わざわざご足労いただいてすみませんねぇ。暑かったでしょう」


富子の声が、夕蝉の声に混じって二階の窓辺までかすかに届く。職員は眉間に深いシワを刻んだまま、提出された書類と建物の柱の位置を交互に確認していた。

怒鳴り散らすわけでも、詰問するわけでもない。ただ、形式上の記録と目の前の現実との間にある歪みを、苦い顔で確かめているだけだった。富子も過剰な弁明や言い訳は一切しない。ただ問われたことに淡々と答え、物置の横にある配管の位置を指で示している。


しばらくして、職員はバインダーを閉じ、本日何度目になるか分からない重いため息を吐いた。そして、富子に向かってゆっくりと頭を下げた。


「……確認しました。また何かあれば連絡します」


それだけ言うと、職員は一度もこちらを見上げることなく、肩を落として夕闇の迫る路地へと去っていった。


その日の黄昏時。部屋の中にオレンジ色の光が残滓のように残る頃、ピンポンと玄関のインターホンが低く鳴った。


祥子がドアを開けると、そこには山岡老人が立っていた。廊下の薄明かりの中で、その黄色みがかった肌がいっそう病々しく浮かび上がっている。そしてそのすぐ後ろには、隣の部屋に住むボサボサ頭の男子学生が、バツの悪そうな顔で控えていた。


「長谷部さん」


山岡の声は、いつもの悠々とした掠れ声ではなかった。低く、地底から響くような険しさを帯びていた。


「市役所に言ったそうだな」


祥子は息を呑み、返せなくなった言葉を喉の奥で詰まらせた。


「……はい」


「なんでだ」


責め立てるような強い眼差し。祥子は胸の奥がキュッと締め付けられるのを感じながら、必死に言葉を探した。


「だって……部屋が、壁が……あんなのおかしいじゃないですか。人が亡くなった部屋を消すなんて……」


「分かっとる」


山岡は祥子の言葉を途中で強く遮った。拳を握りしめ、その骨張った指先がかすかに震えている。


「おかしいことくらい、ワシらだって分かっとるんだよ」


祥子は言葉を失った。


老人は息を荒くしながら、言葉を吐き出すように続けた。


「だがな、あの大家さんは、ワシらを追い出さなかったんだ。年を取ったから貸せません。持病があるから事故が怖くて無理です。保証人がおらん人間は身元が確かじゃないから駄目です。

……どこへ行っても、その一言で門前払いだ。誰もワシに屋根を貸してくれんかったんだよ」


山岡の握りしめた拳に、浮き出た青筋がピクピクと跳ねる。


「あの大家さんだけがな、『大変だったわねぇ』って言って鍵をくれたんだ」


沈黙を守っていた隣の学生も、うつむき加減のまま口を開いた。使い古されたスウェットの裾を引っ張りながら、祥子を静かに見つめる。


「俺も同じです」


学生の声は小さかったが、はっきりとした芯があった。


「デザインじゃないですけど、俺も地方から出てきて、親と喧嘩して飛び出してきたんです。学校に通うために、とにかく安い部屋を探してました。

でも普通の不動産屋なら、もっと駅から遠くて街灯もないところか、足の踏み場もないくらい古くて狭いアパートしかなかった……ここだから、俺は毎日大学に通えてるんです」


祥子は唇を噛み締め、反論しようと視線を彷徨わせた。


「でも……それはそうかもしれないですけど、騙してることには……」


「分かってますよ」


学生はぽつりと言った。


「普通じゃないってことくらい、分かってます。俺だって最初は壁の構造を知ったとき、めちゃくちゃ気味悪かったですよ。夜中に音が聞こえたら嫌だなとか思いましたし。

……でも、実際こうやって安い家賃を払って、普通に暮らせてるんです。屋根があって、寝床があるんです」


廊下の向こうから、ペタペタと軽いスリッパの音が近づいてきた。


「みんな、どうしたの? こんなところで集まって」


買い物袋を下げた立花富子が、階段を上がってきたところだった。山岡がハッと振り返り、少し表情を和らげる。


「大家さん……いや、長谷部さんと少し話していただけです」


富子は祥子の顔を見つめた。怒りの色は微塵もない。咎めるような冷たさもない。ただ、申し訳なさそうに、そしてどこか遠い目をして寂しげに微笑んだ。


「そう……ごめんなさいねぇ、長谷部さん」


意図せぬ謝罪の言葉に、祥子は激しく戸惑った。


「どうして……どうして大家さんが謝るんですか」


富子は買い物袋を小さく持ち直し、困ったように目尻を下げた。


「だって、知らない人から見たら、とっても変で、恐ろしいことをしているように見えるものね」


夜。蒸し暑い闇がアパートの廊下にたまり、遠くの幹線道路を走る大型トラックの重い排気音が、地鳴りのようにかすかに響いていた。


祥子は外廊下の手すりに肘を預け、隣の部屋から出てきた山岡老人に静かに尋ねた。


「立花さんは……昔から、ああだったんですか?」


山岡はすぐには答えなかった。胸ポケットから取り出した安煙草にライターで火をつけると、小さな炎が老人の黄色みがかった頬を瞬きの中で照らし出した。紫煙が湿った夜気にゆっくりと溶けていく。


「昔はな、ごく普通の大家さんだったよ。……旦那さんが生きておられた頃はな」


山岡は灰皿代わりに持っていた空き缶の縁を、トントンと指で叩いた。


富子の夫、立花正志。

かつて彼らは二人でこの小さな木造アパートを営みながら、地域の身寄りがない人々の相談事にも身を乗り出していたという。

家を借りようにも年齢を理由に拒まれる老人。身元保証人を立てられない単身者。持病や障がいを抱えて働くことが困難な者。社会福祉の網の目から、すり抜けるようにこぼれ落ちてしまった人々の姿を、正志は誰よりも近くで見つめ続けていた。


山岡は煙草を深く吸い込み、細く息を吐き出した。


「旦那さん、口癖のように言っとったよ。『住む場所がない人間は、最後には何もかも失ってしまう。仕事も、健康も、人間らしい心もだ。まずは頭の上に雨風を凌ぐ屋根がなきゃ、人間はやり直すことすらできんのだ』ってな」


しかし、現実はどこまでも冷酷だった。

いくら志が高くとも、善意だけでアパートという経営体を維持することは不可能だった。

ひとたび室内で孤独死や急死が起きれば、その部屋は「事故物件」の烙印を押され、何ヶ月も、時には何年も空室のまま放置される。

損失を埋めるために家賃を下げれば全体の収入が落ち込み、毎月の修繕費や固定資産税、銀行への融資の返済が重くのしかかる。たった一部屋の長期空室が、アパート全体の経営を傾かせ、他の住人たちの追い出しへと直結する致命傷になりかねなかった。


突然の病で夫の正志が亡くなった後も、富子は一人でアパートを守り続けた。そして、畳の擦れた匂いが残る誰もいない管理室で、途方もない思考を巡らせたのだ。


「亡くなった人が出た部屋」という世間の扱いが、今生きている残された住人たちの生活まで壊してしまうというのなら。

ならば……。

「部屋そのものが持つ意味を、構造ごと変えてしまえばいいのではないか」


最初はごく小さな改修に過ぎなかったという。痛んだ一部屋の壁を張り替え、間取りを少しだけ変更する程度の試み。しかし、試行錯誤を繰り返すうちに、それは一つの完成された「仕組み」へと昇華していった。


天井と床に埋め込まれたスライドレール、可動式の軽量壁、登記上の再構成が可能な区画設定。

人が亡くなった部屋を、負の遺産である「事故物件」としてただ孤立させるのではなく、建物全体という巨大な構造体の中に滑らかに吸収させてしまう方法。


祥子は手すりを握る手に力を込め、老人の横顔を見つめた。


「でも……それって、ここで亡くなった人の存在を、最初からなかったことにしているんじゃないですか」


山岡はゆっくりと首を振った。その瞳には、夜の闇よりも深い光が宿っていた。


「違うと思うぞ。少なくとも、富子さんはそんな冷たい気持ちでやっておらん」


老人は短くなった煙草の火を空き缶の底で消すと、小さく音を立てて息を吐いた。


「……むしろ逆だ」


山岡は静かに祥子の目を見た。


「部屋を消しているんじゃない。誰かが確かにそこで息をして、暮らしていた場所を、この建物の中にずっと残しているんだよ」

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